『狗賓童子の島』の飯嶋和一さん
インタビュアー 石川淳志(映画監督)
「新刊ニュース 2015年3月号」より抜粋
── 新刊『狗賓童子の島』は、大塩平八郎の蜂起に連座した西村履三郎の罪により息子・常太郎が隠岐「島後」に流刑になって、島民とともに幕末の荒波の中を生きていく姿を描いた千二百枚の長編時代小説です。執筆の動機は何だったのでしょうか。
飯嶋 幸田成友先生の『大塩平八郎』が一番ポピュラーな研究書で、森鴎外も元本にして短い小説「大塩平八郎」を書いていますが、これを読んだ時に違和感があり、ずっと「大塩平八郎の乱」が引っ掛かっていました。元幕臣、奉公所与力の平八郎が二十数人を率いて蜂起したこの事件は、当時大坂市中の五分の一が焼かれ、奉行所がまるで役に立たず、幕藩体制が非常に脆くて滅茶苦茶だったことが判ります。二十年位前に森田康夫先生が西村常太郎の話を調べて書かれたものや、伊豆韮山の代官所から大塩平八郎の「建議書」が発見され仲田正之先生が本にしたものを読んで、この形なら書けるかもしれないと思ったのが始まりでした。
── しかしながら『狗賓童子の島』で語られる大塩平八郎の乱≠ヘ全体の十分の一程度で、物語自体は隠岐の島、島後での常太郎の暮らしです。
飯嶋 そのように読まれる事が自分としてはいいんだけれども、やはり執筆の動機は「大塩平八郎の乱」への拘りです。大坂で平八郎が蜂起した時、常太郎は数えで六つです。いくら河内きっての名主庄屋の息子でも、百姓分で侍ではないのに連座という形で十五歳まで親類に預けられ、隠岐に流されるのは酷い話だと思いました。その事実も含めて幕府にとってこの事件は脅威だった訳です。「たった半日で鎮圧された」で終わりという話じゃない。それまで満足に言えなかった幕政批判というものが、これ以後もろに出来る状況になった訳で、その辺も含めて全体で何か語れればという思いがありました。
── 本書を読むと、「大塩平八郎の乱」と五年後の「江州湖辺大一揆」が連動して徳川瓦解に繋がる歴史観が読み取れます。
飯嶋 常太郎本人は父親が何をしたのかを知らない訳ですから、誰かに語らせる必要があった。実際、近江の一揆はとって付けたような挿話ですが、近江の一揆の杉本惣太郎だけが首謀者の中で最後まで生き残り、判決落着を聞き、佃島に流刑されて死んだとされています。しかし、それは幕府が作った嘘だと思うし、そうであるなら裏を返せば惣太郎はどこへ行っても良い訳です。隠岐で惣太郎が常太郎と会って、大一揆の経緯を伝えていただろう、と。そこで常太郎は父親の挙兵の動機を知ることになります。もしこうだったら、というのは小説だから語れるし、書けることです。最終的には隠岐の島も全島蜂起みたいな形になるので、幕末から御一新までの時代の相関は全て繋がっていると思います。
── 物語は常太郎が隠岐の島に着く場面から始まりますね。常太郎の高潔な人柄はあたかも大塩平八郎が二重写しになります。
飯嶋 もちろんそうだと思います。履三郎も飢餓に直面した村民を目の前にした時にすべてを捨てて蜂起したわけですから、そういう思いは受け継がれていくと思います。また、隠岐という島は後鳥羽上皇や後醍醐天皇など政治犯が多かったので、それなりにポリシーのようなものを持っていたでしょうし、受け入れる島民の側にも文化みたいなものがあったのではないでしょうか。
── 島に着いた翌年、十六歳になる常太郎が、島後の御山の千年杉に初穂を捧げる役「狗賓童子」に選ばれます。いつしか常太郎は《山の聖なる力を感じるようになって》いきます。
飯嶋 私は田舎が山形ですから、遊びでしょっちゅう山に登っていました。やはり山に登れば聖なる力というものを感じます。千五百メートル位の山でも、山形は緯度が高いせいか植物が違って高い樹木がなく、別世界でした。常太郎は摂津の国の平野で生まれた人でしたから、山は遠望する程度だったでしょうし、特に島は海から突き出たような地形で、周りは海ですからパワーを感じることがあったでしょうね。
── 初穂を収めた後、「狗賓さんが舞っている」と夜空に《一面に白く光る大きな幕がかかっていた》とか、雷様が落ちた穴を掘って出てきた隕石のような石を貰ったり、龍宮使いとされる龍蛇(ウミヘビ)が浜に打ち上げられたり、小説の前半はどこか神話めいていて原初の物語の味わいもあります。
飯嶋 流星など、精神的な面で自然現象への畏怖の念が昔はありました。畏れの思いを失うと、いいことは何もないと思います。そういう意識が少しでもあればまた違っていた世の中になっていたのではないでしょうか。一面に白く光る大きな幕は、イメージとしてはオーロラです。隠岐の島で見えるかどうかはともかく(笑)、それが小説書きです。様々な自然現象に対する畏怖、畏敬の念が、黒船の来航で結果的に近代化を余儀なくされる。一番変わるのはそこだと思います。
── 島の医師・村上良準から医術を学んだ常太郎は、安政五年(一八五八)に島をコレラが襲った時に奔走します。
飯嶋 隠岐の島でコレラが流行ったという記述が一行あるので、常太郎がそこに居れば、何もしない訳はないだろうと、一応は調べます。島後の中心・西郷港は貿易で栄えていたし、当時は幕末ですから外国から薬も入ってきていたはずなので、薬品はその気になれば何とかなったのではないかと思います。
── 島民は過酷な状況でも皆逞しくおおらかなのに対し、役人や商人は卑劣な人物が多いですね。
飯嶋 多くの島民がそうであったように、茅葺の屋根、漆喰の壁、木の柱、あとは板と莚というのが、自然の恵みの中でしか生きられない当時の日本人の一般的な姿だったと思います。一方で商人や役人は得体の知れないことをやっている。大塩平八郎が、堂島で相場いじりをやっている奴らが湯水のごとく酒を飲んで芸人を呼んでどんちゃん騒ぎをして、何で百姓衆があんな目に遭うんだ、と言いましたが、今だって毎日地道に働いている人がいるのに、何で相場いじりをする人がいい暮らしをしているんだ、と思いますよね(笑)。
── 改めて、大塩平八郎の人物像についてどう捉えていますか。
飯嶋 岩波書店の日本思想大系に佐藤一斎と大塩中斎(平八郎)の一巻があります。「洗心洞箚記」という自分の塾のことを書いた部分で、繰り返し荘子を引用していて、荘子は自分を政府の要職に招聘しようとやってきた使者に「生贄の牛」の話をして、自由を拘束されることを断る話が出てきます。大塩平八郎も自分が祭り上げられて偉くなるよりも塾を開くことを選んだのですが、そんな人が何故蜂起したのか。大塩平八郎は救民という旗を持って出て行った。陽明学だなんだと言われているけれど、下からの目線の儒教思想の実践だと思います。当時そういう言葉はなかったけれども「生存権」、それを無視するなと言っているわけです。孟子に「民を視ること傷むが如し」とありますが、平八郎は民衆の事を考え、彼らの生存権を守ろうとした。搾取、搾取の連続ですからね。ある意味、悲劇であるわけですから忘れてはいけないと思います。森鴎外の「大塩平八郎」を読んで、何かが違うと私が思ったように、いつか後の時代に誰かが『狗賓童子の島』を読んで、大塩平八郎を書き継いで欲しい。その時はさらに研究も進むだろうし、すべての事象においてそれほど単純な話ではないと思います。
── 歴史小説を書く醍醐味や苦労はどういったものがあるのでしょうか。
飯嶋 歴史小説を書くという気持ちはなくて、たまたま過去のことを題材に書いているだけです。ただ、実際に苦労するのは全てが失われていることです。今、携わっている小説『灯守り』でも養蚕の場面がありますが、本当に苦労しました。やっと見つけたのが農業高校の教科書でした。かつてはどこでも養蚕場がありましたが、今はみんな失われてしまいましたね。当たり前のことが当たり前ではない時代とは、どうだったのか興味がある。失われたものを再現して、かつての人間の様子を少しは取り戻せればいいかな、と。全て変えればいい、便利であればいい、それで大丈夫なのかと思います。自分自身においても、最近、「積ん読」で埃を被っていたゲーテの『ファウスト』を読みましたが、「ああ、こういうのだったのか」と、若い頃は判らなかったことが判るようになりました。サマセット・モームの『人間の絆』とか、何でもそうです。書いた人に対しても、本自体にも敬意を持っています。大塩平八郎を調べられた幸田成友先生、仲田正之先生とか、研究者の方の本が残っているから私が手にすることができたわけで、そういう研究書はあり続けて欲しいですね。
── 歴史に埋もれた出来事を書く理由は何でしょうか。
飯嶋 例えば「大塩平八郎の乱」にしても「平八郎は蜂起しました。彼は単なるテロリストでした」そんな話ではないと思います。その人がどう生きたかなんて誰にも判らないし、物事の見方は様々にあります。小説はすべて「もしこうだったら」という仮の話です。人間、外から与えられる価値観だけではないと思いますし、全ての表現に思想的なものがあるとすれば、根底にあるのは「人は一人一人皆違う」ということだと思います。読者も皆同じ体験は一つとしてない。本書を読んで、誰かが何かを感じてくれたら、孤独ではないと感じてくれたら、ありがたいという気持ちは変わらないです。
── 今後の予定を教えてください。
飯嶋 「小説新潮」で連載をしていた『星夜航行』が、来年くらいには刊行されます。ご期待ください。
(十二月二十六日、東京都千代田区・小学館にて収録)
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