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この特集ページでは、海外文学を紹介しているフリーブックレット「BOOKMARK #17 2020 WINTER」に掲載された作品を、翻訳版と併せて原書(洋書)もご紹介しています。気になる作品を見つけて、海外文学の魅力にどっぷり浸ってみませんか?
BOOKMARKとは、テーマに沿ったおすすめの翻訳小説を選んで紹介している大人気のフリーブックレットです。 最新号のテーマは「BOOKS ON BOOKS」。本についての本。紹介してくれるのは、翻訳を行なった翻訳家自身なので、作品の魅力がしっかりと伝わってきます。
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心を病んで子を虐待する母親は魔女であり、その魔女に苦しめられる幼い双子の姉妹は、魔法で対抗する。だが、力およばず妹は落命し、姉は片脚に重い障碍を負ってしまう。 本作は、ひとりになった15歳の姉が遠い昔に別れた父親に引き取られ、寄宿学校に入れられた日から起筆された彼女の日記という体裁をとっている。
寄宿学校で当然のように孤立する主人公は、自身がもつ魔力やフェアリーとの交流をさかんに書き記す。とはいえこれは、孤独と憂愁を糊塗するための少女の空想かもしれない。逆に彼女が詳述する掛け値なしの現実は、次々に読破するSF/ファンタジー小説のことばかり。そう、彼女は恐るべき読書家であり、このSFへの熱愛が学校の図書室、町の図書館を通じて彼女を未知の人たちと結びつけ、孤独から救ってゆく。作中で言及される本は、SFを中心に優に170冊を超える。邦訳版ではすべてを巻末に列記しておいたので、物語が設定されている1979年までの代表的SF作家と作品を概観するのにも、実用性が高い一冊になった(と信じたい)。
(茂木 健) -
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『グーテンベルクのふしぎな機械』
ジェイムズ・ランフォード
千葉茂樹 訳
(あすなろ書房)
読書が大好きな人のことを「活字中毒」といったりしますが、いまやこの言葉は正確とはいえません。活字を用いて作られた本を手にする機会など、ほとんどなくなってしまったからです。一冊一冊、人の手によって書き写されていた写本の時代と、活字を使わない本、さらには紙とインクさえ使わない電子書籍がどんどん幅をきかすようになった現代。その間500年以上にわたって、本作りの主流だった活版印刷を発明したとされるのがグーテンベルクです。
本書は絵本です。グーテンベルク考案の活字や印刷機による本作りの過程だけではなく、紙やインクの作り方まで、絵本の利点を最大限に生かしてビジュアル化し、子どもから大人にまでわかりやすく簡潔に紹介しています。グーテンベルク聖書の見開き写真も掲載されているのですが、その芸術的美しさにはうっとり。
絵本が大好きで、子どもの頃から手作り絵本を作っていたという作者の、本への愛情がすみずみまで行き届いたこの作品、本好きの皆さんにぜひ。
(千葉茂樹)
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原題はLiterary Wonderlandsで、日本語だと、「文学における" 不思議の国"」とでも言うべきだろうか。不思議の国と言えばもちろんアリスだが、この事典で紹介されているのはファンタジーやSFや児童書のジャンルに属する作品だけでなく、『神曲』から『1Q84』まで、古今東西にわたる空想世界を舞台とした全ジャンルのとてつもなく豊かな物語の数々だ。
空想世界が舞台だからといって、描かれているのはただの絵空事ではない。すぐれたフィクションは、現実世界の諸問題をノンフィクション以上に鮮やかに際立たせる側面を持つ。この事典では、ありとあらゆる形のユートピア(理想郷)やディストピア(暗黒郷)、さらにはコントピア(共生郷)とも呼ぶべきものが紹介される。それらを描いた作品に共通するのは、現在を的確に分析し、未来を大胆に予見する鋭い批評精神だ。この事典での紹介から何か感じることがあったら、その物語を手にとって、想像上の世界への旅を楽しみつつ、不安な現代と向き合う強力な武器としてもらいたい。
(越前敏弥) -
思春期に初めて文字の存在を知った辺境の青年ジェヴィックは、帝国の文学に耽溺して成長する。やがて彼は憧れのオロンドリア帝国に赴くが、病死した少女の幽霊にとり憑かれ、それが原因で思いもよらぬ長旅をすることになる。
原書を初めて読んだときは、語られ記される言葉を中心に異世界を作り上げようとする作者の情熱に圧倒された。作中には創作言語(地方ごとに異なる)がちりばめられ、主人公が旅先で聞かされる歌や伝説もふんだんに盛り込まれている。主人公はまた、ゆく先々の風景を見ては、その土地にゆかりの書物の一節を思い出す。そうした引用や作中作が、物語の背景となる帝国の長い歴史と文化の豊かさを浮かび上がらせる。
少女の幽霊は主人公に「わたしのことを本に書いてくれ」と懇願する。その哀切な願 いは、作中にあふれる先人の記述や口碑と相まって、言葉が後世に残ることの意味を幾 重にも考えさせてくれる。日ごろ何気なく行なっている、文章を記すという営みも、こ の物語を読んだあとでは少し違った角度から眺められるかもしれない。
(市田 泉)
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まだアルジェリアがフランスの植民地であった第二次大戦直前、首都アルジェで、リセを卒業したての若者エドモン・シャルロが、乏しい資金をやりくりして小さな書店兼出版社、〈真の富〉社を立ち上げた。彼の夢は、書物によって、地中海に橋を架けること――親友アルベール・カミュやリセ時代の哲学教師ジャン・グルニエらの協力を得て、シャルロはこの夢の実現に向けて邁進する。この小説は実在した(シャルロは2004年没)伝説的出版人の半生を彼の日記の形をとって追う。大戦中・戦後の紙や印刷インキの欠乏、ナチの手を逃れてアルジェにやってきた作家たちとの交流、官憲からカミュの行方を追及され逮捕される話など、興味深い逸話が満載だが、特に、あのサン=テグジュペリが最後の偵察飛行に出る直前の姿をシャルロが垣間見るシーンは感動的だ。戦後はパリに支社を作るが、ガリマールなどの大手出版社による迫害を受けて重要な著者を奪われる。それでも挫けずに出版を続けるシャルロの姿は、本を愛し、文学の力を信じる人たちに限りない勇気を与えるだろう。
(平田紀之) -
15歳の少年が、36歳の独身女性と恋仲になる……。『朗読者』は、そんな衝撃的な始まり方をしています。初めての性体験に夢中になる少年。路面電車の車掌をしていて、自分のことはあまり話そうとしない女性。女性は少年に、セックスの前に文学作品を朗読してくれるように頼みます。他の人に打ち明けることのできない秘密の恋は、ある日あっけなく終わり、少年はその理由がわからずに苦しみます。
作者のシュリンクは、ドイツの有名な憲法学者でもあります。小説では後半、アウシュビッツ裁判の様子が描かれ、かつての少年は法廷で、自分が愛した女性と再会。物語は大きく動き始め、謎が解けていきます。
裁判では必ず白黒をつけなくてはいけないけれど、戦争犯罪はそんなに簡単に裁けるものなのだろうか? もし自分がその現場にいたら、と想像することなしに、当時の人々を断罪するのは不当ではないか? ミステリーでデビューした作家らしい伏線も仕掛けながら、作者はさまざまな問いを読者に投げかけます。世界各地でベストセラーとなった、シュリンクの代表作。
(松永美穂)
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『本を読むひと』
アリス・フェルネ
デュランテクスト冽子 訳
(新潮社)
アンジェリーヌ婆さんは一般に抱く異国情緒に溢れるイメージとはほど遠いジプシー家族の家長。4人の息子、その嫁、孫に囲まれ日がな焚き火をいじくって暮らしている。現代社会から疎外され孤立し、電気も水道もない空き地に無断侵入し怖いもの知らず。社会保障も学校教育も法律も知らない彼らだけの閉鎖された世界。
とある日ジプシーが『よそ者』と呼ぶフランス人の女性エステールがそこにやってくる。彼女は図書館員。彼女にとって本は人生に不可欠なもの。本を知らない子供達に読書の持つ魔力を教えてあげたい一心で、ジプシーの家族から白い目で睨まれながらも本を担いで週に一回その野営地に通ってくる。アンジェリーヌ婆さんは読書をするエステールを半信半疑の横目で観察する。読書が始まるや、子供達は現実の世界を離れ、夢の世界に吸い込まれ虜になっていく。アンジェリーヌ婆さんも家族も次第にエステールの誠実さに目覚め、二つの世界を結ぶ絆が成り立つ。
欲望も羨望もない貧困の世界にも笑い、涙、喜び、美しさが存在し、ジプシーの凄まじき精神が心に感動を喚び起す。
(デュランテクスト冽子) -
舞台は第二次世界大戦後終戦から間もないシカゴ。主人公は、中2の黒人少年、ラングストン。ただでさえ難しい年頃なのに、母の死、田舎から大都会への引っ越し、新しい学校でのいじめ、故郷に残してきた祖母の死と、つらいことが立て続けに起これば、人生のどん底をさまよっている気分だろう。そんなときラングストンを支えたのは、黒人でも利用できる図書館と、自分と同名の詩人、ラングストン・ヒューズの詩の世界だった。ときどき主人公の気持ちを代弁するように引用されるヒューズの詩が心にしみる。
本書を訳し、ひとりのおとなとして、子どもたちを見守るヒントをもらったように思う。
作者はこれまで、さまざまな分野における黒人の活躍を絵本にして紹介してきた。小説デビュー作となった本書は、南部から北部への黒人の大移動とそれに伴う黒人文化の開花を背景とする歴史小説だ。BLMが世界的に注目されるなか、アメリカの人種問題についてもっと知りたいけど歴史書はとっつきにくいなら、ラングストンの視点でこの時代の様 子をみてみませんか?
(松浦直美)
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若い頃からずっと、本というのはテキスト以外の何物でもないと思っていた。ところがあるとき、元祖『イリアス』って、どんな「本」だったんだろうと気になった。平安時代の『源氏物語』でさえ紫式部本人の書いたものは残っていない。ホメロスの直筆の本なんて、まず現存していないだろう。とすると、岩波文庫で読んだ「あれ」は、どこにあるどんな『イリアス』を訳したものなんだろう。いや、死海文書は部分的ではあるが残っているし、メソポタミア文明の『ギルガメシュ叙事詩』は粘土板が残っているわけで、もしかしたら……などと、物としての本が気になってきた。それで分厚い解説本をいろいろ読んでなんとか、その答えはわかってきたのだが、そんな本の歴史をもっとスリムに語ったものはないんだろうかと思っていたら、この薄い本に出会った。イラストがたっぷり入った140ページほどの本に、本や図書館の歴史がじつにコンパクトにまとめられているうえに、本にまつわる格言や詩までちりばめられている。しゃくに障るほどスマートな本です!
(金原瑞人) -
この絵本は、絵のかなりの部分が、言葉で出来ている本です。海、山、怪物、道等々が、それに相応しい物語から抜き出した言葉で出来ているのです。たとえば怪物は、『フランケンシュタイン』や『ドラキュラ』の言葉から成っています。
使われている本は、児童文学の名作と言われる本が大半です。だから、たいていの人は、びっしり集まった、集まりすぎて読めないところも多い言葉を読めるだけ読んでいくと、あーこれは、と懐かしい思いに駆られることが多いのではと想像します。
想像します、と他人事のように言うのは、僕自身にとってはそういう懐かしさは本当に他人事だからです。子供のころ本をほとんど読まなかったので、夢中になって物語の世界に浸ったとか、そういう経験がまったくありません。それでも、ポプラ社の吉田元子さんに誘われてこの本を読んでみて、とても面白かったので、ふだんは依頼されて翻訳を引き受けることはめったにないのですが、引き受けました。翻訳は、児童文学の名作をあれこれつまみ食いするような作業で、とても楽しかったです。
(柴田元幸)
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「下宿人募集――ただし、子どもとネコと龍が好きな方に限ります」大学の新学期直前にデービットが見つけた下宿先は、そんなちょっと変わった条件があるものの、こぢんまりとしたすてきな一軒家。大家のリズは陶芸家で、11歳の娘ルーシーとネコのボニントン、そして、リズの作品である陶器の龍たちと暮らしている。口から先に生まれてきたようなルーシーに振り回されつつも、デービットは大学町での生活にだんだん慣れていくが、このウェイワード・クレッセント42番地の家にはある秘密が隠されていた……。
第1巻にあたる本書で、デービットは自分だけの特別な龍を手に入れることで、作家としての才能を開花させる。その後、デービットが辿る変遷には驚くにちがいない。子どもだったルーシーも情熱的な若い女性へと成長し、42番地の龍たちの秘密もひとつひとつ明らかになって、物語はついに宇宙まで広がっていく。
現在、5巻+スピンオフ3冊が発売されている本シリーズ。いよいよ(というか、やっと?)6巻目と7巻目も動き出す予定ですので、どうぞご期待ください!
(三辺律子) -
本好きのみなさま、梯子がかかった、3階分は高さのありそうな書棚を見たら、わくわくしませんか?ペナンブラ氏の24時間書店には、そんな書棚がずらりと並び、そのうえそこに置いてある本は暗号で書かれているのです。
本書は全米図書館協会アレックス賞(YA世代に薦めたい本に与えられます)を受賞し、日本では全国大学ビブリオバトル2014でグランドチャンプ本に選ばれました。主人公の青年クレイは友人とコンピュータの力を借りて暗号の解読に挑んだことから、500年も昔の活字をめぐる冒険へと旅立つことになります。恋と友情、ユーモアと風刺に溢れ、アナログ派もデジタル派も、若い世代も年を重ねた世代も楽しめる作品です。宮崎アニメを思い出させる情景描写も魅力的。
本書の前日譚Ajax Penumbra: 1969の邦訳が近々刊行される予定です。店主ペナンブラの若かりし日と、本をめぐる冒険が描かれていますので、どうぞこちらもお楽しみに。
(島村浩子)
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本を、精神の避難所にしている人は多い。この物語の主人公カリプソもそのひとり。
「べつに人ぎらいってわけじゃないけれど、正直にいえば、本のほうがいい。本が頭のなかにつくってくれる安らぎの場所、魔法や、無人島や謎に満ちた世界が好き」と、11歳の少女はいう。本と自分があればいい。それ以外のものはいらないと思っていたわけで、当然友だちをつくろうともしない。そんな彼女に、ある日とうとう、本好きの友だちができるところから物語は動きだす。
じつはカリプソは母を亡くしていて、欝傾向の父親とふたりで暮らすヤングケアラーだ。自分が成長していくことで精一杯なはずが、親兄弟や祖父母の世話に追われる。そういう子どもや若者のことをヤングケアラーといい、最近日本でも大きな問題となっている。「自分のいちばんの友だちは自分なんだ」が口癖で、娘に「強い心」を持つことを強要する心を病んだ父親とふたり、カリプソは厳しい現実をどう生きていくのか。
困難に遭ったときの、本の力、友の力の凄さに、改めて気づかされる物語だ。
(杉田七重) -
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『水曜日の本屋さん』
シルヴィ・ネーマン 文
オリヴィエ・タレック 絵
平岡 敦 訳
(光村教育図書)
フランスの本屋へ行くと、床にどっしりとすわりこみ、堂々と店の本を読んでいるお客を目にすることがある。それを店の人がとがめるふうもない。まるで本好き同士を結ぶ暗黙の了解が、彼ら、彼女たちのあいだに交わされているかのようだ。
この絵本に出てくる老人も、街角の小さな本屋で肘掛け椅子に腰を落ち着け、ぶ厚い本を読んでいる。学校が休みの毎週水曜日、店に通ってくる女の子は、老人のことが気になってしかたない。さし絵の一枚もない難しそうな本が、面白いのだろうか? そんなに好きな本なのに、どうして買わないの? けれどそこに描かれている戦争の話が、老人にとってとても大切なことらしいのは、女の子にも感じ取れた。
そしてクリスマスが近づいた冬の日、本屋のおねえさんが示した粋なはからいに、女の子の胸はぱっと明るくなる。「なんだか、世界中がほほえんだようなきがした」という彼女のひと言に、読者のなかにも晴れやかな光が射すだろう。そう、書店とは本好きたちが集い、心をかよわす場所でもあるのだ。
(平岡 敦)
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「1冊の小説が世界を変える」という信念に命を賭けたC I Aの女性たちと、その小説の執筆にあたって著者の支えとなったソ連のある女性が、主人公。冷戦時代のアメリカが、ソ連で発禁となった「あの本」を武器としてソ連の社会体制をくつがえそうとした歴史的事実と、その陰で秘密を守りつつ、性差別や理不尽な仕打ちに耐え、信念を曲げずに愛を貫いた女性たちのフィクションが、見事に融合しています。2020年エドガー賞最優秀新人賞にノミネートされ、マカヴィティ賞スー・フェダー歴史ミステリ賞を受賞しました。
アメリカの新人作家が3年かけて書いたこの作品は、23社によるオークションにより200万ドルで落札され、大評判となったものです。原題はThe Secrets We Kept「 わたしたちが守った秘密」。本書の内容をよく表しているのですが、よりインパクトのあるタイトルをと、編集者さんが考えてくださった邦題となりました。読み終わったあとの余韻にひたりながら、その意味を考えていただけると嬉しいです。「あの本」とは、1958年にノーベル文学賞に輝き、映画にもなっている『ドクトル・ジバゴ』ですが、こちらは未読でもまったく問題ありませんので、安心して本書からお読みくださいね。
(吉澤康子) -
ベルナルド・アチャガは、スペイン北部とフランス南西部に跨るバスク地方で話される少数言語、バスク語の作家として国際的に知られる。 15年前に初めて読み、いつかきっと訳したいと思っていたこの小説を、ようやく念願叶って刊行することができた。
物語は、アメリカで亡くなったバスク人移民ダビの死とともに幕を開ける。彼のもとを訪れていた幼馴染みのヨシェバは、ダビの妻から、夫が書き残したというバスク語の回想録を手渡される。作家であるヨシェバは、故郷の村オババに帰ったあと、ダビの回想録に自分自身の記憶を補いながら加筆・編集し、二人の共著として出版することにする。そうして成立したとされるのが本書『アコーディオン弾きの息子』だ。
こうして架空の二人の作者が配されたこの小説は、しばらくはダビの語る故郷での懐かしくも痛ましい思い出を描き出していくが、やがて、二人の作者の過去に対する異なる視点や思惑、そして現実とフィクションのあいだで、最終部にかけて思いもよらぬ展開を見せる。大部の小説ではあるが、ぜひその展開を楽しみに、物語の流れに最後まで身を委ねてみてほしい。
(金子奈美)
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『我が友バートルビー』
<エッセイ>
都甲幸治
ニューヨークに行った。ちょうど正月頃で、コロナが流行り始める直前の時期で ある。たまたまワシントンスクエアの目の前にある古いホテルに部屋を取った。どれぐらい古いかと言うと、みんなが同じ時間にお風呂に入りたくなる。そうすると ホテル全体でお湯の量が足りなくなって、全部の部屋でお湯が出なくなってしまう。
空き時間には友人とニューヨークのいろんな場所を巡った。自由の女神を見て、 中華街に行って、美術館も巡った。それはそれで楽しかったけど、結局一番印象に残っているのは空き時間の散歩である。カフェ。古い教会。ボロい地下鉄の入り口。一つ一つが東京とは違っていて趣き深かった。
日本に帰ってから、メルヴィルの『書記バートルビー』を読んだ。この作品の舞台であるウォール街は、ワシントンスクエアからちょっと南に下った場所にある。今回の旅行でマンハッタン島の南の方の雰囲気や匂いやたたずまいが分かったおかげで親しみが湧いた。
バートルビーは弁護士の助手で、19世紀にはコピー機なんかないから、法律の文章を手書きで写す。彼は最初は調子よく仕事をしていたが、そのうち「しない方がいいのですが」という謎の言葉を繰り返すだけで何もしなくなる。そして勝手に 事務所に住み着いてしまう。食べるのはジンジャーナットというクッキーだけである。彼をどうにも追い出せなくて、しょうがないから事務所の方が引っ越す。そして彼は亡霊のように建物に取り憑く。
ウォール街のように、有能なものしか生き残れない、という場所で彼みたいな、極端に無能な人が何もせずにいる、という話を書くメルヴィルのセンスに痺れる。してまた、有能であることに疲れた僕らにとって、バートルビーは一つの目標だと思う。ダメでもいいじゃない。ニューヨークに行ってそう感じられるようになっただけでも収穫だった。何しろ、バートルビーと同じ街を僕も彷徨えた、というだけで嬉しくなってくる 。 -
エッセイのテーマ作品
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都甲幸治氏の近著