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嶽本野ばら
(たけもと・のばら)
大阪芸術大学中退。1987年、京都で初の個展。以降、美術、音楽、演劇など様々なジャンルでの活動を経て90年大阪・アメリカ村の雑貨店「SHOPへなちょこ」の店長に。同時期にフリーペーパー「花形文化通信」の編集に携わり、文筆活動を開始。98年エッセイ集『それいぬ 正しい乙女になるために』を上梓、乙女のカリスマとして支持を集める。2000年初の小説集『ミシン』を刊行、以後『エミリー』、『下妻物語』、『デウスの棄て児』、『カルプス・アルピス』等注目作を相次いで刊行している。 |
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『ロリヰタ。』
新潮社
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『カフェー小品集』
小学館文庫
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『それいぬ
正しい乙女になるために』
文春文庫PLUS
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『エミリー』
集英社
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『デウスの棄て児』
小学館
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−− 掲載誌の「新潮」が売り切れたとうかがい、文芸雑誌が売り切れることがまず驚きでしたが(笑)、純文学の雑誌に発表されることもはじめてですよね。
嶽本 小説第一作の『ミシン』を出したあと、いろんな出版社からオファーがあったんですけど、一番乗りが、実は『ロリヰタ。』単行本の担当の方なんです。ただ、いろいろあってなかなか実現しなかった−−というか、僕は文芸誌には書かないスタンスをとっていたんです。僕の読者が僕の作品を読みたいと文芸誌を買ったとして、他の方々の作品を読むとは思えなかった。正確に言うと全然興味を持てなかったり、食指を動かせない媒体に書くのは読者に申し訳ないという気持ちがあったのです。それに書き下ろしで出させて貰える環境もありましたから。
−− なるほど。
嶽本 「新潮」の矢野編集長とは、僕が大阪でライターをやっていた頃に遭遇していたのですが、他社の担当者から矢野さんの評判は聞いていましたし、彼がつくった島田雅彦さんや柳美里さんの本を結構持っていたんです。なぜ持っていたかというと、僕がその本を知らず知らずのうちにジャケ買いならぬ帯買い≠オていたんですよ。帯のコピーにとても惹かれていたんですね。それは矢野さんが書かれていたわけです。それで新しく編集長になられたし、ここはひとつ書いてみよう、ということになったんですね。
−− 『エミリー』が三島賞の候補になりましたし、いよいよ純文学路線で行くのかしら、と思いながら拝読したんですが、『ロリヰタ。』とりわけ表題作は、今までの野ばらさんの小説世界を踏まえつつも、ずいぶんと新しい魅力を湛えた作品だと感じました。
嶽本 純文学うんぬんという意識は、僕にはないですね。
−− 担当編集者の方に「太宰を超えましたね」と言われたそうですけど、そのへんはどうですか? 中学生の時に嶽本さんは太宰治にハマったとお聞きしています。
嶽本 いや、それは担当さんのリアクションがオーバーなんです。言葉半分で受け止めておかないと。もちろん超えたとは思っていません(笑)。嶽本野ばらは平成の太宰治ではないかと雑誌の記事に書かれたり、僕の作品はたしかに私小説的にしてありますし、半ば無意識のうちに太宰的手法を使っているのは事実ですけれど。この作品をロリータ小説家という、つまり自分をモデルにした恋愛小説としたのは、ある意味で確信犯です。私小説という形を借りたフィクションをつくりました。シュール私小説というか超私小説という感じなんですよ。今までも「僕」というのは野ばらさんなのかな?と読めるような作り方だったんですが、今回は明らかに嶽本野ばら自身なんです。しかし「ロリヰタ。」作中のエピソードは本当なのかと言うと、嘘八百なんです。
−− ああ、エピソードはフィクションなんですね。ロリータとロリコンはまったく違うことを語ることは割愛しますが、嶽本さんは演劇もされていたし、ご自身が小説内で演技をされているような感じなんでしょうか?
嶽本 いや、そうじゃないんですよ。なんでわざわざ「嶽本野ばら」を主人公にしたかというと、私小説のパロディ、模倣をしているんですね。
大前提として言葉というものの概念をひっくり返したかった。そのために文学や私小説というスタイルをパロディ化したんです。中に町田康の文体やよしもとばななのセンテンスを入れたのも、自分をパロディ化しただけではもの足りないので他の作家も引きずり込んで、その価値観や先入観といったものを混乱させて破壊しちゃおうとしたんです。携帯電話のメールの画面が小説の中に重要なポイントで入ってくるけど、これって文学の世界では邪道ですよね。それをやるためには大枠の文学をパロディ化する必要があったんです。
−− 携帯の画面が小説に登場するのってたしかにいまどきの風俗に合わせたと思われかねない危険もある。でも、私はあの部分が小説の要と有機的に結びついていると思うのです。それで伺いたいのは、やはり結末まで見据えて、作品を書かれるのでしょうか?
ストーリーテラーとしての嶽本さんに舌を巻いたものですから。
嶽本 書くのはとても早いですけど、必ずしもラストまできちんとは見えていないんです。結末はぼんやりとしか決めてなく、プロットを立てようとするんですけど立てられずに、いつもそのままとりあえず書き出します。
結局、なんで携帯画面を出したかったのかと言えば、「伝える」ということはどういうことなんだろう?と読者に提示したかった。手紙でもメールでも伝える手段なんてどうでもよくて、さらにいえばそこに書かれた文章や言葉にも実はたいした意味なんてない。もっとも大切であるのは、伝えようとしたその思いだということ。この人にこの気持ちを伝えたい、自分の思いを伝えるために言葉は存在するし、仮に言葉が無くても、言葉では的を射たことが言えてなくて、例えば、「あなたのことが大嫌い」と言って抱きついたら、その言葉の意味はまるっきり逆のことになりますよね。あなたのことが大嫌いだけど大好き。これって伝える言葉がなくてそうなるのであって、小説に限らず、普通に話しているようなときにも言葉の力をみんな過信しすぎているんではないか。
こんなことを作家が言っちゃおしまいだって気もするんですけど(笑)。でも僕は十代の頃、小説を書いたけれどうまく書ききれなくてとても苛立ちを感じたんですね。それで美術の方に転向したらよっぽど文章よりもダイレクトに伝えられると思いました。その時点で言葉が伝えられることの限界を知ったと思う。もっとも美術はお金にならなくて、なんの因果か文筆業になったんですけど、すぐにベテランライターよりもずっと書けると驚かれたのは、自分の中で的確に「文章ではここまでしか伝えられませんよ」というあきらめがあったからだと思います。
−− あと、文体をどの作品も「です・ます」調で統一されているのも、ある種の距離感を小説に感じているからでしょうか。
嶽本 ええ、そうですね。これから先はわかりませんけれど。自分の中に足枷をつけているんでしょうね。「です・ます」調だと感情を吐露する場面、クライマックスで加速していくところを書くうえで非常に書きづらい、これをやめちゃえばもっと加速度のあるものは書けるけど、あえてやらない。ある意味マニアックな方法論ですよね。
−− そうですね(笑)。私は、野ばらさんの作品からいつも手紙みたいな印象を受けています。読者ひとりひとりに向けて、まるで自分に書かれたかのような…。
嶽本 太宰を読むとみんながそう思うように(笑)。
−− ええ。この作品を今までの読者はもちろん読むでしょうけれど、文芸誌に掲載され、今までとは違った出版社から本になると、まったく新しい読者に読まれるかもしれません。
嶽本 うーん、そうですね。まず読者との関係なんですけど、ほとんど恋愛とおなじようなもので、最初は一緒に登下校できるだけで嬉しいけど、つき合いが深まるとディズニーランドに行きたいとか、ストレートに愛の告白をしてみようとか、次のお誕生日には何をあげようかなとか相手に対して次にどういうふうに接しようかと考えますよね。それと同じような感覚で小説を書いているんです。こういう気持ちがなくなってしまうと文章を書くことの意味が見いだせなくなるんですね。不特定多数の人になにかを主張したいわけではない。あくまで僕は読者とマン・トゥ・マンで接していきたいんです。
−− 同時収録されている「ハネ」も印象深いものでした。こちらはロリータのカリスマ、正調・野ばらワールドといいいますか。
嶽本 そうですね。これは自分の中ではギミックなしで書きたかったものなんです。読書家は「ロリヰタ。」を評価してくれるかもしれないけど、普段本を読まない、マンガもそんなに読まないような読者の方には「ハネ」を読んでほしいですね。「ロリヰタ。」は、僕にとって、ほめられたら嬉しい、でも拒絶されてもイイやって感じなんですけど、「ハネ」に関しては、自分のコアな部分でもあるので、けなされたら、口より先に手が出るくらい反撃してしまうと思う(笑)。
−− 「ハネ」の主人公はティーンですが、思いを寄せている男の子との関係を他人には受け入れられなくてもよい−− 、その完結している部分が私には切なかった。
嶽本 そうですね。自己完結していますからね。「ロリヰタ。」と違って批評のしようもない(笑)。『ミシン』、『エミリー』の系列なんですけど、もっとパワーアップしています。中学生くらいの読者の人から、「いままでみんなに合わせていて、でも合わせようとしても歩調が合わない。だけどそれでいいんだ、いまのままでいいんだ」っていう手紙をもらうとすっごく嬉しいですね。僕は乙女やロリータについて書いたり語ったりしていますけど、最終的にはそういうものを提案しているわけではないのです。ロリータしなさいとか言いたいわけではない。君が君自身であるために、君はそのことを最優先すればいい、世の中にどう思われようと構やしないじゃん、ということをわかってほしい。与えられた価値観こそが正解なんだって僕を含めてみんなが刷り込まれてきたと思うし。
−− いまのお話を伺っていると、自分が中学生くらいの頃に嶽本さんの作品を読みたかったと思います。
嶽本 僕がテレビに出たり、インタビューを受けたりするのも、まだ出会っていない読者のために知ってもらいたいから。たとえばコンビニが九時から十一時くらいまでしかやっていないような、そういうところで必要としている人にも届けたいと思っているからなんです。自分が自分であればいいのに、まわりに合わせなきゃいけないと無理している人たちに読んでほしいです。
−− 今までの純度の高い野ばらさんファンだけでなく、野ばら作品未体験の人にこそ是非『ロリヰタ。』を読んでいただけるといいですね。
嶽本 都会でも会社に勤める五十代くらいの管理職の男性で、本を読むのが好きという方には是非読んでほしいです。考えてみれば、本当の自分を我慢している人ってそういう世代にこそ多いと思いますしね。そんなおじさんがひとりでも「いいじゃん」と思ってくれたら僕としては本望です。
(2003年12月11日 東京・新宿区の新潮社にて収録) |
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