紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

反レイシズム宣言

――戦後日本には存在しない「正義」としての反差別規範を打ち立てるために
インタビュー:梁英聖氏

 ■NGO「反レイシズム情報センター(ARIC)」でも活動する梁英聖氏が、初の単著『日本型ヘイトスピーチとは何か――社会を破壊するレイシズムの登場』を影書房より刊行した。これを機に、梁氏に話を聞いた。(インタビュー日・2月2日、東京・神田神保町にて。聞き手・須藤巧〔本紙編集〕)

 ■「日本型ヘイトスピーチ」の新奇性

 ――本書を読み、時代が要請した本というか、梁さんもやむにやまれず書いた本なのではないかと思いました。

 二〇年前、一〇年前、せめて二〇一三年頃に誰かが書いていてほしかったですね。しかも私のような若造ではなく、大御所が。同じ内容の本というより、同じ「問い」をきちんと問うていてほしかったというのが率直な思いです。

 ――本書のタイトルは「日本型ヘイトスピーチとは何か」です。「日本型」とついている。アメリカやドイツなどの諸外国と比較はできたとしても、ある意味で比較にならないような現状と来歴が日本にはある。このタイトルを梁さんは自身で「不格好」と形容していますが、このようなタイトルをつけなければいけなかった理由と、その「日本型ヘイトスピーチ」の特徴を教えてください。

  タイトルは本当に悩みました。それだけでなく、書き出しから、いまのヘイトスピーチの問題に対して一体どういう言葉を紡いだらいいか、皆目見当がつきませんでした。とにかく、全部嘘な感じがするんです。二〇一三年にヘイトスピーチという言葉で、在特会(在日特権を許さない市民の会)をはじめとするレイシストの街頭でのデモが話題になったとき、「どう思いますか?」「どういう人たちなんですか?」「どういう被害がありますか?」などとたくさん質問されました。一応すべてに答えられますが、自分で答えていて、嘘みたいなんです。いま起きているヘイトスピーチは全然新しい現象ではありません。「チョンコ」「不逞鮮人」といったタームを見ても使い古されたものばかりです。あるいは「強制連行はなかった」という言い方もそうですが、論理構造も、日本政府が言っていることそのものです。「在日特権を許さない」とはまさに日本政府の思想です。在日は、日本に「自己責任」で来ているということになっている。ヘイトスピーチばかりが「ひどい差別だ」と言われますが、国自体が既に差別をしているわけです。高校無償化からも除外しているし、朝鮮学校への補助金もカットしまくっている。ではどちらが深刻か。圧倒的に国による差別です。なので、在特会にばかり話の焦点が当たることに、言いようのない違和感がありました。しかし他方でそれをきちんと説明しようと思ったとき、そこから落ちるものがあります。「昔からあるよね」「同じことだよね」と強調しようとすると、実は「新奇性」が見えなくなる。でも、新奇性は確実にあるし、格別の深刻さがそこにある。ターム、論理構造、政治が実際に行っている差別の焼き直しという点では連続である――「継続する植民地主義」と言ってもいい。しかし、断絶もある。かつてあった雑誌「前夜」のような観点からすると、在特会やヘイトスピーチの問題は「昔からあったこと」です。一方で、路上でのカウンターや一部のメディアや安田浩一さんのようなジャーナリストは、この問題の「新奇性」に直感的に気づいていると思います。つまり「継続する植民地主義」という意味での継続性は確実にあるけれども、既存の差別、歴史否定とはまったく違う、ある種の「質」がある。そこをどうトータルに捉えたらいいのか、その言葉が私のなかにはまったくありませんでした。それに自分は衝撃を受けた。私は、大したことないかもしれないけれど、自分なりに学生のときから一〇年以上、朝鮮学校への差別に反対する運動などに関わってきたつもりだったので、大抵のことには驚かなかったつもりです。あるいは私自身が差別を受けても、ある種の理解をするための言葉を持っているつもりでした。しかしヘイトスピーチに直面したとき、それがボロボロと崩壊した。自分たちの実践や、特に理論的枠組み、言葉がまったく通用しない感覚を持ちました。それが二〇一三年でした。本当にまずいと思い、勉強し直し、ようやくヘイトスピーチのひどさを言葉にすることができた。そのようにして、吐くようにして書いたのが本書です。

 「日本型ヘイトスピーチ」って、変な言葉じゃないですか。本当は分析をしなければいけない現象に「ポピュリズム」だの「トランプ現象」だの新しい名前をつけたって何もわからない。それは重々承知のうえで「日本型ヘイトスピーチ」と言いました。いま起きているヘイトスピーチや拉致問題以降のヘイトクライムが、例えばフランスのルペンら極右が台頭するなかでのイスラモフォビアの問題や、アメリカのトランプ現象のなかで吹き荒れているヘイトクライムと同じ次元にあるのは間違いない。つまりグローバル化のなかで増大している、先進国に共通の「普遍的な」レイシズムであると。では、そこでどう闘ったらいいのか。アメリカやフランスと同じように闘えばいいのかといったら、条件が全然違うわけです。それに対して答えている活動家や知識人がいるでしょうか。それぞれの社会でヘイトスピーチがどのような特殊な形態で現れているのか。それを言葉にしなければ、どうやって闘ったらよいか、実はわからない。自分自身も分析できない以上、自信をもって何もできなかった。それに、日本で既に闘われている民族運動や反差別運動と同じことをやっても、何も結果を出せないなと思ったんです。

 ――本書には「反レイシズム規範というモノサシ」といった表現が頻出します。日本の近代には延々と、そのモノサシがなかった。それを「見える化」する、可視化するための作業が本書でもありますね。日本は「反レイシズムゼロ」の状態だと本書で説明されます。これに伴って「反レイシズム1.0」「反レイシズム2.0」という言い方が出てきます。

  はい。「日本型ヘイトスピーチの新奇性」の話の続きになりますが、「形容不可能なまでの醜悪さ」があると思います。圧倒的に気持ちが悪い。笑いながら「ゴキブリを殺せ」と言ってみたりする。樋口直人さんは日本にはかつて極右がいなかったけれど、いまはいるという言い方をして、排外主義を公的に掲げたレイシズム運動が日本で初めて出てきている、だから在特会は新しいんだと言います。それは正しいと思います。ただ、もっと他に注目すべき「新奇性」がある。私が思うに、遊び半分で人殺しやジェノサイドを訴えられるような、極端なまでの気持ち悪さ、反人間性です。差別を語る言葉が乏しい日本では「ひどい」としか言いようがないので、なかなか言葉になりませんが、多くの人がヘイトスピーチを直感的に嫌悪する原因はこれだろうと思っています。簡単に言えば、刑法に触れるような暴力と、差別的な日本型企業社会の社会規範からしても目を背けたくなるようなレベルの反人間性です。「日本型ヘイトスピーチ」は、この二つの日本型NGコードに引っかかるような差別として新奇性があった。戦後日本固有のモノサシのなかであっても自信をもってNGと言える差別だったわけです。ところがその範囲内で闘えるからこそ逆に、それ以外の、基本的な差別を見えるようにするモノサシが日本にないことに気づかなくても運動ができてしまう。

 そういう状況を可視化するために「反レイシズムゼロ」「反レイシズム1.0」「反レイシズム2.0」という言葉をつくり分析してみせたのです。このなかで「反レイシズム1.0」が重要です。それは一九六〇、七〇年代にアメリカやヨーロッパ、あるいは国際人権規約のなかでつくられた、今日から見ると基本となっている反レイシズムの規範のことです。「反レイシズム2.0」は、そこからアップデートされた次元。徒競走で例えるなら、一周走りきると「1.0」で、ヨーロッパやアメリカは二周目を走っている。例えばアメリカでは公民権法が一九六四年につくられ(「1.0」)、雇用や公共の水飲み場やバスなどでの差別が禁止される。それで終わりではなく、その後もなくせない差別をなくすために反差別の法制も社会規範もアップデートしようという動きが出てきます。それがアメリカの「反レイシズム2.0」で、「ヘイトスピーチ」という言葉はそのなかで生まれたものでした。

 ――日本はその流れにまったく乗っていないし、国連の人種差別撤廃条約についても留保に留保を重ねている。そうした来歴と現状のなかで、去年は「ヘイトスピーチ解消法」という理念法が成立しました。これについてはどう思いますか? 「一歩前進」という感じでしょうか?

  ヘイトスピーチ解消法を手放しで評価することはできません。同法はせいぜい「反レイシズム0.1」です。ヘイトスピーチ解消法じたいではなく、同法を与党さえつくらざるをえなくなった状況をつくりあげたことはもちろん「一歩前進」です。

 ところで反レイシズム「1.0」「2.0」は量的概念ではありません。問題なのはその「質」的な意味です。つまり、その国で差別ときちんと闘えるぐらいの、基本的な反差別規範(「1.0」)になるかどうかが問題です。最低でも人種差別撤廃条約が義務づけている包括的差別禁止法が成立するぐらいの社会規範でなければ、日本で実効的な「反レイシズム1.0」が成立したとは言えないと考えています。もちろんヘイトスピーチ解消法は、その成立が運動なしにはなかったという意味での成果かどうかという問いを立てたとき、間違いなく運動の成果です。戦後初の、一応「反レイシズム法」と言える法律をつくらせた。重要なのは、欧州のアンティファの戦術を輸入したと言えるカウンターが、従来の反差別運動とは全然違うロジックを持っていたことだと思います。例えば在日の七〇年代の日立裁判や八〇年代の指紋押捺拒否闘争など、従来の運動は様々ありますが、それは日本型の社会規範の質の根本を問うことなく、基本的に「被害者の権利をどう救済するか」に焦点が当てられていた。だから、差別を定義し、その差別を普遍的に社会からなくしていくための社会規範つまりモノサシをつくり、それを徹底させるという方向へは運動は行かなかった。これでは部分的に勝利しても、普遍的なモノサシをつくって、差別禁止法をつくるという社会的回路を切り拓くことにつながらないし、それこそが反差別運動の課題なのだ、ということも意識されない。社会的にはいつまでも差別が見えるようにならない。とにかくモノサシがつくられない。そうした圧倒的な泥沼のなかで闘っている。ヘイトスピーチ解消法の評価について「前進か後退か」という問いを立てて、すぐに「前進」と評価したい気持ちはわかります。しかし一歩退いてむしろ「前進か後退か」と言いたがってしまうときの評価基準、モノサシは一体何なのかと考えたほうがいい。反差別運動の評価基準で私が要だと思っているのは、どんな理由があろうと社会が許してはいけない悪としての差別を定義し、それを許さない社会規範をつくりあげるという目標達成です。最低でも包括的差別禁止法が制定されるぐらいの、戦後日本には存在しない「正義」としての反差別規範を打ち立てるという目標に照らして、個々の運動の到達点を総括すべきだと思います。