本、雑誌、CD・DVDをお近くの本屋さんに送料無料でお届け!

紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

混沌とした状況を活写

――問題提起型の事典
インタビュー:野家啓一

■非常に大部な『スクリブナー思想史大事典 全一〇巻』(丸善出版)が刊行された。これを機に、同事典翻訳編集委員長の野家啓一氏に話を聞いた。(インタビュー日・1月27日、東京・神田神保町にて。聞き手・須藤巧〔本紙編集〕)

■学問の地殻変動を大胆に反映

 ――とてつもない分量の事典で驚いています。原著のタイトルはNew Dictionary of the History of Ideasで、直訳すれば「観念史新事典」ですが、この邦訳では「思想史大事典」と銘打たれています。

野家 「History of Ideas」は特殊な意味を持っています。アメリカにアーサー・ラヴジョイという哲学者がいます。彼がHistory of Ideasという「アイディア」を出しました。「Journal of the History of Ideas」という雑誌も彼が創刊したものです。日本語で「観念」や「観念的」というと、観念論とか、机上の空論、あるいは抽象的で難解とか、悪い意味やイメージがあると思います。われわれがものを考えるときには様々なアイディア、抽象的な物事、概念を使って思考を組み立てていきます。その「もと」になるような単位のアイディアや観念を、その発生や歴史的な展開をたどることによって、われわれの新たな思考の枠組みをかたちづくったり、既成の思考の枠組みを組み換えたりすることに役立てようというのがラヴジョイの意図でした。観念の歴史を知ることによって、われわれが自分たちの既成の観念を打ち破ったり、新たな体系の構想をしたりすることの基盤になるような作業をやろうとしたのが「History of Ideas」の出発点です。

 同じような概念に「History of Thoughts」とか「Intellectual History」、ドイツ語ですと「Begriffsgeschihite」(概念史)というものもあります。今回の『スクリブナー思想史大事典』は、「観念史」という項目があることからもわかるように、ラヴジョイの構想をさらに発展させようという意図で編集されています。本事典の旧版にあたるDictionary of the History of Ideasは、一九九〇年に平凡社から『西洋思想大事典』というタイトルで邦訳が出ています。大きな事典で、影響力がありました。一流の学者がそれぞれの項目を執筆していて、一つの項目だけでもゆうに一冊の本になるような、古典的な叙述の仕方をしています。それぞれの項目に価値があり、学問的な意味があるものでした。その新版が、『スクリブナー思想史大事典』として邦訳されたわけです。旧版に比べると、項目立てや叙述内容に大幅な改訂がなされています。ラヴジョイの「観念史」よりも広い範囲を扱っている。その点でも、「観念史」や「概念史」という表題よりも「思想史」のほうが内容にマッチしているのではないかというのが、本事典編集委員一同の意見でした。

 日本語版序文にも書きましたが、旧版は「西洋思想大事典」という邦題になったように、ヨーロッパ中心主義(Eurocentrism)といいますか、ギリシャ、ラテンから始まって近代へと継続されてきたヨーロッパの知的伝統をバックボーンにして編集されています。それに対して今回の新版は、カルチュラル・スタディーズやポスト・コロニアリズムなどの手法を導入し、あるいはヨーロッパ以外の地域を重視してこれまでのヨーロッパ中心の叙述を批判的に乗り越えようという、それこそ「新しいアイディア」を出しています。そういうこともあり、「観念史」というタイトルでは少し範囲が狭すぎると思っていました。

 ――旧版の原著が一九七三・四年に出て、この新版の原著は二〇〇五年に出ています。その間には約三〇年の時間が流れています。また、野家さんが書かれた日本語版序文には、「脱領域」「学際」といった、「観念史」よりは日本語に馴染んできたかとも思えるタームが出てきます。

野家 目次を見ていただけるとわかると思いますが、「アフリカ」「南アメリカ」「東南アジア」といった地域を重視した項目立てになっています。これまで百科事典に取り上げられなかったような地域・項目を大幅に取り入れています。これは本事典の特色ですが、旧版からの三〇年の間の学問の地殻変動を大胆に反映した編集になっていると思います。

 ――序文には、この新版は「21世紀の混沌とした思想状況をそのまま写し取っている活気に満ちた事典」と書かれていて、思想のみならず、政治経済や宗教など、まさに現在も混沌のただ中にあると言えると思います。

野家 はい。二〇〇一年の9・11以降の政治的経済的な地殻変動もかなり忠実に反映した事典になっています。例えば旧版には「イスラムの知的概念」という項目しか出てこないのですが、それもヨーロッパの視点からしか描かれていませんでした。しかし今回は、「イスラーム」はもちろん「イスラーム科学」や「イスラーム法」、さらには「イスラーム・フェミニズム」まで、かなり大きな領域と分量を占めています。