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「魔王」の伊坂 幸太郎さん

伊坂 幸太郎
(いさか・こうたろう)
1971年、千葉県生まれ。東北大学法学部卒業。2000年「オーデュボンの祈り」で第5回新潮ミステリー倶楽部賞を受賞しデビュー。2004年「アヒルと鴨のコインロッカー」で第25回古川英治文学新人賞を受賞。最新作は「魔王」。
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トーハンの読書PR誌「新刊ニュース」2月号(1月15日発売)にも伊坂幸太郎さんが登場。その近況をエッセイで語ります。

 

 

 ミステリーの分野で魅力的な作品を次々と生み出す伊坂幸太郎氏。新作『魔王』の発刊に合わせて、読書論や作品論、また、作家伊坂幸太郎としてのこれまで、いま、これからについて、じっくりと語っていただきました。(2005年10月 仙台にて)

――初めて出会った本はなんだったか、覚えていらっしゃいますか?
それが意外に覚えていないんですよ。やっぱり児童物って言うもの、よくあるポプラ社から出ている本だとかをよく読んでいたと思うんですよね。『ずっこけ三人組』のシリーズは好きでよく読んでいた記憶があります。あとは、江戸川乱歩のシリーズとか…。わりと本を読む子どもではあったと思います。

そうそう、強烈に覚えているのは、『まほうのプディング』で、この本はトラウマ的に覚えていますね。主人公がプディングなんですが、このプディングのキャラクターがおっさんぽいっていうか…。この本を読んだのは、小学校2〜3年生のころだったのですが、主人公なのに不気味な顔をしているって言うのが、まず結構ショックでしたね。しかも、この主人公をみんなで食べてしまうシーンがあるんです。食べられてもまた復活するんですけど、見た目がプディングなのに、頭から食べられてしまうというのはショックが大きかったです。これは子どものときの記憶だったので、最近、近くの図書館に行って見てみたんです。改めて見直しても、やっぱりキャラクターがかわいらしくなくて不気味で、あの当時のインパクトは正しかったんだなと思いましたよ(笑)。

――小学生の読書ではほかにどんなものを読んでいらっしゃいましたか?
特にジャンルにこだわらず、いろんなものを読んでいたと思います。小学校5年生のころには、エラリークイーンのシリーズとか、Xの悲劇とか、友達に薦められて読んでいたと思います。図書館に行っては、江戸川乱歩のシリーズを読んだりしていました。本を読むのが好きだったと思います。ほかには、眉村卓さんとか星新一さんの小説は一通り読みましたね。

――漫画は読まなかったのですか?
漫画は小学生のころから大好きで、よく読んでいました。誰も知らない漫画を掘り起こして読むのが好きだったんですよね。藤子不二夫でも『ドラえもん』ではなくて、あまりみんなが知らないものを読もうとするわけです。たとえば、『モジャ公』とか…。そういうものを読んでは、こんなに面白いものがあったよって、周りの友達に話をするのが好きなんです。だから、漫画のあらすじとかをしゃべっちゃうんです。今考えるといやな友達ですよね(笑)。話をするのが好きというのは、今も変わりなく続いていますね。

――中学生になるとどうでしょうか?
部活もやっていたので、家に帰ってきてから読むという感じでした。当時は、赤川次郎さんがとても人気があって、よく読んでいました。ほかに都筑道夫さんとか、いわゆる文庫で読めるものを中心に読んでいましたね。なかでも印象に残っているのは、平井和正さんの『幻魔大戦』ですね。初めて神保町に行ったときに、全巻買って帰ってきたんです。それから同氏の『ウルフガイシリーズ』です。夢中になって読みました。ほかには、夢枕獏さんの本など、ほとんど娯楽小説ばかりでした。高校時代も、流れ的には同じようなものを読んでいたと思います。

――神保町へはどうしたきっかけで行くようになったんですか?
中学生のときに初めて行ったんですが、当時住んでいたのは千葉県の松戸市で、中学生にしては遠い距離を出かけて行ったと思います。とはいえ、父親が神保町のほうに勤めていたのでなんとなく馴染みはあったんです。父親から古本屋がたくさんある本の町という様子を聞いていたので、行き方を書いてもらって出かけたのが最初です。神保町に行っては、読みたい小説を全巻買って帰ってきたものですよ。わくわくしましたね。

――読書の傾向が変わられたのは大学生になってからですか?
そうですね、純文学系のものを読むようになりました。大江健三郎さんの本に出会ってから変わったといっても良いかもしれません。『叫び声』という本を読んですごく影響を受けました。こんなに面白いものがあったのか!とショックでした。

僕が高校時代に、村上春樹さんの『ノルウェーの森』がとてもはやっていたんです。でも、僕はマジョリティが読んでいるものを、はすに構えて見てしまうようなところがあったせいもあると思うんですが、高校生の僕にとっては、性描写の多い部分に嫌悪感のようなものを抱いている部分がありました。こういうセックスシーンを読みたいから、読んでいるんじゃないの?みたいな、ちょっとかんぐったような思いにとらわれてしまったんです。それなら官能小説やエロ本を読めば良いじゃないか! といった感じの、腹立ちというか、変な思いをいただいてしまったみたいです。今読めば、もっと小説的な良さがあるのはわかっているのですが、当時、高校生だった僕には、純文学に対してマイナスイメージが残ってしまいました。

それを覆してくれたのが、大江健三郎さんだったわけです。あからさまなセックスシーンが描かれているわけでもないのに、妙な性が描かれていて、これならわかるとわくわく感を持って読みました。『叫び声』というのは、自分が梅毒に感染しているのではないかという恐怖にとらわれていて、いつもシャワーを浴びてはチェックするような主人公が出てきたと思うんです。こういう性的な恐怖っていうのを書くっていうのは、僕は本当に面白いと思ってどきどきしたんです。不穏なものを、独特な文体で書かれているっていうのが、頭の中をぐねぐねと整体を受けているような感覚があって、これこそが小説を読む喜びなんじゃないかって感じました。それで、10日間くらい毎日大江さんの小説を読み続けたんです。一日一冊のペースで、10日間。10冊くらい続けて読んだのかな。夢中になって読みました。一冊を夢中に読んで、読み終わると大学の生協に次の一冊を買いに行って、また読みふけるという10日間でした。僕の好みの作家を見つけた!という感じで、本当にうれしかったです。

――ほかにはいかがでしょう?
ジョン・アービングもこの時期に出会った作家です。この二人の作家を通じて、同じ事象でも、作家の語り口でユーモアになったりシニカルになったり、いろいろと形を変えるものなんだというのを明確に感じましたね。

――サラリーマン時代の読書はいかがですか?
傾向は大きく変わっていません。学生時代に読み残したものを、その延長線上で読むという感じでした。通勤のバスの中が唯一の読書タイムになるわけで、学生のころから好きだった古井由吉さん、丸山健二さんを続けて読んでいたように思います。

――ご自身が作家デビューされてからは、読書の傾向は変わりましたか?
あまり変わりません。でも、よく作家になるとほかの人の作品を読めなくなるといわれますが、僕にもそういうところはあるんです。嫉妬を感じてしまったりとか、僕だったらこうするのにと思ったりすることもあるんです。ただ、それで読まなくなるって言うのは怠慢な気がしてしまうので、ライバルというか、同時代に書いている人のものを読んで、それを超えるものとか負けないものを書きたいという意識を持ちます。小説に関しては、本当に負けたくないんですよね。

負けたくないといっても、一等賞になりたいというわけではなくて、面白いといわれたいという意味です。よくある年末の「このミステリーがすごい」っていうのに選ばれたいというのとはちょっと違って、たとえば読者の方に、今日3冊読んだら伊坂幸太郎のが一番面白かったと言われたい、そんな感じです。そういう意味で、面白いものを書きたい、誰にもかけないものを書きたいという意思は強いんですよ。達成できなくても、僕オリジナルの小説を書きたいと思っています。

――読む本を選ぶときには、なにかこだわりがありますか?
わりと直感で読むほうです。書店に行くこと自体好きなんです。書店の中で、ふと目に付いたものを手にとって、ぱらぱらめくってみて、今までにない傾向のものかなと思うとそれを読むといった感じでしょうか。ただ、最近は読む時間も減ってきているので、厳選して読むようになってきているかもしれないですね。資料も含めて年間100冊くらいしか読めないので、純粋に小説という意味では、学生時代に比べるとだいぶ量が減っていますから。

映画にしても、漫画にしても、小説にしても、僕は「作家性」があるものというのがとても好きなんです。そういうものが出ていそうな本は好きです。あるいは、まったくの気分転換になりそうな本は、つい買ってしまいます。今日一日で読めそうかな…というものですね。

――小説家になりたいと思ったのはいつごろですか?
高校生ぐらいのときから思っていました。どうしてなりたいのか、というところは、時期によって少しずつ違っていたような気がしますが、ずっと小説家になりたいとは思っていました。むしろ、小説家になりたいというよりも、小説を書きたいという気持ちが強いんですよね。それで、小説を書いて暮らしていければ良いなと思うと小説家になるしかない。本として、外部の人に読んでもらいたいという気持ちが強かった。つまり、自己満足に終わりたくないという思いです。何かの形として提供したいと思っていたんですね。

――美術書が小説家を志すきっかけになったとか?
そうです。『絵とは何か』という美術評論の本です。美術館形の仕事をしていた父が、その本を父が気に入っている美術評論家なんだってことで、高校生のころ僕にくれたんですね。内容もすごくよくて、この本からもすごく影響を受けています。

――小説を書き始めたころから、自分独自の世界観を求めていたんでしょうか?
最初はパクリっぽかったというか、無意識の内に読んだことのある小説をなぞろうとしていたんでしょうね。そのうちに、何で僕は、こんなに書きづらいものを書いているんだろうと思い始めたんですね。それは、マネしようとしているからだと気づいたんです。ならば、本当に僕が面白いと思うものを書けば良いじゃないかと。

大学2年生のころでしょうか、大江健三郎さんの小説に出会って何冊か続けて読んだころ、あるとき急にひらめいたんです。それまで僕は、大体こうなるだろうという話を書いていた気がするんです、どこかで見たことがある話、というか…。でも、それではつまらないなと思ったわけです。僕自身が、この先どうなるんだろう…と思えるような小説を書かないと、読者も読んでいてつまらないだろうと思ったんです。それからは、先がどうなるかわからない小説を書きたいと思うようになりました。

僕はよく、「レールに乗っからない」と表現するんですが、従来見たことがあるレールに乗った小説は、この先こうなるだろうという予想がついてしまいますよね、そういう小説はいやだなと思っているんですよ。

――最初からミステリーを書こうと思っていたのですか?
そうです。というより当時のほうが強かったですね。あのころ僕は、純文学は高尚なものという思いを持っていたんです。ミステリーのほうが大衆的なものといいますか…。それなら大衆的なものでクオリティの高いものを書いてやるんだというような、ちょっとひねくれた意識が強かったように思います。

――小説を書きたいと思ったころから今の伊坂さんご自身の小説のテイスト感や小説家としてのポジションは思ったとおりのところにいらっしゃるのでしょうか?
今回の『魔王』は、大学2年生のときにこういう小説を書きたいと思ったものに、すごい近いものだと思います。ただし全体的には、若干軟弱かな…。もう少し硬派なものを書きたいと思うのですが、読者の方には、僕が想像していたものよりも軟弱なものとして受け入れられているような気がします。

作家としてのポジションでは、知名度とかも含めて、僕が思っていたより以上に受け入れていただいているような気がして少し怖いです。これはよくないと感じています。僕はメジャー感が苦手なんです。今の僕の状態は高校生のころにあこがれていた作家像ではないですね、。ただ、書いているものは近いと思います。

――今後はどんな作家になっていきたいでしょうか?
今のまま、ですね。同じものを書くというわけではないのですが、変わる兆しもないし、無理に変わろうという気持ちもあまりないですね。見たことのない小説を書こう、レールに乗っていないものを書き続けようというのは変わりません。縮小再生産をしない、結果的にしてしまうにしても、したくないと思い続けたいんですね。つらい挑戦ではあるんですけどね、もうすでにつらいかな、正直つらいんですけど(笑)。

伊坂ワールドとはこういうもの、というものが固まってしまうとつらい部分もあるんですが、その反面デビューしたころから著者名を隠しておいても中身を読めば、これは伊坂幸太郎の本だとわかってもらえるようなものを書きたいとはずっと思っていたので、そういう意味でテイストをわかってもらえるのは嬉しいんですよ。ですから、伊坂ワールドと表現されるのは嫌いではないんですが、僕の書く本はこうでなくてはならないという空気になってしまうのはいやだという思いもあります。

――小説を書かれるときは、一気に書き上げるタイプですか?
調子が良いとそうですね。一気にバーっと書き上げるのが理想ですし、そのほうが出来も良いことが多いんです。魔王は本当に気持ちよく書けた作品で、取り付かれたように書き上げました。悩みに悩んで書き上げたものが案外読者受けが悪かったりすることもあるので、今回は、もうどう思われても良いと、自分の書きたいものを書こうと割り切って取り組んだ作品なんです。気持ちは初心に戻るといいますか、見たこともない小説にしよう、「僕のオリジナル」というものをもう一度考えようと思って書き上げたんです。

僕が書くものは、日常的な冒険小説だと思っているんですが、『魔王』も日常の中にミステリーや不思議感や冒険があるといった感じのものですね。僕の小説って、伏線が生きて後半で収れんしますねと言われることが多いんですが、そういうのがちょっといやになったんですよね。それで、そういう求められているもの、ミステリー的な謎解きとか、どんでん返しとか、爽快感とかをすべて排除して書こうと思ったんです。それでも、ちょっとしたユーモアとか伊坂幸太郎的なテイストが残っている作品になるんじゃないかなと思って書きました。

――『魔王』はもともと連載物ですよね?
そうです。エソラという雑誌に2回に分けて載せていただいたものなんですが、新刊で出るに当って、結構ちょこちょこ筆を入れ直しています。雑誌に掲載されたときには、あれで完結で、続きを作ることを考えずに書いていましたが、読者の方から続きはどうなるのかという問い合わせが多かったんです。それで、僕としてはやっぱり『魔王」『呼吸』の続きを書くつもりはなかったので、もう少し終わった感が出るような形に修正した部分はあります。マイナーチェンジですが、ぜひその微妙な違いを感じてください。連載していたころより、ひとつの作品としても、『魔王』と『呼吸』が一対の作品としてもよくなっているので、エソラで読んでくださった方にも、ぜひもう一度読んでいただきたいと思います。

――『魔王』は、どんな風に生まれたんでしょうか?
この本はタイトルが先に決まっていて、というか『魔王』というタイトルで書こうと思ってスタートしています。そこから『魔王』というタイトルの話ってどんな話だろうと考えを組み立てて行ったんです。雑誌に掲載が決まったときに、誰にも負けない僕自身の小説を書きたいと思いまして。だって、『魔王』って強そうで誰にも負けそうにないでしょ?王様より強そうでしょ(笑)。

組み立てるといっても、僕は書き始める前にプロットを作るタイプではありません。メモ程度は作るんですが。小説の中で使うシチュエーションや、キーとなる事象については、興味あるものを読んで、それを膨らませるという方法なんです。『魔王』の場合は、タイトルありきで超能力が出てきて、対決相手はファシズムだというところまでイメージが膨らんできたところで、それならムッソリーニを使おうと思ったわけです。そこから資料になる本を読み込んだりしたんですけどね。そうすると、いろんなものがどんどん付随して出てきて膨らんでくるんです。

時代設定は、現代の世相に当てて書いたつもりはありません。ガス油田の話などはニュースからの情報をインプットして登場させているんですが、そのほかは何かモデルがあって書いているわけではないんです。結果的に今っぽくなってしまっているので言えないところもあるんですが、あまりに「今」をモデルにして書くと賞味期限が短くなってしまい、そういう小説ってすごく寂しいと思うんですよ。普遍性を持たせたいというか、せめて2〜3年先、できれば10年先のことを書こうとは思っています。ファシズムやムッソリーニなど記号的なことを持ち込むことで、普遍性を出していたつもりだったんですが、2005年9月の総選挙とか、現代の出来事が偶然ぶつかってしまった感じがあって戸惑っているんです。本当は、現代の10年後、小泉さんの次の次くらいのイメージで書いていたんです。

――キャラクターの性格設定ははじめから決め込んでいますか?
最初から決め込んでいないんですよ。理想は、小説の中で育っていくキャラクターなんですね。ただ、主人公については、キャラクター付けをあいまいにして透明感を持たせているんです。狂言回し的な役割になってしまうことが多いので、周りに出てくる登場人物がはっきりしている場合が多いですね。しかし、『魔王』に登場する島君は、書いているうちに、この人はこういう人なんだなと僕自身が気付きながら書き進めているところがあります。ただ、『魔王』主人公はちょっと今までとタイプが違って、はっきりとした生き様や性格、考え方を持っています。珍しく主人公が物語のエンジンとなっているんです。

いつもは、主人公がふらふらしていて、周りの人を描いていくところがありました。ただ、周りの人を書くといっても、ひとつの作品の中であまり大人数をコントロールするのは得意ではないんです。群像劇は好きなんですが、書くのはまだ技術が必要かなと感じます。昔はそういうところに気ずかずに無邪気に書いていたころもあったんですが。ひとつの物語の中で、視点が変わると読者的には結構しんどいみたいで、それを引っ張っていくのは今はまだ自信がないんです。

また、僕が書くような物語には、たくさんの登場人物が必要ないというところもあります。僕は登場人物一人一人への思い入れは強いほうだと思うんですよ。ひとつの小説が終わると、この人物とはこれでお別れなのか、という寂しさをとても感じますし、僕が書かないでいると、あの人たちはあそこで止まったままなんだなと思ってしまうんです。いろんな要素はあるんですが、彼もここで生きているんだよというような意味で、ある登場人物を他の作品に登場させたりすることはあります。

人は皆、生きているうえで自分が主人公ですよね。僕には僕が主人公の人生があり、一緒に妻がいる。でも、妻には妻が主人公である人生があるように、人にはみなそれぞれの視点からドラマがあるんだという意識が大切にしているんです。ここで主役だった人が、別の物語の中では通り過ぎるというのは大切なことだと思っています。

『魔王』、『呼吸』と続く中でも、「兄」がなくなっても、弟やその恋人の人生は続いているんだというのは必要なことなんですよね。登場人物には、特別にモデルがあるわけではありません。優柔不断な主人公は僕っぽいなと思うことはよくあるんですが、他の主人公には特別なモデルはいません。僕の作品を読んだ知人から、あれは僕のこと?と聞かれることはよくあるんですけどね。僕の父親は、かっこいい父親が出てくると、「これは俺のことだろ?」って言うんですよ。そういう時は、「違うから!」と答えておきますけどね(笑)。

――今までのキャラクターの中で一押しは誰でしょう?
ラッシュライフに出てきた黒澤っていう泥棒がいるんですけど、僕は彼が結構好きなんです。立ち居振る舞い方や、彼のスタンスや生き方がすきなんですかね。泥棒なんで、悪い人なんですけど、結構どこかでうっかり人を救っているみたいな部分が好きなんでしょうね。

――仙台が舞台になった作品が多いですね。
僕は、現実にある町並みをそのまま書くことに、興味がないんです。小説の舞台は架空の土地でも良いんです。たとえば「キタキツネ町」とか。でも、それではあんまり現実感がなくなりすぎるので、そこにどこかの実際の都市の名前を当てるとカチッとくる。でも、知らない町の名前を当ててしまうと、地元の人にこの町はそんなところじゃないよっていわれてしまうかも知れませんよね。長崎はこんなんじゃないよ、とか。でも、僕は仙台に住んでいるので、「仙台市」を使えば、知っていてうそをついているなと思ってもらえると思いますし、現実味を帯びた嘘がつけるんですね。街の名前なんかも、ずいぶん嘘書いてますしね。自分が住んでいる仙台を舞台にしているといっても、出てくる喫茶店やバーなどが実際にあることはありません。なんとなく仙台市内で見たことのある地下に入る喫茶店をイメージとして浮かべるということがあっても、その程度です。

――『魔王』の舞台は仙台ではないですよね?
はい、東京です。僕は仙台か東京しか書けませんから(笑)。物騒なイメージの小説の舞台は、みんな東京になっちゃいますね。東京は、記号的な意味で物騒なイメージとして出してしまいます。関西でも、そういうところがあるかもしれませんが、関西弁が書けないので舞台にできないんですよ(笑)。昔、住んでいた松戸が舞台になることもあるかな…。でも、松戸だとわかりにくいでしょ?

――最後に、今後の予定を聞かせてください。
12月に実業之日本社から『砂漠』というタイトルの本が出ます。この『砂漠』は社会のことです。普通のキャンパスライフを送りながら、「その気になれば俺たちだって、何かできるんじゃないか」と考えたり、もがいたりしている5人の学生たちの、社会という「砂漠」に巣立つ前の大学という「オアシス」で繰り広げる青春を書いています。書き下ろしは、ほとんど1年半ぶりになりますか…。楽しみにしていてください!


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