社会科の教師が職員室に帰ってきて驚き、嘆いていた。新聞記事をテーマにした宿題を出したところ、何人かの生徒から「うちの家、新聞とってない」といわれたとのこと。教師サイドの価値観ではどこの家でも新聞をとっているのが当然である。ところが現実の生徒の家庭には、貧富の差だけでなく文化の差がある。家庭訪問をすると、足の踏み場もないぐらいひっくり返っている家。どうやって食事し寝るのか理解できない家。そこまでいかなくても、本とはまったく無縁の家。などなどいろいろである。どの生徒も背中にいろいろな物を、とりわけ表面的にはなかなか見えないが、それぞれどうしようもない文化の差を背負って学校に来ている。この文化の差を暗黙の了解と認めた中で、学校の教育活動は行われている。小さいときから家庭の中で、絵本や童話さらに児童文学などと触れ合うことなく成長し、そのまま9年間の義務教育を終えてしまえば、まさに文化の差をそのまま再生産するにすぎない。
□ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □
平成12年の2月の校長会で教育長が「朝の読書」のプリントを配布した。そのプリントには「朝の読書」の意義や効果が書かれていた。そこには遅刻が少なくなり、生徒指導上はもちろん基礎学力の向上にも有効と書かれていた。読んでみると、子どもが変わり学校も変わるという。まるで今の学校教育が抱えている諸課題克服の処方箋のようであった。進めるに当たっての約束は、次の4つだけ。
1)みんなでやる。
2)毎日やる。
3)好きな本でよい。
4)ただ読むだけ。
私は早速、この「朝の読書」をまず知ってもらうことが第一と考え、そのプリントを2月の職員会議で配布した。当初、この一年は、「朝の読書」の資料を、機会あるごとに配布してみようと考えた。実施するに際しての最大の壁は、なんといっても朝の時間帯、読書タイムの10分間をどう確保するかである。さらにすべての教員の協力を求めなくていけない。この2点をどうするかである。ところが、うれしいことに一部の教員が、是非、「朝の読書」をやりたいと手をあげた。学校全体で出来ないのなら、学年だけでもやりたいという。こうして本校では、平成12年4月から全校一斉に「朝の読書」が始まった。
□ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □
毎朝8時40分トロイメライの曲を合図に、どのクラスでも「朝の読書」が始まる。この時は副担任も、廊下や下足室で立ったまま本を読んでいる。聞こえるのは中庭の池の2基のポンプの水の音だけ。喧騒でうるさい学校が、本当に静寂という言葉がピッタリ。遅れてくる生徒も、この時ばかりは遠慮がちに後ろのドアをそっと開けて入ってくる。自分の本を用意していない生徒は、担任が用意した本を、本箱から借りてきて読んでいる。こんなにスムースにいくとは誰も思っていなかった。
読書といえばマンガと思っていた生徒。読書とまったく無縁の生徒も、最初、「なんで本なんか!」と面食らっていたようであった。でもこの「朝の読書」をきっかけに、ほとんどの生徒が本を手にするようになってくれたことがうれしい。保護者から「うちの子が、本を買いにいくのでお金をちょうだいと言われた」と、うれしそうに話していた。またある保護者は「家の中で、親子が本を通じて共通の話題ができるようになった」など保護者にも好評である。
「朝の読書」も3年目。今年も文化の差とさらに関わっていきたい。 |