朝、八時二十五分。予鈴のチャイムが鳴り止むとすぐ音楽が始まる。昨年十一月からである。この音楽が鳴り始めると、生徒たちは小走りで教室へと向かう。先生方は職員室を出て、教室へゆったりと動き出す。もうすっかり当たり前の光景になった。教室では、交通機関の関係で早く登校した生徒が、本を開いてすでに読み始めている。時間ぎりぎりで走り込んできた生徒も、三十分のチャイムとほとんど同時に椅子に座って本を読み出す。一日の始まり、鳥のさえずりが心地よい。
□ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ 本校が「朝の読書」を全校で一斉に実施したのは、一九九九年四月から。本年で三年目を迎える。「仕事の負担が増える」「本当に生徒は本を読むのか」「読書は強制すべきではない」等、先生方の批判も数日で消えていった。むしろ、導入をめぐって半年ほど議論したのは何だったのかと思うほどだ。
□ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ 生徒たちの反応もよい。実施三ヵ月目に取ったアンケートで、すでに多くの生徒が好意的にとらえている。「一日の始まりとしてすばらしい」「集中力が付く」「むずかしい漢字が読めるようになった」等々。良いことは挙げだしたらきりがない。その一方で、読書が習慣化せずに批判的にとらえている生徒も各クラス数名ずついる。「字ばかりの本は読みたくない」「本が嫌いだから」と読む前から拒否を決め込んでいる。良い本に一冊でも巡り会えれば、気持ちも変わっていくのだろうが、なかなか気持ちが柔らかくなってくれない。なかには、「本は強制されて読むものではない」という生徒もいる。それなら、自主的に読んでいるのかというとそうでもない。自分の読まない理由を正当化するために、本質論を持ち出したのだろうが、本音は「面倒だ」ぐらいではないのか。
□ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ なぜ、「朝の読書」なのかよく質問される。本を読む生徒を育てたい、それがわたしの出発点であった。しかし、それならなぜ本を読む子を育てたいのか。この質問にはなかなか答えられなかった。そんな時、読んでいた林公先生の『朝の読書実践ガイドブック』(メディアパル)にこんな言葉があった。「実は、もともとこの実践は、本を読む子を育てたくて始めたわけではないのです。(中略)子どもたちを元気にできることは何だろう、と試行錯誤を繰り返すうちに、たまたま唯一効果があったのが『朝の読書』だったのです。」なるほどと思った。わたしが本にこだわるのは、わたし自身が本によって気持ちが落ち着いたり、助けられたり、元気が出たりという経験をしてきたからではないのか。本にはそんな力があることを経験的に理解しているからではないのか。このことが分かってから、自信を持って「朝の読書」を推進しようとする気持ちに変わっていった。
□ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ さて、実施してから、他の実施校に学べということで、数校を見学させてもらった。実施について新しい具体例を教えてもらうことができた。その一つが、冒頭に述べた「朝の音楽」である。また、昨年度から、生徒たちに良い本に出会ってもらおうと、教員で本の紹介を中心とした「朝の読書だより」を発行している。月一回、十三号まで発行した。本年度は、この試みを生徒たちにまで広げ、生徒版「朝の読書だより」も六月までに二回発行した。これらはみな、他の実施校からの示唆を受けて実施しているものである。こういった横のつながりは非常にありがたく、なじめない生徒に、微力ではあるが読書へ導くよい機会になっている。
ところで「朝の読書だより」を作成している生徒の顔を見て分かったことがある。一様に嫌な顔をせず楽しんでいるのである。「朝の読書」が、そして本が生徒たちの心の中でどんな位置にあるのかをかいま見ることができる。そして、生徒たちの心に占める読書の割合が、総じて少ないものではないことも本を推薦するためにコンピュータに向かう顔から伺い知ることができるのである。 |