本、雑誌、CD・DVDをお近くの本屋さんに送料無料でお届け!

紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

アレゴリーが運動を喚起する

――映画とはそれ自体において運動である
評者:四方田犬彦(映画史・比較文学)

 この映画評論集には、蓮實重彦であるならば、「単に頭が悪いだけ」とか「映画的官能性を完璧に欠落させた」といって、一蹴してしまうような文章ばかりが集められている。また川本三郎であるならば、「なにも映画ごときでそうイキリ立つこともないだろうに」と顔を背けるような科白ばかりが語られている。さらに昨今の年軽人(中国語で若者の意)の映画ブロガーであるならば、「細部のデータについて記述も確認もなされていない」と揶揄され、「わけのわからない、難しい理屈を並べてもらっても困る」と投げ出される言葉ばかりが並んでいる。

 確かにここに書かれている言葉は当世風の軽快さを纏っているわけでもなければ、インターネットで確認した精密な情報に裏打ちされているわけでもない。にもかかわらず本書が読むに値するのは、映画とはそれ自体において運動であるという著者の信念がライトモチーフとして繰り返され、一本のフィルムを選び、それを批評するさいの視座に深く関わっているからである。小野沢稔彦はアナクロニズムであると隠しもしなければ否定もしない。花田清輝が『錯乱の論理』で書いたように、その町にひとつしかないというデパートの旗をいつまでも眺めている。風に靡く旗を眺めている立ち位置が本書の意味である。冒頭に置かれた文章をパラフレーズして、彼の意図を理解してみるとこうなる。

 現代とは危機の時代である。そして映画は、その危機を告げ知らせ、それが何であるかを問い訊ねるメディアである。映画は昔からそうだった。だから運動である。映画はいろいろな意味で、境界の上で揺れ動いている。またその揺らぎを鏡のように映し出してもいる。だから一本のフィルムを観ることは、自分の生きている時代に真っ向から向かい合うことだ。映画は現下の世界がなぜに、いかにして現在であるかを映し出している。もし映画批評が書かれるとすれば、それはこうした意識を積極的に自覚することから始めなければならない。批評は映画を挑発するばかりか、観客をも挑発するものであるべきだ。

 一本のフィルムの内側で語られている物語を批判する者は多いが、それだけでは何の意味もない。フィルムを作りだしている方法を批判しなければいけない。方法は歴史的に形成されたものである。だから映画の方法を批評することは、歴史を批評することでもある。もっとも映画において独自なのは、大文字で記された、書かれたものとしての歴史ではなく、われわれの日常において起きている事件をそのままにはせず、自覚的に思考することだ。われわれの五感は、実は歴史的に作り上げられたものである。映画を通してそれを批判的に認識することで、われわれが具体的に生きた時間は取り戻されることになるだろう。

 以上が本書の基本となるマニフェストである。そしてこの基準に応じて、2003年から10年間にわたって書き継がれた61本の短いエッセイが、本書には収録されている。強く印象に残ったことを書いておきたい。

 小野沢稔彦がまずもって拒否するのはメロドラマである。井筒和幸の『パッチギ!』と井土紀州の『行旅死亡人』は、その稚拙なメロドラマ性によって批判される。このあたりの事情は、古典的な悲劇への批判運動として開始されたメロドラマというジャンルのもつ、本来的な秩序反復性に多く期待しているわたしとしては、今少し議論に粗雑さが目立つといいたいところだ。だが、そんなことはどうでもよい。本書でより重要なのは、返す刀で著者がアレゴリーの重要さを繰り返し強調していることだろう。ハネケ、スコリモフスキーやタル・ベーラといった、魁偉な容貌をもった中欧・東欧系のフィルムが優れてアクチュアルであるのは、それがアレゴリーを基軸として観客に異様な緊張を求めてくるからだ。このアレゴリーを観る側のもとへ強引に引き寄せてみせるところから運動は始まると、小野沢は主張している。誰か、ベンヤミンを巻き込んで、この本の続きを書く者はいないか?(映画史・比較文学)