朝読書の時間が終わりになりかかる頃のことです。
「ほう、『若草物語』を読んでいるの。いいなあ。で、自分で選んだの?」
と、私はAさんに話しかけました。
「私の誕生日に父が買ってくれたものです」
「素敵なお父さんですね。それは宝物になりますよ」
私は、Aさんの一言を聞いて満足でした。というのは、娘の誕生日に本を贈るお父さんと、それを大切そうに扱う娘さんの姿がほほえましかったからです。教室を後にしながら、ひょっとすると一冊の本が人生を左右するかもしれない、と思いながら校長室に戻りました。さて、人生を左右するかもしれない読書とはどういう営みなのでしょうか。
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意味を取り出す
読書は、文字列を総合して、そこから意味を取り出すことです。これは人類が発明した魔法と言っていいでしょう。一年生の子どもは、文字列を読み始める頃、つっかえつっかえ読みます。すらすら読めるようになるためには、こうした逐字読みの練習が欠かせません。やがて文字語、文字文として、ひとまとまりにして読むようになると、そこから意味を取り出すことができるようになります。これは凄いことです。この意味を取り出す過程で見逃せないのが、文字を音声にひるがえす営みです。本を黙読している子どもを子細に観察すると、かすかに唇が動いています。これは、自分の音声回路を通して読み解こうとする身体的行為といえます。
反芻する
私の読書体験をお話ししましょう。小四の私は、『フランダースの犬』を図書室から借りました。いつもなら数ページ読んで返してしまうのに、どういうわけか、つっかえつっかえ唇を動かしながら読み続けていました。少年とパトラッシュが雪の中で亡くなったとき、目頭に熱いものが溜まり、溢れそうになりました。本を読んで涙が出るのは初めてのことでした。それからというもの、私は、読書を楽しみの一つとするようになりました。
『フランダースの犬』は、少年に読書の楽しさを教えただけではありませんでした。それは、私の中にもう一人の自分が存在しているらしいことに気づかされたことでした。読んでは立ち止まり、立ち止まっては読む、この道草のような営みが、私の中につぶやきを生み出していました。それは、読書の神秘といってもよいものです。つまりその神秘とは、自分の中に対話者が育つという神秘です。別の言葉で言えば、自分の中の他者が育つということです。これは凄い営みではないでしょうか。
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「文字列から意味を取り出す」、その過程はテレビを観るときのように直線的な過程ではありません。すでに述べたように行きつ、戻りつしながら反芻して読んでいます。立ち止まって、「ああ、少年と犬は亡くなるのかな」というように、予測を立てながら読んでいます。この立ち止まって考えることが、読書の大きな効用といえるでしょう。
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ここで話を朝読書に戻しましょう。十小の朝読書は静かです。この静かな営みに、対話が隠されています。その対話は聞こえませんし、見えません。でも、自分の中で対話を繰り返しているのです。
近年、コミュニケーション能力の育成が叫ばれています。コミュニケーションというと、自分以外の他者とのやりとりをイメージしがちです。が、自己内のコミュニケーションがあることにも、意を注ぐ必要があります。読書による自己内対話(自己内コミュニケーション)は、立ち止まることを教えてくれますし、他者の声、つまりは本を書いた人の考えを聴く力を育てます。その意味では、自分で自分を育てる自己教育につながっているのです。 |