紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

異例の実録群像劇

――ジャーナリストが刑務所での読書会に参加した経験を綴ったルポルタージュ
評者:吉川浩満

 『プリズン・ブック・クラブ』――スティーヴン・キングの新作小説ではない。ジャーナリストが刑務所での読書会に参加した経験を綴ったルポルタージュである。

 著者アン・ウォームズリーはカナダで活動する雑誌記者。二〇一〇年のある日、友人の女性が運営する刑務所読書会にボランティアとして参加してみないかと誘われる。かつて強盗に襲われたトラウマのある彼女はためらうが、ジャーナリストとしての好奇心が勝り、思い切って引き受けることにした。それから一年間、会の運営に奔走する過程で、受刑者たちが課題図書を片手に活き活きと議論を戦わせるさまを目の当たりにする。そして彼女自身、彼らとの交流を通じて、被害のトラウマから少しずつ自由になっていくのである。 

 刑務所と読書会とは、いかにも不似合いな取り合わせだと思われるかもしれない。しかし本書を読み進めるうちに、塀の中の住人たちがいかに書物を、そして読書会を必要としているかがわかるはずだ。刑務所暮らしがもたらす孤独から癒えるための手段として、また恐怖と反目の支配する世界に束の間にではあれ自由な対話を現出させる媒介として。いわば「人間を守る読書」(四方田犬彦)の実践である。読み終えるころには、刑務所と読書会ほど似つかわしい組み合わせはないと思えるようになるかもしれない。

 ならば、塀の中といわず塀の外の大部分の人間たちもまた読書会を必要としているのではないか、そう考えるのも自然な成り行きである。塀の外側の暮らしであろうとも、程度こそちがえど、孤独、恐怖と反目には事欠かないのだから。私自身、二〇年以上にわたって複数の読書会に参加しているのだが、本書のおかげで読書会の魅力と効用を再認識させられた次第である。

 私は本書を読みながら、本書とは一見無関係なもう一冊の読書についての書物を思い浮かべていた。先ごろ文庫化されたフランスの文芸批評家ピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』(ちくま学芸文庫)である。なぜかといえば、同書においてバイヤールが面白真面目に展開する独特の「本を読まない」読書論が、私の考える読書会の楽しみと大きく重なるからである。

 バイヤールは次の四つの格率を提唱している。まずは「気後れしない」、次に「自分の考えをおしつける」、さらに「本をでっち上げる」、そして最後に「自分自身について語る」。最初のひとつを除き、どれも伝統的な読書法からすれば許しがたい悪行である。こうした(無)作法は、たとえば正確な読解を目指す学術論文の講読会などにおいては御法度であろう。だが、読書会のあり方はもっとずっと幅広い。本書で描かれるような、参加者同士のコミュニケーションを旨とする読書会においては、むしろバイヤール流の作法こそ似つかわしいのではないだろうか。

 なにも刑務所読書会の囚人たちや私の読書会の参加者たちが本をよく読んでいないというのではない。また、正確な読解が無用というのでもない。そうではなく、開かれた読書会という場においては、気後れすることなく、自分の考えをおしつけ、さらに本をでっち上げ、しまいには自分自身について存分に語る、そうした自由や逸脱があってもいいのではないか、それもまたひとつの楽しみ方ではないかと思うのである。

 その点、本書にはこれ以上は望むべくもない役者たちがそろっている。詐欺から殺人まで犯罪の世界を生きてきた男たち、そして書物を携えて彼らの世界に飛び込む女たち……これで面白くならないわけがあろうか。はたして本書は、読書についての書物としては異例の実録群像劇となった。困難な経験に裏打ちされた囚人たちの語りは、アウトサイダーと社会、罪と罰の経験、人生における読書の意味について多くを教えてくれるだろう。本書に登場する多数の課題図書たちもまた、囚人たちの人生というプリズムを通して、私たちに新たな姿を見せるはずだ。さらに、著者自身が犯罪者との交流を通じて当の犯罪被害のトラウマから癒える過程は、本書に一種のビルドゥングスロマンの趣をも与えることになった。まるで彼らと一緒に考え込んだり笑わせられたりしながら読書会に参加しているかのような臨場感である。

 「なぜ読書会なのか?」――本書を目にとめた読者がはじめに抱いたかもしれない疑問は、読了後には「逆になぜ読書会をしないのか?」という修辞疑問に変わるだろう。そう、もしあなたがまだ読書会に参加していないのだとしたら、受刑者でなくともかまわない、いますぐにでも参加すべきである。

(文筆業)