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あおやま・こうじ
1913年兵庫県神戸市生まれ。三高在学中に織田作之助を知り、東大文学部在学中に織田らと同人雑誌「海風」を創刊。戦後、教職等を経て本格的な作家活動に入る。『夜の訪問者』『青春の賭け』等の作品で私小説的モダニズムの作風を確立。またヤクザの世界を独自に描き出す。『修羅の人』(小説新潮賞)、『闘いの構図』(平林たい子賞)、『われらが風狂の師』『竹生島心中』等著書多数。日本文芸著作権保護同盟会長。 |
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『純血無頼派の生きた時代』
双葉社
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『砂時計が語る』
双葉社
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『美よ永遠に』
新潮社
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『ヤクザの世界』
ちくま文庫
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青山 この本の「文学放浪記」は東京新聞に連載したものです。それを読んで古山高麗雄さんが、三高がこんな面白い学校だったら、おれ、やめるんじゃなかったって(笑)。彼はとてもついていけなかったと言いましたけどね、あの学校は絶対に出ていけなんて言わないですよ。だって冨士正晴なんか一年生ばっかり四回やった。それで伊吹武彦先生が「どうしますか」と聞いたんです。「やめます」と答えたら「いや、やめなくてもいい」「いや、もう結構です」。それでやめちゃった(笑)。
鈴木 伊吹武彦、深瀬基寛、山本修二、高木貞二……この本には懐かしい名前がたくさん出てきました。高木先生は私が大学に入ったときの教養学部長でした。
青山 あの方は三高で心理学を講じておられましてね、昭和九年、僕が東大に入学したときに東大の助教授になられた。それでね、せっかく高木さんが来ているんだから単位を取らなきゃ損だ、三高の教え子だとあの人はちゃんと点をくれるからと仲間がいうんですよ(笑)。そんなこと言ったって、向こうは覚えてないだろ、と言ったら、なあに、答案に三高出身と書いたらいい。せっかく先生が東大に来ているのに利用しない手はないぞ(笑)。
鈴木 三高時代の仲間に織田作之助、田宮虎彦、森本薫などがいたんですね。僕は森本薫に夢中だったことがあります。『華々しき一族』に魅了されたんです。ジロドゥーを思わせる、フランス的な香りがあって。
青山 森本と織田は、後年ラジオで一緒に仕事をしたりしてますけれど、友達としてはつきあいにくかったようです。織田は会うたんびに、あいつは戯曲はうまいけど、おもろないやっちゃな、と言ってました。第一、文学青年のくせに学校にちゃんと行くんですよ、サボらないで。原稿も規則正しく毎日三、四枚と決まっているんです。最初の作品を読んで活字にしたのは僕ですよ、三高の「嶽水会雑誌」に。『ダムで』という短いものです。『女の一生』と同じように短いせりふがずらっとならんでる。こんなのを上演したら役者は忙しいな、いいのかなと思ったけど、あれで通したんですね。とにかくつきあいの悪い男だった。だけれど、ヤマシュウさんの家へはよく行ったんですよ。
鈴木 山本修二先生ですか。
青山 ええ。直接の担当教授なんです。『華々しき一族』はヤマシュウさん一家がモデルだって言う人もいます。あの女主人公は山本先生の奥さんで、つまり森本は先生の奥さんに惚れたんだというんですね。
鈴木 それは知りませんでした。青山さんは田宮虎彦とも同じクラスですか。
青山 田宮は隣のクラスで、私がいちばん親しかったのは織田作之助です。彼は初め戯曲を書いていた。
鈴木 小説に転向させたのは青山さんとか?
青山 いや、いくら戯曲を書いてもおまえのは板に乗らないからやめろと言っただけです。そしたら、小説を書きだして後に流行作家になった。
鈴木 野間宏の原稿を初めて活字になさったのも青山さんでしょう。
青山 ええ。織田は躍起になって反対した。彼に言わせると、こいつの文章はだめだ。
鈴木 僕もあの人の文章は苦手で、『暗い絵』や『真空地帯』はなんとか読みましたが、『わが塔はそこに立つ』は途中で我慢できなくなりました。
青山 読めないですね。その時は散文を三十枚くらい書いて持ってきたんです。僕は文章は下手やけど何か思想みたいなものがあるなと思ってね。僕の方が織田よりちょっと先輩ですから、織田は大抵のことは言うことを聞いてくれました。けれど合評会のときに喧嘩になった。冨士正晴は血の気が多いですからね、黙っていない。腕まくりして立っていた(笑)。織田は殴られたら喀血するおそれがあるから、おまえ、ちょっとのいとけというような騒ぎでした(笑)。それでも野間君はね、暗闇の丑松みたいに黙って座ってるだけ、自己弁護もなにもしなかったな。
鈴木 青山さんは『青春の賭け――小説織田作之助』のとき、友の青春の姿を追求することが結局は自分自身の青春を点検することになる。自分の文学と生き方を照射してくれる、というようなことを書かれましたが、今度のご本にも通じますね。
青山 そういうことです。『純血無頼派の生きた時代』というのは編集者がつけた書名ですけれど、どういうことかといいますと、七、八年前、京都へ行ったときに、何気なく祇園のいわゆる乙部のあたりを歩いていたんです。昔、伊吹さんなんかがよく行った備前屋というのがあって、そこへ行ってみようと思ったけど、何ぼ探してもないんですよね。街の形がもうすっかり変わってギラギラ光る雑居ビルみたいなのばかりになって、バーやキャバレーがぎっしり。ところがそれが織田や太宰さんがおった頃の裏町のギラギラと全く違う。考えてみたら、東京の銀座もやっぱり変わった。どこの街も変わった。あの連中がいま生きていたら本当に困るだろうな、行くところがないじゃないかと思った(笑)。あの人たちの生きていた時代と今の社会の間に、何か地殻変動みたいなものが起こっているんですね。それを実感したんです。あの人たちの生きていた時代というのはいったい何だったんだろう。僕自身にしても、今のような当たり前の人間じゃなくてヒロポン中毒でね、ヒロポンを打たなかったら作家じゃないと言われる時代でした。
鈴木 青山さんは純血無頼派の条件として、「純血のしるしは優れた文学作品が与えるコツンとした確かな手応えがなければだめだ」と書かれていますね。
青山 どんなことだと言われたら説明は難しいんですけれど、無頼派はともかく、純血の文学というのはありますね。谷崎潤一郎なんて紛れもない純血です。
鈴木 小説がうまいというのも条件ですか。
青山 そうです。うまくなきゃだめです。織田はほんの二つか三つ習作を書いて、ちゃんとものになりましたからね。だけど、あいつは早く死んだから、完成した作品を書いていませんよね。『夫婦善哉』だって同人雑誌に書いた小説ですから、編集者の目を経ていない。どの全集かに収録するとき担当者が、これはどう考えたっておかしい、ここをちょっと直してくださいと言うんです。僕にそう言われても困りますよ。でも、誰にも言いませんからと向こうも気が強い。このままじゃ作者のためによくないですと言われて、ちょっと手を入れたことがあります。僕が気になっているのは、太宰さんが僕に、織田君は小説はまだまだだけど死神を背負って走ってるみたいな姿勢は真似手がないね、と言ったことです。
鈴木 文学を志すからには、生活の常軌を逸しないようでは存在の意味がない、というようなことを織田作之助は言ったそうで、社会常識の中に収まりきれないということが無頼派のいちばんの条件のように思われていますね。でも太宰は育ちのよさからくるのか律儀なところがあるし、織田作之助は含羞の人ですね。その恥じらいの裏返しの表現がいわゆる無頼派的な生き方だったのではないか。このご本は太宰と織田が中心になっていますが、青山さんの目からは、壇一雄なんかは純血無頼派とは違うのですか。
青山 無頼派は無頼派でも、純血じゃない(笑)。
鈴木 どういうところが違うんですか。
青山 当たり前の男ですもの。純血無頼派は長生きしませんよ。安吾さんなんかも純血無頼派かもしれないけれど、しょっちゅう人をだましたり、なんか俗っぽいところがあるので、あまり純血とは言いたくない。太宰さんと織田は文句ないんですよ、純血無頼派として。
鈴木 青山さんご自身はどうなんです。無頼派の仲間でいらしたけれども、いちばん長生きしていらっしゃる(笑)。
青山 それだけでも失格です(笑)。僕を最後の無頼派だといって評伝を書きかけている女のライターがいるんですが、僕が死んだら売ろうと思ってたのが死なないもんだから、もうやめたんじゃないかな(笑)。「ポン中長生き説」というのがあるそうです。映画監督のマキノ雅弘さんも大いに愛用してもピンシャンしていたから、そのまわりの人が、青山さんはヒロポンで病気をみな追い出してしまったんじゃないかと言ってるそうです。でも僕は心筋梗塞の軽いやつを起こしてやめました。怖がり屋ですからね。
鈴木 やめられるところが、純血無頼派とちょっと違うところかもしれませんね。
青山 計算できるところが純血じゃない。我ながらイカサマだと思いますね(笑)。
鈴木 青山さんは「両手で書く」と言っておられ、作家として多角経営ですね。いわゆる純文学でないものも書かれましたが、中間小説は時代が要求したんですか。
青山 新聞に中間小説時評を連載したことがあります。ところが、相手がもの書き仲間でしょう、あんまりやっつけられない。ことに女の人は困るんです。褒めるとデパートから何か送ってきてね、やっつけると怒る(笑)。一年で音をあげてやめました。
鈴木 それで、ご自身で書き始めた?
青山 猛然とね、中間小説のいちばん上質のものをとこころざして書いたつもりです。僕はいわゆる純文学をあまり認めませんけれど、自分の考えている文学というのはあります。それはやっぱり今まで書いた純文学とか中間小説とか、そういうものを煮詰めたようなものです。三年ほど前に「新潮」に詩人キーツの評伝みたいな小説を書きましたが、ローマで死ぬ手前まで行って、実は女房が痴呆になりましてね、二人暮らしですから英語の資料を読む時間もなくなっちゃった。何とか施設に預かってもらって仕事を続けたいと思っています。要するに書いていればいいので、ジャンルなんかは、もう卒業しているんです。
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