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『中動態の世界』がひらく臨床

――臨床と人文知をめぐる議論が再び活発化することを期待したい
評者:松本卓也

 ■國分功一郎が今春上梓した『中動態の世界――意志と責任の考古学』は、充実した哲学書であるとともに、きわめて臨床的な書物である。プロローグからして臨床の話題から始まる本書は、「しっかりとした意志をもって、努力して『もう二度とクスリはやらないようにする』って思ってるとやめられない」(4頁)という言葉――薬物・アルコール依存をもつ女性をサポートする「ダルク女性ハウス」の代表である上岡陽江が述べたと思われる――がもつ深い意味を解明するという情熱によって駆動されている。

 実際、著者が指摘するように、依存症は、近代的主体がもつとされる「意志」や「責任」という概念ではうまく取り扱うことができない(329頁)。「薬をやめたいのなら、自分の意志の力で努力してやめればよいではないか。それができないのなら自己責任である」といった近代的主体を前提とする考えでは、依存症の当事者の生きる世界を明らかにすることができないばかりか、当事者を余計に追い詰めてしまうのである。かつて流行した「覚せい剤やめますか? それとも人間やめますか?」という「意志と責任」を前提とする標語は、依存症の予防にまったく効果がないわけではなかったであろうけれども、依存症の当事者とその家族に死刑宣告を突きつけるに等しい言葉として機能したのである(松本俊彦の指摘による)。

 まずは本書の議論を追っていこう。第一章では、先述の「意志と責任」という概念が能動態‐受動態という対立を前提としていることが論じられる。何かを自分の意志で能動的にやったのならば自分に責任があり、自分の意志でやったのでなければ(つまり受動的にやらされたのであれば)責任を負う必要はない、という考えは、私たちがもちいる法体系に染み渡っている。しかし、実際のところ、私たちは能動的であったがゆえに責任を負わされているのではなく、責任があるものとしてみなされるがゆえに意志をもつ主体とされているとも考えられる(26頁)。このような「効果としての意志」という考えを、著者はスピノザにおける自由意志の不可能性から説明している(30‐32頁)。

 第二章では、このような「意志と責任の世界」ではない世界の探索が開始される。それが、本書のタイトルでもある「中動態の世界」である。中動態は、かつてのインド=ヨーロッパ語族にひろく存在していたものであり、著者は紀元前一世紀に活躍した文法学者ディオニュシオス・トラクスの『文法の技法』を参照しながらその実態を探っていく。私たちが前提としている世界が能動態と受動態との対立によって基礎づけられているとすれば、中動態の世界は、能動態が中動態と対立している世界である。つまり、第三章で明確化されるように、中動態を「能動でも受動でもないもの」と解釈して称揚するだけでは中動態の神秘化に終わってしまうのであって(76頁)、中動態の世界を探索するためには、その世界では能動態と中動態が対立しているということが決定的に重要なのである。そして著者は、中動態に関する諸家の定義を概観し、言語学者エミール・バンヴェニストによる次の明快な定義に辿りつく――「能動では、動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示している。これに対立する態である中動では、動詞は主語がその座となるような過程を表している。つまり、主語は過程の内部にある」。すなわち、「能動と受動の対立においては、するかされるかが問題になる」のに対して、「能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になる」のである(88頁)。中動態においては、意志が誰に帰属するのかが問題にされるのではない。驚くべきことに、中動態の世界では、意志は問題とならないのである(97頁)。実際、著者は第四章において歴史学者ジャン=ピエール・ヴェルナンの著作を引きながら、能動態と中動態の対立がまだ残っていた古代ギリシアの世界には意志の概念が存在しなかったであろうという仮説を補強している(102頁)。さらに第六章では、「共通言語」からインド=ヨーロッパ語族へと変化していく言語の歴史のなかで、「出来事を描写する言語から行為者を確定する言語への移行」(175頁)が生じ、その移行が意志と責任を生み出したという大胆な仮説が提示される。この移行によって、言語はわれわれにつねに意志を尋問してくるようになったというのである。

 このようにして中動態の世界がひとたび発見された後では、現代の意志と責任の世界が奇妙なものとして立ち現れてくることになる。第五章では、現代的な「意志」の強い概念の範例がアレントに見いだされる。だが、アレントの「意志」概念は結局のところ、他のものに由来するのではない「純粋で絶対的な始まり」であることを己に要求する、「無からの創造creatio ex nihilo」にも似た不可能な概念にほかならない(138頁)。これを承けて第九章でなされるハーマン・メルヴィルの「ビリー・バッド」をめぐる浩瀚な解釈は、意志と責任という概念に依拠したわたしたちの「法(律)」が、はたしてわたしたち自身を裁くのに適したものなのだろうか? という問題を提起する。そう、中動態の世界は過去に存在した世界ではなく、現代の私たちが意志と責任の世界の傍らに生きている世界でもあるにもかかわらず、私たちはその世界を等閑視してきたのである。

 つづいて行われるのは、中動態の世界からの哲学史の再考である。実際、中動態というパースペクティヴから再考するならば、さまざまな哲学者が論じていた議論をかなり明確化することができるのである。例えば、第七章で取り上げられるマルティン・ハイデガーは、『存在と時間』では「覚悟性」や「決断」を重視しており、意志を重視した哲学者のようにもみえるけれども(202‐3頁)、後の展開においては意志を批判するために奇妙な語源学的思考を行っていた(206頁)。また、ジル・ドゥルーズが『意味の論理学』で依拠したストア派の哲学は、非人称的=非主体的な「表面」を重視するものであり、これもまた中動態の世界から新たな光をあてることができる(217頁)。第八章では、「神はあらゆるものの内在原因であって、超越原因ではない」というスピノザの有名なテーゼにおける「内在原因」が、中動態的なものとして捉えなおされる(237頁)。自己原因である神は、能動‐受動(する‐される)の関係にはなく、むしろ「神がそうした状態になる」(241頁)という中動態で働いている。そこから、「自閉」という用語(251頁)が用いられながら、スピノザの自由の定義の解釈が次のようになされる――「自由は必然性と対立しない。むしろ、自らを貫く必然的な法則に基づいて、その本質を十分に表現しつつ行為するとき、われわれは自由であるのだ。ならば、自由であるためには自らを貫く必然的な法則を認識することが求められよう」(262頁)。著者は、自由であるために、私たちを中動態の世界における当事者研究(!)へと誘っているのである。

 本書は、「依存症」や「自閉」といったキーワード、さらには「自らを貫く必然的な法則の認識」といった当事者研究を彷彿とさせるテーマによって、臨床へと応用されることを望んでいるかのように思える。著者自身は哲学者としてあえて避けていると思われるその応用に、ここでは愚直に取り組んでみよう。

 ディルタイに由来する「了解」概念をもとに統合失調症の診断を方法論的に明確化したカール・ヤスパースの理論は、彼が行っていた鑑定業務の多大な影響下にあった。ドイツの精神病理学は一般に精神鑑定に親和的な学であり、意志と責任の世界を前提とするものだったのである。さらに、統合失調症の発症それ自体も「決断」と密接な関係をもっていた。かつてルートウィヒ・ビンスワンガーが指摘したように、統合失調症は、ある個人が生きる世界の経験がやせ細り、水平方向の他者たち(隣人)との交わりや繋がりが不十分になっているにもかかわらず(そして、不十分であるがゆえに)、「神の似姿である人間の理想とは何か?」「父であるとはどのようなことか?」「主体とは何か?」といった垂直方向の問いを立て、その問いを主体的な決断によって解決しようとする際に発病する。様々な事情から子宝にめぐまれなかったシュレーバーが、まるで「ひとりで産む=世界を再創造する」ことを決断するかのように「性交を受け入れる側である女になってみることも元来なかなか素敵なことにちがいない」という観念を抱いたように、統合失調症という病は、不可能なはずの「無からの創造」――それは意志と責任の世界が不可避的に内包する一種の「バグ」であった――への跳躍と深く関係していたのである。

 だが、統合失調症者もまた、「意志と責任の世界」を生きる傍らで、中動態の世界をも生きていたはずである。「統合失調症」の概念をつくったオイゲン・ブロイラーの「両価性」論文には、「退院する」と述べて主体化を志向する主張と、「病院に庇護されている」と述べて従属化を志向する主張を同時に(両価的に)行う統合失調症者が描写されているが、彼は意志と責任の世界の外部への脱出を試みていたのではないだろうか。かつてビンスワンガーが明確化したように、統合失調症の治癒は、意志と責任の世界を前提とする垂直方向の決断ではなく、それと対立する水平方向で生じるのであった。ならば、統合失調症の精神病理学もまた意志と責任の世界の外部を、すなわち中動態の世界を探求すべきであったのかもしれない。しかし、本書をいまだ参照しえなかった精神病理学は、中動態の世界に注目することができなかった。

 「あいだ」をめぐる木村敏の議論は、おそらくその場所を主題化することを狙ったものと考えられる。しかし、木村は、「あいだ」をおおむね調和的なものとみなし、その病理的側面を「あいだ」の障碍たる統合失調症に還元することによってこの病(「分裂病」)を特権化していた。そして、彼はその際に、中動態的な「あいだ」の場所を、「他者による主体性の簒奪」という能動‐受動の軸で語ることによって、中動態的な「あいだ」の場所が中動態的に生きられている病理を射程外においてしまったのではないだろうか。本書のパースペクティヴからみるならば、木村の理論を基礎づけているのは、中動態の世界を根源的なものとみなし、意志と責任の世界は中動態の世界から分化したものであるとする古代ギリシア中心主義的な前提であり、2つの世界のあいだの分化の障碍を統合失調症に見出す「病の特権化」である。このようなパラダイムに抗して、中動態の世界と能動‐受動の世界のどちらかを根源的なものとみなすのではなく、両方の世界を等しく生きるものとしての人間を考えることはできないのだろうか?

 同様の批判的枠組は、ジャック・ラカンの精神分析理論に対しても適用可能である。本書でも指摘されているとおり、ラカンもまたバンヴェニストの中動態の定義に注目していた(77頁)。しかし、60年代のラカンは、象徴界(大他者)による決定に従うことのない精神病者が「唯一の自由な人間」であると述べていた。それは、象徴界(大他者)による決定に対して「自己責任」的に従う神経症者が、受動的であるがゆえに不自由であるということの裏返しであり、この時代のラカンが能動‐受動の世界に留まっていたことを意味している。ならば、晩年(70年代)のラカンは、「自らを貫く必然的な法則に基づいて、その本質を十分に表現しつつ行為する」というスピノザ的自由を、常同言語をくりかえす自閉症者のイメージにも似た「ララング(原言語)」(個人の特異性が刻み込まれた言語)にみていた可能性も考えられるだろう。このように精神病理学/精神分析の思考を刺激する本書が、医学書院の「シリーズ・ケアをひらく」で出た意味は大きいと言わざるをえない。

 だが、『中動態の世界』がもっとも直接的に臨床とかかわるのは、やはり依存症を論じる場合であろう。依存症の臨床では、依存を「やめる」のは簡単であるが、「やめつづける」ことが重要であり難しくもあることが指摘されているが、これは依存症からの回復が、受動態(「やめられない」)を脱して能動態(「やめる」)に向けて努力するということではないことを示している。実際、依存症者は、自由/隷属、能動/受動の外の世界を生き延びている人々ではないだろうか。例えば、アルコール依存は、最初のうちは「セルフコントロール」のためにアルコールを「使う」能動態の状態から、「アルコールがないとセルフコントロールができない」状態へと変化することによって形成される。依存とは、「アルコールを摂取する」ことによってはじめて「セルフコントロール」が可能になるということであり、「アルコールを摂取する」という動詞に摂取の主体である己が巻き込まれた状態、すなわち動詞が主語に作用する中動態にほかならないのである。依存症が受動態(「やめられない」)を脱して能動態(「やめる」)に向けて努力することでは回復しないのは、そもそもそれが能動‐受動の対立のなかで形成されたものではないからなのである。ならば、現代において「隠喩としての病」の位置におかれる狂気がかつての統合失調症から依存症や自閉症へと移行しつつあることは、中動態の場所を中動態的に生き延びることへの注目の高まりと関係してはいないだろうか?

 では、依存症からの回復は、一体何を目標とすればよいのだろうか。國分は、本書のもとになった『精神看護』誌での連載の終了後に、前述の上岡とともに「意志と責任の考現学」と題された対談を行っている。そのなかでは、依存症からの回復は、責任の主体を(ゆっくりと)つくっていくことが目標とされているようである。次の上岡の発言は決定的である――「そういう意味では、『責任主体として立ち上がるんだ!』と能動態になるより、やってくるのを待っていたほうが変化がしやすいかもしれませんね」(『精神看護』18巻2号、197頁)。変化のために、非主体的な仕方で待つこと。このきわめてドゥルーズ的なモチーフが、自身も依存症の当事者であった上岡の口から語られたことは注目に値する。かつてフランソワ・ズーラビクヴィリが「ドゥルーズと可能的なもの――政治における非主意主義について」(『VOL』1号、36‐48頁)においてドゥルーズの政治思想における「非主意主義(involontarisme)」と名指した特徴は、政治の領域のみならず、臨床にも適用可能なのである。

 だとすれば、ドゥルーズの政治思想に対して抱かれた懸念が、非主意主義的な依存症の臨床に対しても抱かれるだろう。ズーラビクヴィリにならって、「できることはただ出来事に反応することだけだ。…責任は出来事を前にして生じるのである」(前掲論文、42頁)とすれば、依存症の臨床において「革命的になること≒回復すること」は、消極的な仕方でしか生じ得ないのだろうか。あるいは、むしろすべてのすぐれた精神療法がこのような仕方で「革命的になること」を前提としていると言うべきなのだろうか? いずれにせよ、中動態の世界によって新たな光があてられる臨床のフィールドは広大であり、本書を参照することで臨床と人文知をめぐる議論が再び活発化することを期待したい。

 (京都大学大学院人間・環境学研究科、精神病理学)