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紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

ドゥルーズ後期読解の成熟

――「分裂」と資本主義にかんする接近には圧倒される
書評:檜垣立哉(大阪大学教授/哲学・現代思想)

 ほぼ同じ時期に、シリーズは違うが同じ出版社から、重量級のドゥルーズ関係書籍が二冊出版された。江川隆男の『アンチ・モラリア――〈器官なき身体〉の哲学』(河出書房新社)と、小泉義之の『ドゥルーズと狂気』(河出ブックス)である。

 江川も小泉もすでにドゥルーズについて(前者は『存在と差異』、後者は『ドゥルーズの哲学』)、そしてその「応用的」側面にかんしても(前者は『死の哲学』、後者は『生殖の哲学』)重要な書物を世に問うている。それらに加え、こうした本をだす意義はどこにあるのか。一見すると、江川の書物は「道徳(まさにアンチ・モラル)」に、小泉の書物は「狂気」にテーマを絞っているかのようにみえる。だがそれが見当違いであることは、読み進めていけばすぐにわかる。これらは、特定のテーマを切り口にして、ドゥルーズおよびドゥルーズ=ガタリを論じた本なのではない。アンチ・モラリアは、狂気は、ドゥルーズ=ガタリが描くこと「そのもの」なのである。その意味で、ここで描かれるのは、特定のテーマではなく、まさにこの両人の、ドゥルーズとのかかわりの「総決算」であるともいえる。屋上屋を架したものではない。いよいよ両人の議論は本格化している。

 おもに論じられるテクストも、奇しくもかさなりあう。江川も小泉も、ドゥルーズ=ガタリの時期のドゥルーズに、前者はスピノザと欲望と身体を軸に、後者はとりわけ精神医学的な分析をめぐって、踏みこんでいくのである。ドゥルーズ=ガタリの連名で著された書物は、日本でさんざん読まれた(利用された)にもかかわらず、日本語では、現在にいたるまでまともなコメンタリーすらない状態である。この分野を中心に、江川は器官なき身体の情動的実践に、小泉はまさしくそこでの「分裂」やそれと資本主義との連関に、ダイレクトに焦点をあてていく。ガタリにかんする議論は、両人ともにいささか影が薄いかもしれない。江川の領土化と脱領土化の議論は、ガタリの図式の援用であるとはいえ、その論の骨はやはりスピノザにあるだろう(スピノザ化されたガタリ?)。小泉の議論は、解放病棟や予防拘禁を論じつつも、ガタリや、ガタリとむすびつくジャン・ウリとの連関には僅かしか踏みこんでいない。しかしそれは、ないものねだりかもしれない。両者の、器官なき身体への、分裂と資本主義にかんする接近には、そんなことを越えて圧倒されるものがある。

 江川の議論の中心は、器官なき身体の位置測定を背景とした、モラルにかんする強い言明にある。「アンチ・モラリア――これは、人間そのものをあらゆる擬人化から解放することである」(同書四五頁)。道徳とは、何においても人間による人間の擬人化のことであった。そうした擬人化を一切排した先にみいだされる、信仰もなければ意志もない位相こそがアンチ・モラリアにして脱人間的な自然である。そしてそこから提示される、人間的には果たされない「革命」というヴィジョン。「〈革命〉は人類が相続できない遺産である」「〈革命〉は人間的変革ではなく、人間本性の変形である」(同書二九〇頁)。

 江川が示す視界はすがすがしいほどまでに徹底的だ。だが他方で、脱地層化の先に描かれるべき地層化にかんしても怠りはない。そして、その途上でとりあげられる独自の気象論、大気層にかんする議論は、一見して主題を逸脱するかにみえて、江川的な読みのひとつの真骨頂にもおもえる。人間は大気圏に安住している。そこで人間があれこれ異常気象や道徳的な温暖化をのべる。だが自然において、実際は何も正常なことも異常なこともない。「〈気象が存在すること〉、それ自身が特異性なのである」(同書二三九頁)。アンチ・モラリアの極限に示される自然哲学。そのなかでも、ルクレチウスのペストや伝染病の記述にかんする部分は、反道徳と自然について、さまざまな示唆をあたえてくれる。

 小泉の書物では、その中心におかれる『アンチ・オイディプス』の独自の読解もさることながら、小泉がその時代を生きた証言として記している、七〇年代から八〇年代の、日本の精神医学の歴史と(同時代として)絡みもするドゥルーズ=ガタリの精神医学への姿勢の分析こそが際だっている。そこでの木村敏へのおおきな評価、病をあつかう多様な政治的な姿勢の整理、資本主義と「分裂」の連関についての率直な疑念と踏みこみ。とりわけ中盤以降、小泉節を炸裂させる部分は、実に読ませるものになっている。『アンチ・オイディプス』は、通常考えられているように、反精神医学の本でもなければ、反精神病棟の本でも何でもない。さらには反資本主義の本でも、反ファシズムの本でさえもない。そのような簡単なテーゼにまとめて満足するのは、脱領土化の運動として領土化(陣地戦)をくりかえしてきた、運動家やリベラル左派のおもいこみにすぎない。『アンチ・オイディプス』が標的とするのは、そうした連中なのではないか。ドゥルーズは、そこで解などだせないことにつねに向きあってきたはずだ……こうした小泉節がもっとも威力を発揮するのは、リベラル左派による予防拘禁や精神障害についての言説の、ドゥルーズ=ガタリ論を逸脱して描かれる丹念な分析と批判である。さらにドゥルーズ=ガタリから、分裂症と、スキゾイドという二つの位相を区分し、後者のスキゾイドを、分裂的でもある資本主義の未来、ひいては人間の未来につなげていく部分は迫力にみちている。資本主義が分裂とともにあるその先では、スキゾイドこそが未来の人間であるのかもしれない。人間という枠を越えた、自然および資本の、人間には解決できない場面が、江川の議論ともかさなりながら、衒いもなく明らかにされていく。

 両者ともドゥルーズ=ガタリの思考そのものの本格的な著作であり、これらの著作が同時期に出版されたことは、それ自身、後期ドゥルーズ読解のひとつの成熟点とみることができるだろう。だがそのうえで、あえて注文をのべておけばこうなるだろう。ドゥルーズにせよ、ドゥルーズ=ガタリにしてさえも、個別科学・個別人文学にも、政治にも、社会にも、美学にも解消されえない根本「哲学」を論じていたこと、これは確かであるし、両者のブリリアントな書物からも明確なことである。とはいえ、後期のドゥルーズ=ガタリのひとつの方向は、個別科学との、あるいはエコロジーやエソロジーとの、そしてそのうえで語られる政治や美学との関連にもあるのではなかったか。そこでの「華やぐ知」との協奏も、彼らの仕事の一側面であるはずだ。純粋哲学への徹底ぶりから少し解放されて語られる「華やぐ知」のドゥルーズ=ガタリ、これが、この徹底的な書のあとでどう描かれるのかも、少しみてみたい。(大阪大学教授/哲学・現代思想)