本、雑誌、CD・DVDをお近くの本屋さんに送料無料でお届け!

紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

『大杉栄伝 永遠のアナキズム』

栗原康/著

夜光社

▲栗原康氏

もっと「馬鹿」になれ! いま、一番叩くべきは「社会」だ

――栗原康氏インタビュー 『大杉栄伝 永遠のアナキズム』(夜光社)をめぐって
インタビュー:栗原康

 ■『大杉栄伝――永遠のアナキズム』(夜光社)が出た。オビに「自由の火の粉をまき散らせ」とある。古いようで新しい。著者は栗原康氏。昨年の「現代思想」誌九月号所収の同氏による論文「豚小屋に火を放て――伊藤野枝の矛盾恋愛論」は、一読、びっくりした。「現代思想」を泣き笑いしながら読んだのは初めてかもしれない。未読の方は図書館などで探してぜひ読んでみていただきたい。びっくりするはず。……それはさておき、『大杉栄伝』をめぐって栗原氏にインタビューした。(インタビュー日・1月17日、東京・神田神保町にて。聞き手・須藤巧〔本紙編集〕)

■「やりたいことしかやりたくない」

――読み物としてすごく面白い本ができたなと思います。楽しい文体で、活劇チックで、群像劇のようでもあります。一九〇二年、東京に出てきた大杉栄は、幸徳秋水の文章に衝撃を受けます。幸徳の表現の「自由奔放さ」に打たれたわけですが、その「表現の自由奔放さ」はまた本書の特徴でもありますね。大杉栄の人生はかなりつらいものです。楽しいことばかりではない。しかし、びっくりするくらい楽しそうに見えるのが不思議でした。

栗原 ありがとうございます。この本は、何も考えずにわりと素で書いたものなのですが、考えてみれば大杉栄も素で、ありのままで生きていた人なのかなと思います。大杉の根幹にあるのは「やりたいことしかやりたくない」ということです。「生の快楽をなめつくす」とも言っていますが、おそらく大杉には、人はこうやって生きるべきだというような規準がなかったんだと思います。他人の評価なんて気にせずに、素のままで、自分がこれをやっていて楽しい、気持ちいいということだけをやっている。大杉を見ていて面白く感じるのは、この人はほんとうにこれにのめりこんでいるんだろうな、というのが伝わってくるからだと思います。

 ――それにしても、どうして大杉栄だったのですか?

栗原 自分にもヘンに頑固なところといいますか、わがままなところがありまして、共感したんでしょうね。高校生のころから大杉が好きでした。大学に入ってからも卒論や修論で大杉を扱ったり、最近では博論で大杉周辺の労働運動のことを書いていて、その博論が通ったら、夜光社で出版してもらおうと思っていたのですが、見事に落ちてしまった。それで、夜光社の社長さんから代わりになにか書きませんかと言ってもらえたので、だったら大杉で思いきり書いてみたいなと。

 もう一つは被曝社会といいますか、三・一二以降を考えてのことです。この間、矢部史郎さんがしきりに論じていますが、もともと核兵器や原発は、指導者や専門家の言うことを聞かなければ、みんなが死ぬぞといって人を従わせる力をもってきました。「従わない人間は迷惑だ」と負い目を感じさせる。放射能がまきちらされ、本当に死が身近なものになってからは、それがさらにエスカレートしています。食品でもなんでも、放射能は危険だと言うと迷惑がられる。安全だと言ってくれる専門家を信じましょう、そうしなければやっていけない、みんなが困るでしょうと。おかしいと思っていても、まじめな人ほど倫理的になってしまって、原発を放置してきたのは自分たちの責任だ、福島のものを食べよう、応援しようと思ってしまう。空気が重いんですよね。自分で自分の首を絞めている。負い目からはじまって、やっちゃいけないこと、言っちゃいけないことが決められています。だから、いまこそ逆に「やりたいことしかやりたくない」という立場からものを考えたいと思いました。それで、あらためて大杉をやりたいなと。

 ――本書は米騒動から議論を始めていますね。

栗原 大杉の経験として、米騒動は大きかったと思います。大杉はまわりの迷惑なんてかえりみないわけですが、米騒動を見て、あらためてそれでいいんだと確信したんじゃないかと思います。規模が大きく、参加延べ人数は約一〇〇〇万人、当時の人口からすれば六人に一人が暴動を起こしているわけです。よく暴動で商店が閉まることや、ストライキで業務を停止させることはまわりの迷惑になるからやめろと言われがちですが、米騒動までいくと「迷惑」ではないんですよね。みんながみんなハチャメチャに暴れまくっているわけですから。

■「ありふれた生の無償性」と、「相互扶助」と、「生の拡充」

 ――本書では「生の無償性」ということが幾度となく強調されます。「ありふれた生の無償性」を称揚する。そこが、本書では「アナルコ・コミュニズム」、アナキズムと接続されていきます。

栗原 そうですね。「生の無償性」が大杉にとってのアナキズムの肝なのではないかと。あたりまえかもしれませんが、「無償性」と対比されるのは「有償性」や「有用性」です。一般的に、資本主義で必要とされている人の生き方は有償、有用であること。働きにでることは、会社の利潤を上げるという目的があって、職場にいる時間は会社のために役に立つこと、有用であることがめざされる。家に帰っても、それを支えるための夫や妻としての役割があり、モノを買うことも資本主義を支えるための有用な生き方だったりします。大杉は、そうした中で「生きづらさ」を感じている。「どのように生きるべきか」が決められていて、それに従って生きていかざるをえない。ものすごく窮屈で、しかも明治、大正となってくるにつれて資本主義が拡張し、その仕組みもどんどん精密になってくる。大杉が、この息苦しさを突破するために、まず、最初に自らの思想としてとりいれたのが、クロポトキンの「相互扶助」でした。

栗原 「相互扶助」とは、「人が助け合う」というごく単純なことです。人が生きていくうえで最も大切にしているのは「自分が役に立っているかどうか」ではなく、もっと無意識のうちにやってしまうこと――倒れている人がいたら手を差しのべてしまうとかそういうことなんじゃないかと。クロポトキンの例だと、脱獄した泥棒が逃げようとするんだけれども、火事の現場を見てしまう。損得を考えれば、ただ逃げればいいんですが、気づいたら何も考えずに助けていて、それで警察に捕まってしまう。つまり、人は無意識のうちに人に手をさしのべてしまうものだ、動いてしまうものなのだと。この無償の行為が「相互扶助」です。一見すると自己犠牲というか、自滅行為のようにも思えますが、実はとてつもなく大きな自由を手にする行為でもあります。社会の役に立つようにとか、人はこう生きるべきだというような縛りをふりきって、ただ純粋に自分の思いをとげてしまうわけですから。そういう意味では、「相互扶助」に身をゆだねることは、無上の喜びを味わうということでもあるのかもしれません。

次へ進む

「図書新聞」書評コーナー TOPページに戻る