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この特集ページでは、海外文学を紹介しているフリーブックレット「BOOKMARK #18 2021 SUMMER」に掲載された作品を、翻訳版と併せて原書(洋書)もご紹介しています。気になる作品を見つけて、海外文学の魅力にどっぷり浸ってみませんか?
BOOKMARKとは、テーマに沿ったおすすめの翻訳小説を選んで紹介している大人気のフリーブックレットです。
最新号のテーマは「Other Voices,Other Places」。翻訳を行なった翻訳家自身が、作品の魅力をしっかりとお伝えします。
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主人公の男女はどちらも幼少時代の体験から心に大きな傷を負っている。彼女は脚が不自由で拒食症、彼は数学の天才だが自傷癖があり、揃って周囲になじむのが不得意なタイプだ。そんなふたりの出会いと成長を描き、2008年にイタリア最高峰の文学賞を受賞したのが、この『素数たちの孤独』だ。
今回、久しぶりに読み返してみて、ふたりの思春期までが語られる序盤はこうも重い話であったかとやや打ちのめされた。もしかしたら読者のなかにはつらくて先が読めなくなってしまう人もいるのではないか。かつて自分も経験した覚えのある苦しみのいくつかが、それほどリアルに表現されていた。
ただし「過去の亡霊」と「結果の重み」に苦しみ続けた主人公にも、やがて静かな安寧の時が訪れる。未読の読者にも、その点は先に明かしてしまってもいい気がする。
そういう時がお前にもきっと来るから……あの頃の自分にそう言ってやれたらなと思う。そんな痛いけれど、優しくて、大切なひとに勧めたくなる物語だ。(飯田亮介)
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ヴィキは7歳の時に、アルバニアからイタリアへ密航した。夜中に、妹のブルニルダとお母さんと、ぎゅうぎゅう詰めのゴムボートに乗って。途中、重量オーバーだったボートから、1人が〝減らされる”。初っ端から、旅は想像を絶する過酷さだ。当然、ヴィキの頭のなかではいくつもの疑問符が渦巻く。「あの女の人が死んだこと、誰が家族に教えてあげるの?」「不法滞在ってなに?」。思わず怯んでしまいそうな質問に対して、まわりの大人たちは、はぐらかすことなく丁寧に言葉を返す。そんなヴィキたち家族の、切実な、それでいてユーモアや思いやりも忘れない会話によって紡がれる本書は、映画のダイアローグリストのように脳内で鮮明な映像を結ぶ。そうして私たち読者も、この世の中は、「正義」と「法律」が必ずしも一致するわけではないことに、ヴィキと一緒に気づいていくのだ。それはきっと、いままで他人事で済ませていた地球の不均衡に目を向け、私たちのすぐ隣にもいるはずの彼らの、「ぼくたちは幽霊じゃない」という心の叫びに耳を傾けることにつながるだろう。
(関口英子)
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アウシュヴィッツ強制収容所において26歳の若さで命を落とした、実在のユダヤ人画家シャルロッテ・ザロモン。物語はシャルロッテとおなじ名の叔母の自死から始まる。
叔母も母親も、そしてその二人以前から連綿とつづいてきた自殺者の家系に生まれたシャルロッテ。そしてナチの台頭によって輝く場を奪われ、つねに影に覆われながら生きていく彼女の生きる糧はアルフレートへの愛と芸術だった。狂気と絶望に苛まれながら、彼女は全人生をかけて超大作『人生?それとも舞台?』を描ききる。700枚にもおよぶ水彩画から成るこの作品は、アルフレートへの愛と生きる希望に満ちあふれている。
本作品は、作者が息継ぎをしながらでなければ書けなかったために、一行一文という文体で書かれている。読者も同様に息継ぎをしたくなる。悲劇に見舞われながらも生きることを諦めなかったシャルロッテの情熱に胸を打たれる。そして必ずや『人生?それとも舞台?』を生で見てみたくなるだろう。(岩坂悦子)
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「むかしむかし、大きな森に、貧しい木こりの夫婦が住んでいた」――物語は、そう始まる。だが木こりが日々おこなっているのは「侵略者たちが命令する土木工事の強制労働」。
著者グランベールは、今年82歳だ。戦争を生きのび、劇作家として6度もモリエール賞を受賞し、フランソワ・トリュフォー監督の最大のヒット作といわれる映画「終電車」では、台詞作家としても活躍した。そんな大ベテランが、おそらく人生の終わりも見すえて「これだけはどうしても」という強い思いで書いたのが、この本では、という気がする。短くも迫力ある物語の、洒脱な語り口に、詩のようなリズムに、やさしいおとぎ話と胸を衝くルポルタージュを融合させたような見事な構成に、老作家の才気と、気骨と、覚悟のようなものを、訳出中ずっと感じていた。そして最後に、彼はこう語りかけるのだ。「ただ一つ存在に値するもの――実際の人生でも物語のなかでも、ほんとうにあってほしいもの、それは、」と。
その先の言葉を、ぜひ受けとって、ささやかでも明日へ向かう力の一端にしていただけたらと願っている。(河野万里子)
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『保健室のアン・ウニョン先生』
チョン・セラン
斎藤真理子 訳
(亜紀書房)
韓国の小説は、まず名前が覚えられなーいとよく言われます。確かに、主人公の保健室の先生がアン・ウニョン、相手役の漢文の先生がホン・インピョ……となるとなかなか覚えられないかもしれませんね。覚えられないなーと思ったら、アン・ウニョン、アン・ウニョン、アン・ウニョンとペンで3回、紙に書いてみるといいですよ。ちょっと早く脳に定着する気がします。
この小説、学園もののエンタメで、超能力もので、ついでに先生どうしのラブストーリーでもあります。そして10代の人たちに手渡したい「志」がぎゅっと詰まってます。そんなにいっぺんにできるの?と思うかもしれませんが、著者チョン・セランさんはそういうのが大のお得意。おもちゃの銃とレインボーカラーの剣を持って、生徒たちを世の邪悪なるものから守るために戦うアン・ウニョン先生は、まっすぐでお茶目で、頼もしさいっぱい。同僚の歴史の先生がつぶやく一言「後から来る者たちはいつだって、ずっと賢いんだ」が、本書の世界観を代表しています。(斎藤真理子)
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『となりのヨンヒさん』
チョン・ソヨン
吉川 凪 訳
(集英社)
韓国にSFはない。と思われていた。つい数年前までは。従来、韓国においてSFは純文学よりワンランク下のジャンルとして扱われていて作家も少なかった。潮目が変わったのは「韓国科学小説作家連帯」が発足した2017年頃だ。その初代代表を務めたチョン・ソヨンは、若いけれど韓国SF界のリーダー格と言えよう。翻訳家でもあり、現役の弁護士でもある。その他にも若い作家たちが続々と現れ、今やSFは韓国文学の中でも注目される分野となった。
『となりのヨンヒさん』は日本で初めて出版された韓国のSF短篇集だ。ジェンダー、異文化との共生など身近な問題を宇宙や別の時空間に投影しつつユーモラスに展開する作品は、とても親しみやすい。表題作は、若い女性がガマガエルみたいなエイリアンと心を通わせる話。「最初ではないことを」では、活躍の場を求めて中国に留学した女性が正体不明の流行病にかかる。SARSの流行をヒントにしたものだろうが、当局が情報を統制するところなど、新型コロナを予告しているようにも見えて不気味だ。(吉川 凪)
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インチキ臭いメキシコのオジサンが明らかに大法螺っぽい語りを展開するヘンテコな小説。子どものころから身の回りにあるものをコレクションしてきたオジサンは集めたモノをリサイクル、つまりモノに物語という付加価値をつけてオークションで売りさばく。このオジサンは、言葉ひとつで誰も見たことのない世界をでっちあげる、そう、文学の権化のような人。
本書は方々に奇妙な穴が開いている。名付け行為を考察してきた哲学者へと続く穴、メキシコのジュース工場へとつながる穴、世界の現代アートへ誘う穴。さらには奇妙な写真や英訳者による年表まで。オジサンの話を聞いているうち、気づくとまるで違う世界に拉致されている小説なのだ。
書いたバレリア・ルイセリはメキシコ生まれ、米国在住の二言語作家。最初スペイン語で書かれた本書は、アメリカ人翻訳者とルイセリ自身の手で大幅に改訳・加筆された。日本語版では、まずスペイン語版を訳し、それをベースに英語版を再度訳すという面倒なことをしています。(松本健二)
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「わたしはわたし自身を描く。わたしが一番よく知っているのはわたしだから」という言葉のとおり、フリーダ・カーロは多くの自画像を残した。太い眉、まっすぐ前を見つめる目、色鮮やかな民族衣装やグロテスクな細部にドキリとさせられる自画像だ。
脊柱の病とバス事故で負った重傷により、一生を通して身体的な痛みにさいなまれ、メキシコの国民的画家ディエゴ・リベラとのままならぬ恋愛と結婚生活に苦悩しつつ、自分を貫き、芸術で世界を驚かせ、人々を魅了したフリーダ。本書はそんなフリーダの人生を絵でたどった伝記だ。注目すべきは、作者マリア・ヘッセが、フリーダの作品や日記、評伝から、フリーダの声を引き出し、一人称で語っていること。フリーダらしいディテールを満載した、清々しくチャーミングな絵のおかげで親しみやすく、しかも読みごたえがある。
1907年生まれ(あの石井桃子さんと同じ!)のフリーダが、フェミニズムのアイコンとして、なぜ今もここまで注目されるのか、この本を読むと納得がいくにちがいない。(宇野和美)
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日本では馴染みの薄いアンゴラの近代史を背景にした小説、さらにこの硬めのタイトルとあって、手に取るのをためらう人もいるかもしれない。いや、そこはご心配なく、と声を大にして言いたい。なにしろ物語の面白さは頭抜けている。読み始めたら瞬く間に虜になること請け合いなのだ。
アンゴラ独立戦争が始まり、襲撃に怯えた主人公の女性ルドは、マンションの自宅玄関前をセメントで固めて籠城生活を始める。備蓄もあるし屋上テラスもあるので、そこで畑を作り水を貯めれば当座はしのげるはずだったが、結局、戦争は27年も続き、ルドもその歳月を自給自足で生き抜くのである。
そのルドの孤独な生活を軸に、花壇に埋まる死体、ダイヤを呑みこんだ鳩、踊るカバ、棺桶に入って脱獄する政治犯など、外の世界の賑やかで多彩なエピソードがふんだんに語られる。
忘却しない人、したいけどできない人、忘却されない人、されることを願う人。
人の縁の不思議を余すことなく描いた温かな作品だ。(木下眞穂)
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『ピッツェリア・カミカゼ』
エトガル・ケレット 著
アサフ・ハヌカ 絵
母袋夏生 訳
(河出書房新社)
現実世界とほぼパラレルな、自殺者だけが行きつく世界がある。そこのピッツェリアで働く男は、かつての恋人がやって来たと知って彼女を捜す旅にでる。同行は兵役不適応者で、途中、手違いで送り込まれたから元の世界に戻してもらいたい、という美女が加わる。
人はなぜ死ぬのか、死を選ぶのか、選ばざるを得ないのか。自殺の要因はさまざまだが、糾弾はしない。死後の世界はシュールで、もの哀しくて、爽やかだ。
フランスで修業していたアサフ・ハヌカがエトガル・ケレットの中編「クネレルのサマーキャンプ」にいたく共感し、作家にコラボを申し込んでグラフィック・ノベルができた。ヘブライ語版に続いて英語版が出るとコミックス最大のアイズナー賞の候補になり、映画にも翻案された。ちなみに、ハヌカが双子の兄と共同制作した“Le Devin” は2016年に日本国際漫画賞を受賞している。も一つちなみにだが、不思議なサマーキャンプの主クネレルが飼っているのは、原作では犬、本書では猫。両方とも重要な役目を担っているが、食い意地も張っている。(母袋夏生)
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四方を天使に護られた、ポーランド南西部の架空の村プラヴィエク。三世代にわたる家族を中心に、村とその周辺の日常が綴られている。
20世紀のポーランド。じつにいろいろな出来事があった。二つの世界大戦。ナチス・ドイツの侵攻。社会主義国としてソ連の傘下に入ったこと。「連帯」を中心にした民主化運動と、資本主義への体制転換、などなど。こういう「政治」や「歴史」の力は圧倒的で、村人の生活にも容赦なく介入してくる。
しかしそれにもかかわらず、語りの中心にあるのは、食べて、寝て、恋をする。生まれて、育ち、老いて、死ぬ。平凡な人間の日常そのものだ。だからこの物語は、いまの日本に生きている、わたしたちにとってもなつかしい。英雄は登場しない。でも、どこかにいそうなだれかの人生は、ひとつとしておなじものがなく、ありふれて見える毎日こそ、じつは神秘ととなりあわせだ。
そんなことに気づかせてくれる、淡々とした川の流れみたいなこの物語を読み終わったとき、じぶんをとりまくいつもの世界が、すこしちがって見えてくる。(小椋 彩)
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兄さんたちの狩猟土産の子ぐまや鶴の子を友達にして遊んだり、ろばに馬車を引かせてイキがって乗り回したり、残酷な狩りで深手を負い苦しむ狼を目の当たりにして、思わず咆哮を発したり。田舎で知るさまざまな動物たちとの付き合いは、ヴェーラの最大の喜びだが、最大の悲しみもついて回る。生き物はみんな死んでしまうから。貴族の令嬢だというのに、ヴェーラはお転婆で利かん気の野性児。一家の鬼っ子で、することなすこと桁外れで危なっかしい。
でも農民の少女に胸ときめかせば、あまりに貧しい境遇に世の中の仕組みを疑い、親戚づきあいに加われば、大人の世界の不純さに憤る。反抗心や怒りをつのらせて、何でもしたい放題の問題児となったヴェーラは家庭教師に見放され、学校教師に持て余されてとうとう放校に。悲しみを乗り越え、広い世界へと高く大きく羽ばたく、革命前のロシアの輝かしい少女時代は、読み応え満点です。(田辺佐保子)
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『女であるだけで』
ソル・ケー・モオ
吉田栄人 訳
(国書刊行会)
現代マヤ語で書かれたこの小説はオノリーナが恩赦を受けて出所するところから始まり、彼女が夫殺しの罪で服役することになる経緯が複数の視点で語られていきます。発端は彼女が先住民の女性として生まれたことにあると言っても過言ではありません。先住民の貧しい家に生まれたがゆえに、とてつもない暴力を振るうフロレンシオに売られてしまうのです。先住民でなければ、また女でなければ、決して陥ることのない不幸にオノリーナは嵌まり込んでいきます。出所後の記者会見の席で自分の不幸を言葉にできたオノリーナは、刑務所の中にいた方がよかったとさえ思います。それでも最後は、同志として自分のそばにいて欲しいと言う弁護士デリアの誘いを断って生まれ故郷へ帰っていきます。本書が目指すフェミニズムは、夫の命令に背けない気の弱いオノリーナのような女性を独り立ちさせることにあるのでしょう。一方で、オノリーナに「罪」を犯させる最大の悪であるフロレンシオがオノリーナの手によって、この世に呪われたる者の不幸から解放されることも、先住民にとってのフェミニズムを理解する上で非常に重要な点であることをどうぞお見逃しなく。
(吉田栄人)
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人は皆、自分を中心とする同心円のなかで生きている。一般的に、地理的距離が遠ければ心理的距離も遠い。同居の家族の死は遠くの親戚の死よりも悲しいし、自国で起きた事件にこそ人々は震撼する。
自分中心であること――、これは合理的な遠近感覚である。世界は理不尽で、余りにも多くの苦しみと悲しみに満ちているから、個々の人間がすべてを背負うことはできない。我々は一層自分本位になり、鈍感になって、傷つきやすい自分の心を守るほかはない。
だが、稀にこの堅固な同心円を切り裂いて、遠い叫びが心に刺さることがある。例えばトルコの荒野で「名誉殺人」の犠牲になった少女セヘルの悲鳴。時空を超えて、それは確かに我々に届く。或いは「彼ら」と同じく、我々もまたこの夜明けを待っていたのではないだろうか?あの中東、別世界の人々と心通じるこの奇跡の瞬間を。日常的合理性に基づく遠近感覚を超えた、魂の呼応を。
獄中の政治家がトルコを舞台にトルコ語で紡ぐ物語は、刑務所の塀のみならず、国境も言語も人種も時代をも自由に超え、普遍の愛を世界に呼び覚ます。(鈴木麻矢)
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『風船 ペマ・ツェテン作品集』
ペマ・ツェテン
大川謙作 訳
(春陽堂書店)
本書はチベットを代表する映画監督であると同時に、チベット語と中国語で執筆するバイリンガル作家ペマ・ツェテンの短編作品集です。
我々がチベットと聞いてまず思い浮かべるのは仏教、ダライ・ラマ、それから民族問題といったところが多いかもしれません。他方、こうした政治や宗教といった大きな物語からこぼれおちてしまう現実も存在していて、それはチベットの普通の人々が生きる日常やその中で抱える葛藤や想いなのですが、チベットの現代文学はそうした市井の人々の日常や想いを活写することに成功している数少ないジャンルです。例えば表題作の「風船」は牧畜民の生活を細やかに描写しながら、性と生殖を主題として、羊と人間の関わりを通じて現代チベット女性の苦悩を描いています。また「マニ石を静かに刻む」は夢を通じて生者と死者が交流するというチベットの伝統を踏まえた絶品の幻想小説になっています。その他、どの作品も、会話が多用されるテンポのよい文章が印象的な一冊です。
読書を通じて、知らない世界へ旅をしてみたいみなさんに、ぜひ!(大川謙作)
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2005年、イラクの首都バグダード。前政権崩壊後の政情不安から自爆テロが頻発するなか、一人の古物屋が、肉片になり果てた死者たちの尊厳を取り戻すため、犠牲者の肉体を集めて一体分の遺体を作り上げた。その翌日、遺体は姿を消し、不死身の怪物「名無しさん」として殺人を重ねていくようになる。
あまたの肉体の寄せ集めであり、肉体の腐敗と崩落が進むたび新たな部位を付け替えていく「名無しさん」は、個人としての顔も本質も持たない。だが、躍動する「名無しさん」に関わっていくバグダードの住民は、彼に自らのさまざまな願いや欲望を投影していく。「名無しさん」は当時のバグダードの縮図であり、第一次世界大戦後、寄せ集め的に建国されたイラクを象徴する存在ともいえるだろう。凄惨な現実に裏打ちされた「名無しさん」の謎に直面する2005年バグダードの物語、そして喪失や悲しみ、絶え間ない死への恐怖を抱えながら、それらを踏み越え力を得ようとする人々の混沌を描いた群像劇である。(柳谷あゆみ)
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『星に仄めかされて』
<エッセイ>
多和田葉子
先日、ある日本の銀行からこんなメールを受け取った。「親愛なるお客様、私たちが受け取る不正な取引の量が多いため、カード情報を確認し、このセキュリティシステム上で暗号化する必要があります。お客様の情報が提供され、確認されたら、お客様に電話します。」 こんな日本語で人を騙せると思っている詐欺師は、翻訳とは何かについてもっと真剣に考えて欲しい。
確かに自動翻訳のソフトは驚くほど進歩したが、人間の行なう翻訳はちょうど旅先の街で通行人を観察し、その歩調、呼吸、コートの色、ためいきまでも記述し伝えるような精密な作業で人工頭脳にはまだ無理だ。
まず「親愛なるお客様」は英語などから直訳した典型的な例で、訳文と思って読めば自然だが、もし日本の銀行がそう書いてきたら「親愛」という贋の生暖かさが気持ち悪い。全体的に直訳調だが一番違和感があるのは「私たち」、つまり銀行側が不正事に巻き込まれて迷惑しているという気持ちが前面に出ていること。日本の銀行なら、「最近不正が増加し」など主語のない表現を選ぶだろう。日本でも企業が「私たち」という言葉を使うことがあるが、それは「私たちはお客様によりよい商品をお届けするため日々努力を重ねております」など宣伝を目的とした場合だけで、「私たちは最近不況で困っているので商品を値上げします」という「私たち」は決して文面に姿を見せない。
翻訳ソフトにはまだフィクションの街を現実の街と見間違えさせるほどの実力はない。それなら、それが翻訳であることを気づかれないのが理想の翻訳なのだろうか。もし詐欺が目的ならばそうかもしれないが、文学は詐欺ではない。わたしはすんなり読める翻訳よりむしろ、遠い言語から訳された形跡、文面の凹凸やほころびを感じさせてくれる訳文が好きだ。ごつごつした言葉でできた街を歩く楽しさ、謎の残る曖昧さ、保証のない危うさなどを味わうのも翻訳小説の街歩きならではの醍醐味ではないかと思う。
多和田葉子氏の近著