世界的な傑作ファンタジー『ゲド戦記』が、国民的アニメ作家である宮崎駿氏の長男・吾朗氏の初監督作品として、全国東宝系で公開中だ。劇場アニメの元となった、原作や関連書籍の世界とは!?
アーシュラ・K.ル=グウィン作『ゲド戦記』は、『指輪物語』『ナルニア国ものがたり』と並び、世界三大ファンタジーとも称される人気シリーズ。現代人の心の問題を文明批判的な文脈から象徴的に描き、ただの絵空事ではなく、現実の問題と切りむすぶ大人のファンタジー文学の可能性を切り拓いた傑作として、のちの作品に大きな影響を与えている。
宮崎駿監督の出世作『風の谷のナウシカ』も、そのひとつ。実は二十数年前、彼が『ゲド戦記』のアニメ化を希望しながら原作者に断られたことから、『ナウシカ』以降のスタジオジブリのオリジナル作品制作の歴史がスタートしているのだ。そして『千と千尋の神隠し』などが世界的な評価を受けたことで、今度はル=グウィンの側が ジブリに映像化を打診し、今回の劇場版アニメーションの制作に繋がっている。
そんな二十年越しの原点回帰を手がけたのが、宮崎駿氏の長男・宮崎吾朗監督だ。劇中では、主人公アレンが冒頭で父殺しの罪を犯す展開があり、「父さえいなければ、生きられると思った。」というセンセーショナルな宣伝コピーもつけられているが、実際、駿氏との激しい葛藤の末に実現したというこの劇場版。はたして吾朗監督は原作版『ゲド戦記』をどう受けとめたのか。アニメ化の着想を支えた他の作品とのリンクを含め、その思いのほどを直撃した……!
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――劇場版は原作第3巻『さいはての島へ』を元にしつつ、大きくアレンジされましたが、何故ですか?
当初は、まったく原作のとおりにやろうとしました。しかし、それを通して自分は何をやりたいのか、何を指針にすべきかということが、なかなかはっきり見えてこなかった。そのときに、父の『シュナの旅』を参考にしたらどうかという話が出てきて。つまり少年が国を出て、一人で旅をして人に出逢い、少女を救って、自分も救われて、という話の骨格がある。その軸を焼き鳥の串にして、3巻と4巻『帰還』をブスッと刺して、つくねのようにしたのが今回の映画です(笑)。 ――3巻だけではなく、4巻の要素を取り入れられた意図は?
初期の『ゲド戦記』は、特に1巻『影との戦い』に顕著ですが、人の心の中の光と闇の均衡が云々、という話です。ただ、確かにそれが必要な時代があったのかもしれないけれど、今はそれが行きすぎて神経症的になってしまう人がいっぱいいる。そこで面白かったのが、初期から時期の空いた4巻以降はだんだんそういう内面テーマを離れ、変わり映えしない日常を生活者として暮らす中にこそ大事なことがある、という方向に変わっていくんですね。改めて読んでみて、今はそっちの方が必要なんじゃないかと感じたんです。
――その役割は、地道な労働や生命の大事さを説くテルーやテナーら女性陣に託されていましたね。
原作の中で生命の象徴となる女性像を描いたエピソードで、別巻『ゲド戦記外伝』に少女が竜に変身する「トンボ」という話があります。たぶん原作者は論理に偏重している男性に対し、そうではない存在としての女性を考えていて、それがイコール竜だと描いている。だから映画の最後で敵役クモを倒すのは女性であり竜である「あの人」なんです(笑)。
――挿入歌「テルーの唄」は、萩原朔太郎の詩「こころ」にインスパイアされて作詞されたそうですね。
はい。アレンやゲド、あるいはテルーやテナーにしても、基本的には孤独な人間ばかりです。そう思っていたときにこの詩を渡され、そこで詠まれた孤独感と重なったんですね。「こころを何にたとえたらいいんだろう」と慟哭するよるべのなさは、まさにこれだと思いました。
――その他、『ゲド戦記』の製作中に触発された本はありましたか?
同時期に読んでいたのが、ローズマリー・サトクリフでした。『第九軍団のワシ』とか『夜明けの風』とか。それを読むと、ものすごく自分の中のテーマと繋がって共感したんです。要するに自分のためにではなく、ある種の自己犠牲をともなう中で、最終的に人のためになる行いをなす、ということですね。もしかすると、本当は僕はこっちの方がやりたかったのかもしれません(笑)。
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