紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

倫理じゃねえよ、不倫だよ

――原口剛著『叫びの都市』(洛北出版)を読む
評者:栗原康

 ■打たれた犬はかならず吠える

 フオオオ、フオオオオオオ。これはさいきん、わたしが近所のひととかわした唯一の言葉だ。じつは昨年末、人生初のひっこしをして、かの女とさいたま市の与野というところに住みはじめたのだが、そういうときにかぎって原稿が重なって、メールに携帯に、むやみやたらと催促の連絡がくる。荷物はグチャグチャ。机もイスもありゃしない。でも、セックスはしたい。なんだか気忙しくて、体がこわばってくる。ノートもペンもなかったので、とりあえず近所のコンビニにむかうことにした。やばい、時間がない。夕方四時くらいだったろうか。クソさむい日だったので、死ぬんじゃないかとおもったが、おもいついたフレーズを呪文のqようにとなえながら、なんとか道をいそいだ。

 と、そのときだ。とつぜん、なにかがわたしにちかづいてきて、真後ろからすさまじい雄叫びをあげた。ハウハウハウ、ハウ!!!  ひゃあ。わたしはびっくりして、おもわず大声をあげてしまった。野犬か。そうおもって、後ろをふりむくと、みるからに二〇代くらいのお兄さんが、してやったりと満面の笑みをうかべている。そしてまたバカでかい声で叫ぶのだ。フオオオ、フオオオオオオ!!!  叫びおえると満足したのか、いそいそとちかくの建物のなかに消えていった。豆腐屋だ、豆腐屋のお兄さんだったのだ。なんだ、なにがおこったんだろう。わたしはしばらくあっけにとられていたが、ふと原稿のフレーズをぜんぶ忘れていることに気づかされた。ああ、もうペンもノートも意味がない。スッカラカンだ。でも、なんだかみょうにすがすがしい。仕事からの解放だ。フオオオ、フオオオオオオ!!!  まわりにだれもいなかったので、わたしもおもいきって叫んでみた。きもちいい。きっと、お兄さんもおなじようなおもいで叫んでいたのだろう。

 いま、わたしたちは携帯だのスマホだのをもたされて、いつでも仕事ができるように、オンライン状態でいさせられている。ずっと他人にみはられているような気分だ。「贈与はひとを奴隷にし、ムチは奴隷を犬にする」。これはイヌイットの格言なのだが、まさにそのとおりである。ひとはカネというご褒美を、贈与をもらうと、そのかわりに自分の自由をまるまるうばいとられてしまうのだ。それがひととしてのモラルだといいはって。しかしこの格言、ちょっとだけ補足して、こう言っておいてもいいんじゃないかとおもう。打たれた犬はかならず吠える。ちくしょう、主人ぶっ殺すと。野犬だ。その叫び声は、共鳴につぐ共鳴をよび、主人に飼いならされた犬たちを、続々と野犬に変えていく。主人はちっとも気づかない。でも、犬たちにはわかっている。ヤッチマエ、ヤッチマエ。あんちくしょうぶっとばし、トンズラしようか。フオオオ、フオオオオオオ!!! 自己野蛮化だ。この都市には、野犬たちの叫び声があふれかえっている。

 ■はたらけ、こわれろ、捨てられろ

 さて、まえおきがながくなってしまったが、本書は日本最大の寄せ場である大阪・釜ヶ崎の歴史をえがいた本だ。そこでいくどとなくあげられてきた日雇労働者の叫び声をひろいあつめ、現代によみがえらせている。まちがいない、名著だ。まず、本書が焦点をさだめているのは、高度成長にはいってからのこと、一九五〇年代後半の港湾労働だ。港湾労働というのは、船の積み荷をうけおろす作業のことである。この仕事は積み荷の量によって、必要な人員の数が変わってくる。日によっては大量の日雇労働者がもとめられ、それを斡旋する手配師たちが寄せ場にやってくる。

 大阪湾でいうと、それが釜ヶ崎だ。早朝になると、日雇労働者の青空市場がひらかれて、じゃんじゃん安く買いたたかれていく。ひどいのはこの手配師には斡旋料と称して、給料をピンハネする連中がいることだ。バックにヤクザがいたりすると、こわくて文句もいえやしない。それにいざ仕事になると、正社員にはやらせないような危険な仕事をあてがわれて、重傷を負ったり、場合によっては死んでしまうこともあった。きょうはすぐにおわる楽な仕事だとさそっておいて、いざ船内にはいって降りられなくなったら、どうしても仕事がおわらないからと、朝まで残業を強制することもあった。マジで劣悪だ。

 もちろん、なんどかはたらけば状況はわかるのだろうが、それでもさけることはできやしない。貯蓄なんてないし、明日をもしれぬ我が身だから、これを断ったらつぎがないとおもってしまうのだ。そもそも正社員だって、自分の体を労働力商品として提供するわけで、物みたいにあつかわれるわけだが、それでも人格はみとめられていた。でも、日雇労働者はガラクタ商品とでもいえばいいだろうか。文字どおり、物としてあつかわれる。いつぶっこわれてもかまわない。そしたら取り換えればいいだけだ。奴隷である。

 それでも一九六〇年代初頭までは、バラック小屋をたてて家庭をもつひともいて、そこには一定の人間らしさもかいまみられた。だけど一九七〇年、大阪万博の開催がきまると、それすらできなくなってくる。いっきに港湾労働の需要が増えたため、国がそのためのインフラ整備にのりだしたのだ。バラック小屋を駆逐して、代わりにドヤ街をつくってしまう。全国からやってくる日雇労働者を収容できるように、ただ寝るだけの簡易宿泊所をたくさんつくったのだ。数量さえ確保できればいい。おまえらは家庭なんてもたなくていいんだ。ただ必要なときにはたらいて、でていけばいいんだといわんばかりだ。犬小屋かよ。でもそれが国や資本家にとっては、このうえなく効率的で、みとおしのよい空間だったのだろう。はたらけ、こわれろ、捨てられろ。ふざけんじゃねえ。

 ■あんちくしょうぶっとばし、トンズラしようか

 でも、釜ヶ崎がすごいのはここからだ。ドヤでは寝ることしかできないから、みんな外にくりだして飲む、食う、はなす。居酒屋で、路上で、公園で。ドヤは個室で、街はわが家だ。安酒をあおりながら、どこそこの業者はやばい、いっちゃダメだとだれかが大声でいえば、すぐにうわさはひろまって、みんないかなくなってしまうし、意気投合して複数人でつるめばこっちのもの。いっしょに仕事にいって、いざ現場に着いてから、給料をあげないとみんな帰るぞとおどすことができる。わるのりだ。そして、そのうわさがひろまれば、やっぱりわれもわれもとやりはじめる。わるのりにつぐわるのり、そしてさらなるわるのりだ。権力の目のとどかないところで、不穏な動きがはじまっている。

 それに、なににつけても暴動だ。路上でなかまがやられていたら、ヤクザだろうと警察だろうと、なにがなんでもうちのめす。ヤクザは建設会社だのなんだのを経営して、日雇労働者をゴミあつかいする最たるものであったし、警察は、おまえらはガラクタ商品なんだから、ゴミあつかいされても逆らっちゃダメなんだ、逸脱したらしょっぴくぞと目を光らせている街の番人みたいなものであった。ヤッチマエ、ヤッチマエ。あんちくしょうぶっとばし、トンズラしようか。一人、二人、三人とだれかが石を投げはじめると、どこからともなくひとが群れあつまってきて、投石がとまらなくなってくる。しだいにパトカーに火をつけ、交番に火をつけ、ついでにパチンコ屋もタクシーも燃やしてしまう。十数人のヤクザが木刀をもってでてきても、数の力で圧勝だ。本書によれば、なんとヤクザの親分を土下座させたこともあるそうだ。

 しかも、なにか要求があるわけじゃないから、おさえがきかない。ただひたすら、わけのわからないことをわめきちらしている。ハウハウハウ、ハウ!!! どうせガラクタあつかいされるなら、こっちから不良商品になって、てめえらのまえにあらわれてやる。ついでにあっちもこっちもつかえなくしてやれ。こわしてさわいで、燃やしてあばれろ。商品世界の焼き討ちだ。フオオオ、フオオオオオオ!!! 自己野蛮化の雄叫びがあがる。もうなんにもしたがわない、なんだってやってやる、なんでもできる。飼い犬たちが野犬になって、解放感に酔いしれる。釜ヶ崎では、そんな暴動が数十回にわたってくりかえされた。

 もちろん、そういう動きにたいして権力は容赦しない。「ひとは貧乏になると犯罪にはしる」。ウソだ。でも行政とマスコミは、そんなウソをついてまで釜ヶ崎に犯罪のレッテルをはりつけた。日雇労働者の叫びを無化するために。あいつらにモラルはない、徹底的にとりしまれと。さらに一九九〇年代にはいると、港湾労働も建設業も仕事がなくなってきて、街には野宿者があふれかえるのだが、そうするとこんどはおもむろに追いだしにかかってくる。こいつらがいるから街がきたないんだ、地価がさがるんだといって公園を有料化し、野宿者を排除したり、街の活性化のためだとかなんだとかいって、若いアーティストたちをよんでオシャレな店をつくり、きたない格好をした人たちがよりつけない場所に変えていくのだ。オシャレに排除。それが街の浄化というものだ。

 それに、いまじゃ非正規雇用がふつうになっていて、社会の総寄せ場化がすすんだといわれているが、状況はむかしよりももっとわるくなっている。日雇いにしても、バイトにしても、寄せ場の青空市場すら必要ない。携帯にネット。ひとが朝から晩まで、仕事のためにたえずオンライン状態にさらされているのだ。泊まる場所にしたって、ネットカフェの個室である。となり同士ではなすこともできやしない。路上や公園、居酒屋で気炎をあげ、うわさがうわさをよんでいくということがありえないのだ。権力の目にみえないところで、不穏なことがおこらない。この数十年間、国家はそんなインフラ整備をすすめてきた。狡猾だ。どこもかしこも希望なし。

 でも、本書をよんでいると、それすらなんでもないやとおもえてしまう。だって考えてみれば、バラック小屋がとりこわされて、ドヤ街がつくられたときだって、状況は絶望的だったのだ。ひとがめちゃくちゃ孤立させられる、こりゃ生活する場所でもなんでもないぞと。でもそしたら、みんな外にくりだして、街全体を家みたいにつかいはじめた。そうさせまいとする権力の番人たちにも、ハッシハッシと石を投げつける。いつでもどこでもおなじことだ。打たれた犬はかならず吠える。とりあえず、ハウハウ叫んどきゃいいのである。一人吠えれば、また一人、二人、三人と、続々と犬たちが吠えはじめる。死ぬ気で吠えろ。野犬の記憶がよびさまされる。そういうことをやりはじめると、またモラルがないとか犯罪者みたいだとかいわれるのだろうか。関係ないね。ヤッチマエ、ヤッチマエ。あんちくしょうぶっとばし、トンズラしようか。フオオオ、フオオオオオオ!!!  吠えたいやつは吠えろ、叫びたいやつは叫べ。倫理じゃねえよ、不倫だよ。オリンピック反対。

 (アナキズム研究)