朝の校門での風景。元気なおはようの声が飛び交う。ちょっとうつむきかげんな生徒。今日家を出るとき何があったのだろうと心配になる。朝食をとってきただろうか。足取りの重そうな生徒を見ると、まだ眠いのだろうと気にかかる。八時二十五分。学校の一日が始まる。今年度よりモジュラー方式の授業の実施。二十五分、五〇分、七十五分の授業が同時進行する。その変則的な事情から一日一回しか鳴らないチャイムは、朝の読書のために鳴る。校内が静まりかえる。このなんとも言えない心地よい静寂。すてきな空気が校舎内に満ちる。そしてやがて充満した静寂は外へと溢れ出る。
「学校の一日は静寂からスタートすべきである」これは私の持論。生徒たちの中には、朝、母親とのいさかいやすっきり目覚められなかったり、出がけに忘れ物をして取りに戻って息せききってたどり着いた学校で味わうこの静寂。一人一人の生徒のいろいろな思いをすべて断ち切って、朝の十分間に集中できる。こういう時間こそ学校には必要と言える。換言すれば、この朝の十分間読書から同じスタートラインに立った学習が始まる。どろどろとした自分の中の嫌な思いやつらさを払拭してくれる読書の時間の到来。一日の中でこの読書の時間をフィルターとして、自己調整や心の安定を図る。だから、次なる授業時間が、ダイナミックに動き出す。静と動。このあやなす高松中学校。
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思い返してみると、五年前「元々、子どもは本好き」と一人の教師が取り組み始めてくれた。そのつぶやきが学年に広がり、やがて学校中に広がった。とにもかくにも、壁は教師。四原則の「みんなで」と言うところが、最も難しい。教師にとって十分と言えども多忙きわまりないこの時間は貴重。だから、つい、読書以外の事務に心はいく。気持ちはわかりすぎるほどよくわかる。しかし、教師が生徒と共に読んでいたクラスの方が、しっとりと落ち着いた思慮深いクラスになっている。やはり、教師は生徒の模範であり、モデルであり共に読書する姿から感化・影響を与えるのだろう。
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さて、朝の読書でどんな生徒が育つのかと言われれば、時間の使い方が上手な生徒になれると言える。一日の中で、いつでもどこでも埋没して読書の時間のあることに気づき、さっと本に手がのび、ページをめくり始める。このような生徒が本校でも、少しずつ登場し始めている。これは、朝の読書により本を読むという行為が習慣化して、読むことが楽しくなってきた証拠と言える。これは大きな財産である。久しく前に流行った「余暇の善用」の言葉を思い出し、真に自分の時間がいきいきと胎動する朝の読書の存在感を思う。
次に、物事を定着させる最もよい方法は、単純なことを繰り返すことである。「好きな本を、毎朝十分間、みんなと共に、ただひたすら読む」というこの四原則を繰り返す。ここに、定着する秘訣がある。特に、単純にして奥深い語句を支えてくれている「ひたすら」の語感がいい。
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ノーチャイムの学校、朝の読書による静けさのある学校。静かだけれどダイナミックに動いている。その根底を支える基本理念としての読書。言葉の届かない子どもたちが多くなってきた現在、何はともあれ、言葉を認知する作業を粛々と続ける朝の読書に大いに期待する。青春時代の悶々とした思いをしっかりと包み込んでくれる本と出会う。怒りと悲しみあらゆる感覚を総動員させて、常に読書で築く自己の再生作業。ここに本当の読書の意義があるだろう。今、生徒たちが向かい合っているこの時間の営みこそ、将来に生きてはたらく転移力として最も大切にしたい時間と言える。
“本読みの若人未来光り満つ”
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