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再び最高の伴走者たちと共に 時に距離を置きつつも。
ひとたび一緒になれば、打てば響く30年来の良き相棒たち
文◎小尾隆
 『ザ・リヴァー』のインナースリーヴには、ビルの屋上で集合写真に収まるEストリート・バンドの面々がいる。この設定の元ネタはローリング・ストーンズだ。彼らのオフィシャル・カメラマンとして60年代に活躍したドイツ人、シュレット・マンコーウィッツの写真にまったく似たような1枚が存在するから。パクリ云々ということをいいたいわけではない。ビルの片隅でバンド・メイトたちが一緒の写真に写っている。誰一人欠けることなく映し出されている。そのことがとても尊いのだ。ひとつのバンドでひとつの音楽を作っていくというのは、恐らくそういうことだろう。僕が感じていることは間違っているだろうか?
 言うまでもなくEストリート・バンドは優れたプレイヤーの集合体であり、ブルース・スプリングスティーンの音楽を支える屋台骨として献身的に働いてきた。結成された72年当時から数年はメンバーが行く人か入れ代わっていたものの、ゲイリー・タレント(b)、マックス・ワインバーグ(ds)、ロイ・ビタン(p)、ダニー・フェデリシ(kbd)、マイアミ・スティーヴことスティーヴ・ヴァン・ザント(g)、そして唯一の黒人プレイヤーであるクラレンス・クレモンズ(sax)と、この6人が顔を揃える74年の頃から、ボスとの信頼に満ちた関係は築かれていく。
 Eストリート・バンドの上手さとは、何も超人的なソロ・フレーズを弾いたり、奇抜な方法論で前衛ごっこをすることでは決してない。過去から脈々と培われてきたアメリカン・ロックンロールに対する直感的な理解の鋭さであるだろう。メンバーの間に共通認識として横たわっているのは、50年代後半から60年代の初期までを彩ったポップスやロックンロールの無垢の響きへの敬意であり、モータウンやスタックスといったグリーシーなR&Bへの共感であり、そして何よりも主人公であるブルースの歌をより一層輝かせることだった。
 グループのお手本となったのは、ずばりミッチ・ライダー&ザ・デトロイト・ホイールズだ。デトロイトという自動車産業の都市はストゥージズやMC5などラウドなバンドを60年代の終わりに輩出したが、その前段階としてミッチ・ライダーたちのボールドなロッキン・ソウルがあったことを忘れてはなるまい。ミッチの汗まみれの情熱的なヴォーカルはもとより、ハモンドB3オルガンでぐいぐいと煽っていくR&B的なアンサンブルは、ほぼ間違いなくEストリート・バンドの礎となっている。実際のライヴでも、「デヴィル・ウィズ・ア・ブルードレス・オン」「グッド・ゴリー・ミス・モリー」「CCライダー」「ジェニー・ジェニー」といったミッチたちの十八番ナンバーを自在に組み合わせた《デトロイト・メドレー》は、初期Eストリート・バンドを語る上で欠かせないものだった(サウンドトラック盤の『ノー・ニュークス』[79年]でその白熱した演奏が楽しめる)。
 ボストン出身のJガイルズ・バンドもまた、Eストリート・バンドに影響を与えたバンドといっても構わないだろう。ショウマンシップ溢れるピーター・ウルフのヴォーカルが最大の売りとなった骨太でファンキーなバンドだが、キーボード担当の知将セス・ジャストマンも影武者的な役回りで心憎いセンスを発揮していた。バンドの人数もEストリート・バンドと同じ6人編成である。若々しく陽気で街のざわめきまでが伝わってくるようなボス最高のロック曲「Eストリート・シャッフル」の後半には、一瞬のブレイク直後にテンポが急速に早まった切れ味鋭いギターのカッティングに先導されて、激しく細かくシンコペイトしていくバンドのよう数が記録されているが、同曲などに息づいているブラック・ミュージックのフィーリングこそは、Jガイルズ・バンドから学び取ったものではないだろうか?
 むろん本国アメリカだけではなく、ブルースとEストリート・バンドはブリティッシュ・インヴェイジョンの波にも寛容だった。彼らがステージで取りあげたナンバーから追っていくと、「ラスト・タイム」(ストーンズ)、「マイ・ジェネレーション」(ザ・フー)、「イッツ・マイ・ライフ」(アニマルズ)、「グローリア」(ゼム)、「プリティ・フラミンゴ」(マンフレッド・マン)といった具合に、R&B色が濃厚に立ち込める楽曲や、誰もがふと自然にメロディをハミングしてしまう歌に、彼らは心を開いていった。妙にマニアックな選曲をするインドア・タイプの音楽家たちには求め得ることが出来ない逞しさ。まるで太陽に照らし出されているような屈託のなさ。それこそがアメリカン・バンドの本懐なのかもしれない。
 ちなみにブルースとはニュージャージーでクラブ廻りをしていた下積み時代から交流のあったサウスサイド・ジョニー&アズベリー・ジュークスのことも書き加えておこう。時代という重荷を次第に背負って行かざるを得なかったブルースとEストリート・バンドとは対照的に、かつての同郷たちのロックンロールはどこまでもローカルな風情があり、ロード・ハウス・バンドの匂いを留めている。ブルースが書き下ろした名バラードをアルバム・タイトルに冠した『ハート・オブ・ストーン』(78年)などを、是非聴いておきたい。
 81年にはブルースの盟友でもあるマイアミ・スティーヴが脱退するという事件もあったEストリート・バンドだが、後任のギタリストには、ニール・ヤングとの交流を始めとして、グリン〜ソロとキャリアを積み上げてきたニルス・ロフグレンが決定。フットワークも鮮やかなニルスの個性は、少しずつバンドに溶け込んでいった。
 青年期の総まとめといった感も強い84年の『ボーン・イン・ザ・USA』(録音にはまだマイアミ・スティーヴが参加)を折り返し地点として、ブルースの音楽はより深く自分を掘り下げ、人々がやり過ごすそれぞれの人生を熟考するものへと変化していく。音楽的にもソロというフォーマットを重視した、フォーク・ソングの系譜に連なる機会が増していった。しかし久し振りにEストリート・バンドとのコンビネーションが完全復活した新作『マジック』には、ブルースの音楽を聴いて育ってきた人々を、あの青々とした懐かしい風が吹いていた時代へと連れ戻すような光りに溢れている。むろんその光の中には、歩んできた歳月に相応しく幾多にも陰影が折り重なっているものの、その光の源をここで掘り起こしてきたのは、ブルースと共に人生を重ねてきたEストリート・バンドという生きた伴奏者たちだったのである。

2002年11月29日、ジョージ・ハリスンの一周忌にロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで行なわれた追悼公演の模様をレポート。
文◎マイク・ドハーティ
 ロンドンの寒い夕方、アルバート・ホールにほど近い道端に、心細げなひとりの若者が街灯によりかかり、行き交う人を哀れっぽい視線で追いながら、殴り書きされたプラカードを一生懸命掲げていた。書かれている文句は〈Please can I have a ticket? From Japan!!!(お願いですからチケット1枚譲ってくれませんか? 日本から来たんです!!!)〉と読めた。さらにそこからケンジントン・ゴアを歩き、ハレ・クリシュナのチャントを繰り返す3人組の前を通り過ぎ、やたらに写真を撮っている連中の中にまたひとり、プラカードを掲げたさまよえる魂を見つけた。〈PLEASE PLEASE ME! Need Two Tickets. Genuine Fan. Have traveled from Liverpool!!!(プリーズ・プリーズ・ミー=お願いだから僕を喜ばせて!チケット2枚求む。正真正銘本物のファン。リヴァプールからやって来ました!)〉。
 ジョージ・ハリスンは特権を剥奪された人々の偉大なる友だったかも知れないが、今夜彼の名の下に集まってきた人々の博愛主義は自分たちのチケットを他人にあげてしまうところまでは行かなかったようだ。そしてこうしたトリビュート・コンサートと言えば、出演者は大抵寄せ集めのような顔ぶれになるのが長年の倣いだったが、今夜はどうやらちょっと違う趣向が用意されているようだ。
 The Concert For George(ジョージのためのコンサート)と題され、収益はハリスンの主催するマテリアル・ワールドというチャリティに贈られるこのコンサートは、クワイエット(無口な)・ビートルと呼ばれた男がこの世を去ってちょうど一周年のこの日に開かれたが、その目的は死を悲しむためと言うよりも彼の生きた人生を称えることだった。この街に集まって来た彼よりはもう少し騒々しい友人たちは、ビートル仲間のポール・マッカートニーとリンゴ・スター、トラヴェリング・ウィルベリーズの同僚トム・ペティとジェフ・リン、さらにビリー・プレストン、ラヴィ・シャンカール、そしてモンティ・パイソンの5人のメンバーのうち存命の4人といった顔ぶれで、彼らは次々にステージに上がり、サポートのセッション・ミュージシャンたちのバッキングを得て、ハリスンがそのキャリアの中で生み出した、あるいはそこからインスパイアされたり関係する曲をプレイした。
 ジョン・レノンなら「アルバート・ホールを埋めるには幾つの穴(hall)が必要か」知っている、などと嘲るように歌ったかも知れないが、この晩この壮麗な会場は5000人の観衆でぎっしり穴もなく埋め尽くされていた。会場の中でお香で満たされた有名な美しい回廊をつくづく眺めていると、簡単にムチ打ち症のような状態になってしまう。ひょろりと背の高いボブ・ゲルドフは身分を隠そうと試みていたようだが、残念ながら帽子ひとつでは何の役にも立たず、こざっぱりした服装でキメたデイヴ・グロールはフー・ファイターズのメンバーたちとシェアしているボックス席から出てあちこちぶらついていた。一時、サー・ジョージ・マーティンがバルコニー席に座っているという囁きが駆けめぐり、まるで一陣の風が吹きぬけたかのように人々の頭がそちらの方に向かって揺れ動いた。観客を見るためだけに人々がオペラグラスを持参しているというコンサートもあまりないのではないだろうか。
 ハリスンが生前毛嫌いしていたカルト的パーソナリティを演じることを極力避けるかのように、ステージ上のミュージシャンたちは皆控えめにしていた。彼らはただ互いに紹介し合い、おフザケや軽口は最小限に留めて、お祭り騒ぎの雰囲気も抑え気味だった。もっともそれもあくまでリンゴを除いての話で、赤いヴェルヴェットのスモーキング・ジャケット姿の彼は歌いながらエア・ドラムを叩き、ピースサインを連発し、上機嫌のペンギンのようにお尻を振りながらステージを歩いていた。
 当然ながら我々はこの愛すべき男にはこれを期待していたわけだし、実のところその他の出演者も皆全く予想通りのものを提供してくれたのである。スターは明るい「フォトグラフ」で客席を沸かせ、彼とハリスン共通のお気に入りだったと言うカール・パーキンスの「ハニー・ドント」で陽気に騒いだ。ラヴィ・シャンカールは自分のセットの前半を娘のシタール奏者アヌーシュカと共演し、インドとヨーロッパ両方のクラシック・ミュージシャンたちと一緒に気持ちのこもった、穏やかなオーケストレーションによる作品を披露した。トム・ペティは「タックスマン」をいつもの鼻であしらうような調子でプレイし、「アイ・ニード・ユー」で悲しげな慟哭を聴かせた後、ジェフ・リンをステージに呼んで「ハンドル・ウィズ・ケア」で観客を盛り上げた。マッカートニーは元気な「フォー・ユー・ブルー」と優しくジャジーな「サムシング」(彼はウクレレを演奏)、さらに荘厳な「オール・シングス・マスト・パス」を聴かせてくれた。
 勿論ハリスンはシンガーあるいはソングライターとしてのみならず、大きな影響力を持ったギタリストとしても人々の記憶に残るはずだ。彼の簡潔でぴりっと気の利いたソロと几帳面なラインは見まごうことがない。彼のパートはこの晩も多くのギタリストたちによってなぞられたが、しかし何と言ってもこの夜のギター・ヒーローはエリック・クラプトンだった。シャンカールの「Arpan」のエンディングを飾ったクラプトンのヴィブラートを多用した情熱的かつ優雅なアコースティック・ソロ、そしてロック系の曲で聴かれたエレクトリックでのプレイは、彼のギターがただ優しくすすり泣く(gently weeps)だけに留まらず、むせび泣き、その弦をかきむしり、大きなサウンドの弧を幾つも炸裂させた。
 ハリスンのよく知られるウィットも象徴的に示されていた、かつてモンティ・パイソンのフライング・サーカスのメンバーだった面々が、悪名高き「シット・オン・マイ・フェイス」に合わせてマイムし、観客に向かってムーニング(訳注:お尻を出すこと)した場面では少々決まり悪げではあったが笑い声があがった。マイケル・ペリンはマウンティーズと言う聖歌隊の1人として登場し、「ザ・ランバージャック・ソング」を披露して、ブリティッシュ・コロンビアに関するどうということはない余計な話と、どこか不条理なほど多額の収益を歓迎する旨のコメントなどを差し挟んだ。
 ペリンによれば、ハリスンの遺産を正しく評価するには「今夜ここにいる我々はナ何とも申し訳ないほど不適格」であり、その不適格さを補う一番の方法は我々の心の強さと数字、そしてロックンロールの全てで大盤振る舞いをすることなのだそうだ。
 ハリスンの晩年の作品はシンプルなテクスチュアに徹していたが、このConcert For Georgeでは彼の曲は、フィル・スペクターがジョージのソロとしてのデビュー作であり最も高い評価を受けているアルバム『オール・シングス・マスト・パス』で施したのと同じ丁重な扱いを受けていた。ショウが終わる頃にはステージの上には21人のミュージシャンが勢揃いし、壇上には10人編成のストリングスもしつらえられていた。ギタリスト8人(ハリスンの息子ダニーを含む)、ベーシスト1人に3人のドラマーというのはジョン・レノンの失敗作の如きサウンドになる危険もはらんではいたが、見事に不朽の、時には輝かしいばかりのウォール・オブ・サウンドを作り上げていた。
 会場を埋めた観衆は実に幅広い年齢層と性別で(残念ながら人種はそうはいかなかったのには多少の失望を禁じ得なかったが)、曲が進むにつれてその熱気はどんどん高まるばかりだった。ほんの幾つかのボックス席で、数えるほどの人々(恐らく偶然ではないだろうが、ボックスには酒の持ち込みが許されていた)を除いて、彼らは皆曲の間だけ立ち上がるだけでも十分満足そうだった。それでもエンディング近く、会場中の人々が立ち上がり、手を叩いて一緒に歌い出したのは“マイ・スウィート・ロード”が演奏された時である。
 ようやく観客との間の見えない壁を壊すことが出来たクラプトンとその仲間たちは、激しいロック・ナンバー「ワー・ワー」で畳み掛け、荒々しく吼えるエレクトリック・ギターから織り出す叩きつけるようなサウンドがホール中を震わせた。だがオーディエンスの中の富裕層の人々の多くはここで明らかに知覚神経の過重を感じたようで、ほんの3時間前には静かなシタールの演奏で始まったはずのショウがいつのまにか姿を変えた耳をつんざく音の洪水にどうリアクションしていいか分らないまま所在なげに首を振ったりしていた。フィナーレとしてはかなりまとまりを欠いていたのは否めないが、イタズラ好きで時には血の気の多いところを見せることもあったハリスンならきっと、こんな幕引きも笑って許したに違いない。
 オリヴィア・ハリスンは先頃NBCで、死の間際の彼女の夫が何にも未練や執着を示すことなく、心穏やかにその時を迎えたと語った。けれどアルバート・ホールで、出演者のミュージシャンたちが皆順々にステージを去った後、オーディエンスの中の幾つもの淋しげな顔が舞台の上に掲げられた巨大な写真をじっと見上げていた──このコンサート会場に居合わせた幸運な人々でさえ、その喪失感を拭い去ることは出来ないようだった。しかし、彼らは元気を出すべきなのだ。少なくとも彼らはたった今ここで、こちら側の世界で最高のロックン・ロール・ジャム・セッションを観ることが出来たのだから。

非“ナチュラル・ボーン”
ブルースマンの苦悩70年代、ソロとしての再出発でクラプトンが求め続けたものとは
文◎棚橋憲治
 苦悩の人。70年代のクラプトンの活動を振り返る際に付きまとうイメージとはそれだ。今でこそ気持ち良さげに歌い上げる「虹の彼方に」なんて曲がテレビから流れてきたりするクラプトンだが、そうした振る舞いに違和感を覚えなくなったのは割と最近のことで、恐らく90年代半ば以降からだろう。『アンプラグド』『フロム・ザ・クレイドル』といったアルバムが、その渋い内容にも拘わらず従来のファン層を越えた支持を集め、何曲ものバラードがチャートの上位を席巻したのは記憶に新しい。それ以降の作品は、彼の長いキャリアにおいてほとんど初めてと言っていいほどに、成功を楽しむ余裕が感じられるものが多い。
 逆に現在のクラプトンしか知らないファンには、ドラッグとアルコールでヘロヘロになっていた70年代の彼の姿は意外に感じるのかもしれない。88年にデビュー25周年を記念して発売されたボックス・セット『エリック・クラプトン・アンソロジー』のジャケットを思い出して欲しい。単純明解な作風がモットーであるロン・ウッド画伯らしく、彼の描いた肖像は眉間に皺を寄せ、苦悶の表情で弦をチョーキングするクラプトンである。今思うとやり過ぎの感が無くもない。が、少なくともこれを担当したデザイナーの頭の中には太陽を浴びながら笑顔で渚を駆けるクラプトン(彼がそんなことをしたことがあるかは知らないが)なんて選択肢は無かったはずだ。当時はまだこのような一アーティストの活動を集大成した編集盤というものが一般的ではなく、過分に仰々しいものであったせいもあるだろうが、88年時点にあってもクラプトンとは「苦悩」と隣り合わせであり、また彼もそのイメージに忠実であったことを物語っている。
クラプトンと言えばブルースと相場は決まっている。非常に有名な話であるが、彼は出生に関して不幸なトラウマを背負っており、少年時代に生い立ちに関する秘密を知って大きなショックを受け、ブルースという音楽にのめり込んでいったとされる。
 ブルースが悲しみのみを表現した音楽であるという見方は誤解以外の何ものでもないが、悲しみという感情と切り離せない音楽であることもまた事実だ。喪失感、疎外感を抱えた少年クラプトンがブルースに向かったのは無理からぬことだったのかもしれない。しかし何もブルースだけが悲しみを表現する音楽ではない。極端な話、ポルカやフォルクローレでは駄目だという理由も無いはずだ。クラプトンにとってブルースが他の音楽と違ったのは、その構成のシンプルさ故に演奏者の個性が如実に現れる神秘性を内包していたことが大きい。それはほとんど信仰の対象となり得る崇高な音楽であり、十字路で悪魔に魂を売り渡したロバート・ジョンソンの伝説さながらに、殉教者であることがブルースマンの大命題かのように自らを追い詰めるストイックさを持って接するべきものだったのだ。
 イギリスで生まれた白人でありながら、ブルースに魅入られた不条理を正当化するために、ブルースを必要以上に神聖化してしまったプロセスは、東洋の島国に住む我々ならそれほど飛躍した考えでもない。「日本人にはブルースは分かりっこねえんだよ!」なんて言い草を聞いたことがあるでしょ?
70年代のクラプトンの音楽活動について触れるためには、それ以前の活動状況について押さえておく必要がある。プロのミュージシャンとしてのキャリアをスタートさせたヤードバーズからジョン・メイオールに誘われて加入したブルース・ブレイカーズまでのクラプトンは発展途上段階と言っていいだろう。ヤードバーズ在籍中には既に神と形容されたぐらいだからギタリストとして突出した才能を持っていたことは間違いないし、ブルース・ブレイカーズではブルース・ロック・ブームに先鞭を付けた功績もある。その頃の作品を今聴き返しても20歳前後にして技術的には完成に近い演奏をしていたのは驚異的だ。
 しかしこの時期のクラプトンはあくまでもブルースへの憧憬を素直に表わしたに過ぎず、言わばフレディ・キングらシカゴのブルース・ギタリストの精巧なレプリカントに過ぎなかった。続いて66年に結成したクリーム時代に入ると、それ以前よりはオリジナリティの追求が感じられる。ブルースを基調とし、インプロヴィゼーションを大胆に導入したより攻撃的な演奏は、現在まで続くハード・ロックの概念を形成させる役割を果たし、世界的にもクラプトンの名を知らしめる大きな成功を収めた。しかしこれはジャック・ブルース、ジンジャー・ベイカーという我の強いメンバーとのトリオ編成による賜物であり、サイケデリック時代の産物であった事実も動かし難い。結局バンド内の人間関係と時代の変化に逆らうことはできずクリームは短命に終わってしまう。
 同じヤードバーズ出身者であり、3大ギタリストとして比較されることも多いジェフ・ベックとジミー・ペイジが、この時期それぞれ独自の解釈でハード・ロックを押し進める活動を始めたことを考えると、クラプトンがクリームを発展させる形で歩調を合わせたとしても不思議ではなかった。クラプトンがこの二人と明らかに違う方向性を見出した背景には、特にザ・バンドとデラニー&ボニーからの影響が大きく関与している。
 ザ・バンドのデビュー作『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』を、クリームの活動に限界を感じていた時期に聴いたクラプトンは、ブルース感覚を湛えながら穏やかで調和の取れた音楽性に衝撃を受ける。ライヴでは常に自己主張の火花を散らしあい、延々とソロを取り続けた自分たちとの大きなギャップ。そして「本当にやりたいのはこういう音楽だ」と思い、クリームを解散したくなったという。同じくクリーム活動中に知り合ったとされるデラニー&ボニーには、ブルース、フォーク、ゴスペルなどルーツ音楽に対する深い素養に共鳴し、同時に米南部出身の彼らにとってはそれらが生活に密着した音楽であることに強い憧れを抱いたのだった。
 クラプトンが一廉のギタリストであるのは誰もが知るところだし、「ギターの神様」という肩書も今もって根強く残る。しかしクリーム時代までの彼は「ブルース好っきゃねん」の一念で押し通したのみで、ギタリストとしての評価は得たものの、音楽を構成する要素としてはそれはひとつのパーツに過ぎず、自らの来し方を顧みた時にその表現としての薄さ、深みの無さに愕然としたのだ。
 ブルースを始めとしたルーツ音楽というものを強く志向しながら、知識としてしか持てないイギリス白人のジレンマを嘲笑うかのような、同世代のカナダ人を中心としたバンドが奏でた音楽の豊潤さ。或いはルーツ音楽が血として肉として体に染みついたアメリカ人が、無意識の内に見せつける圧倒的な距離感。60年代末にこれらを目の当たりにした時、クラプトンは打ちのめされたに違いない。立ちはだかる絶望をスタート地点に、おずおずとではあるが自らの音楽を開拓し始めたのが70年代以降のクラプトンの姿だ。ベックやペイジにしても、ベースにあるのはブルースである。ただこの二人が60年代後半から、悪く言えばブルースを利用して新しいロックのスタイルを獲得していったのに比べると、クラプトンの選択は、あまりにも無防備で不器用だ。
 詳細は別稿に譲るが、クリームを解散し、ブラインド・フェイスを結成した辺り(だから厳密には69年初頭)からクラプトンの音楽性には顕著な変化が現われる。まず、独りよがりな長いギター・ソロの比重が低くなった。よりアーシーで調和を重んじる音楽性へのシフトが見られる。次に自ら曲を書き、歌うようになった点も特筆すべきだ。それ以前にも共作で曲を書いたことはあるし、リード・ヴォーカルを務めた曲もあることはあるが、片手間でやっている印象は拭えない。積極的に歌うようになった切っ掛けはデラニー・ブラムレットの進言だそうだが、この時期クラプトンの頭の中で伝誦音楽であるブルースの本質を自分のものにするのなら、自らが作り、歌わねばならないとの判断があったのだろう。
 しかし目指す方向が頭では分かっていても、ここから先は決して順風満帆とは言えない道のりだった。
 70年代に限ったことではないが、やはりブルースの発想が根底にあるのか、この人は実際に起きた自らの不幸な体験をテーマにした曲が非常に多い。実生活と音楽が直結してしまっているために、クラプトンの音楽を聴くということは、クラプトンの人生を知ることでもあるのだ。だからこそ聴き手はあの泣きのギターの所以を想像できるし、感情移入しやすくもあるのだが、やってる方はヘヴィだろう。何しろジューク・ジョイントでまばらな客を相手にしているのとは訳が違う。聴衆は世界中にいるし、当然背後には大きなビジネスも絡んでくる。事故で亡くした愛息に捧げた「ティアーズ・イン・ヘヴン」が大ヒットした直後のことを回想して「ステージに出ていってあの曲を始めると、すごい歓声が起こってさ……息がつまりそうで、それに腹が立ったよ。ステージを降りたあとは、ひどく落ち込んでしまった」という発言まで残している彼だ。
「今では、そんな状態になることはないけどね」とこの発言は続くのだが、彼のナイーヴさ、精神的脆さを象徴するようなエピソードだ。特に70年代には度重なる不幸と繊細さが災いして、ドラッグ禍、アルコール禍に度々陥っている。一時は生命を脅かすレベルにまで到達していたというから、消極的に自殺を図っていたのと同じだ。そうなりながらも音楽が最大のモチベーションであることには変わりなく、いかに自分なりのブルースを鳴らすかというテーマにもがき苦しんだ跡が、70年代の諸作には窺える。
 例えば落語という、やはり伝誦形態の芸能がある。落語とは単に滑稽な昔話をする芸だと思われている部分もあるが、実は人間という業の深い生き物のおよそ全ての営みを諧謔という切り口で説き明かすものだ。古典と呼ばれる、そのほとんどが江戸時代に作られたスタンダード・ナンバーは、時代ごとに演者が新たな解釈、味付けを加えながら現代まで語り継がれている。熊さんも八っつぁんもご隠居さんも居ない世の中になっても、普遍的に通用する話として成立するのは、そのキャラクターが現代にも置き換えることができるからに他ならないが、そこにリアリティを感じさせる話芸がなくては聞き手には伝わらない。芸を完全に習得するのは並大抵のことではなく、才能ある者でも30〜40代は若手と呼ばれ、名人と認知されるのは50歳を過ぎてからというのが落語の世界での常識だ。
 非常に安直な例えだが、クラプトンにとってのブルースも構造的には落語に似ている。現代の噺家が見たこともない江戸時代の話をモチーフとするのは、落語という形式を通して普遍的に表現できる何かを求めているからだ。同様に遠い外国で生まれた音楽に自らのアイデンティティを求めたクラプトンは、ナチュラル・ボーンのブルースマンと決定的な差異に苦しみながら、彼なりのブルースを獲得するために長い時間をかけ、多くの経験を積む必要があった。そういえば落語界は自殺者の多い業種である。その理由がクラプトンがかつて抱えた苦悩と同質のものと考えるのは無理があるだろうか。
 今やブルースが生まれた時代を実体験として持っている世代はほとんど残っておらず、形式としてのブルースを演奏するミュージシャンは非黒人の方が多くなってしまった。ではブルースという音楽は今後死に絶えるのかという問いには、クラプトンを例に挙げて否定したい。BB・キングへの敬意を込めながら、しかし対等に渡り合っているアルバムなどを聴くと、ブルースの魂は時空を越えて宿る可能性を感じずにはいられない。今のクラプトンなら何を演奏しても、それが「虹の彼方へ」や他の曲であっても、ブルースに聴こえるはずだ。
 90年代にブルースと正面から向き合った『フロム・ザ・クレイドル』が世界的なヒットを記録したことにより、自信に結びついたことは大きいが、それがまぐれ当たりによるものでないことは過去の歴史を紐解けば分かることだ。「チェンジ・ザ・ワールド」しか知らないようなファンをも獲得する包容力のある音は、一朝一夕に出せるものではない。商業的な観点で言えば過去に何度かピークを迎えたことのあるクラプトンである。それどころか多少の浮き沈みはあったにしろ、この40年間というものセールス面では一線から退いたことは無かったと言ってもいい。単純に売れたことで近年の作風に変化が生じたのではないことぐらい、長年のファンなら分かるだろう。
 むしろ70年代に迷いながらもブルースの本質を求め続けた過去を知っている者には、今のクラプトンの音楽がより感慨深く聴けるのだと思う。

これで本当にラスト!?
“フェアウェル”ツアーの全容
文◎オダ ミツル
 「We're the Eagles from Los Angeles, California!」というお馴染みのグレン・フライの挨拶から始まった〈フェアウェル〉ツアー。フェアウェルといってもこれが最後のツアーという訳ではない。「フェアウェル・ツアー11/2をやるかもしれない」とドン・ヘンリーが言ったり、「フェアウェル・ツアー ll までやる予定」とジョー・ウォルシュが発言したりと、いわばいつも解散ばかりが噂になる事に対しての彼等らしいジョークなのである。
 さて、2003年の北米ツアーから始まったこの〈フェアウェル〉だが、まず触れておかねばならないのがドン・フェルダー脱退、というか解雇の件とそれに続く訴訟問題についてだ。ヘンリーとグレン・フライが設立した〈Eagles Ltd.〉という会社に対して、フェルダーが自分の権利が正当に扱われていないという申し立てを行った事が発端であるが、これに対しヘンリーとグレンはフェルダー解雇という強硬手段に出たのだ。そこでフェルダーは解雇された事で生じる損害の賠償を求めて訴えたというのが今回の訴訟騒動である。
 これにより、音楽面はともかく、ビジネス面においてはヘンリーとグレンの2人だけがイーグルスであるとはっきりした訳だがジョーとティモシー・B・シュミットには不満がないようなのが面白い。逆にあのラヴ&ピースのティモシーがフェルダーに対して怒っているという話もあり、どーやら『ロング・ラン』の時代から続くフェルダーの欲求と要求に他のメンバーがほとほと疲れたというのが事の真相らしい。
 これにより73年以来の4人組に戻ったイーグルスだが、ステージング的にもサウンド的にもフェルダーの穴は感じられない。むしろ、94年のリユニオン当時よりもすっきりとまとまった感さえある。ヘンリーとグレンを核にメローなティモシーとハードエッジなジョーという絶妙な組み合わせを見ると、もしや確信犯ではと思ってしまう程だ。
大編成で新生した名曲群
 さて今回のツアーではイーグルスの4人に加えホーンセクション4人を含む8人のサポートメンバーが同行している。まず、フェルダーの穴を埋めるというだけでなく、多くの曲でソロを取るギタリストのステュワート・スミス。ヘンリーのアルバム『インサイド・ジョブ』やイーグルスの新曲「ホール・イン・ザ・ワールド」にも参加している彼は元々トリーシャ・イヤウッドやロザンヌ・キャシュ&ロドニー・クロウェル等のカントリー系のセッション・ギタリストであり、フェルダー・タイプだけでなく、バーニー・レドン系のカントリー・ピッカーとしてもかなりの腕前を持つ人物。「テイク・イット・イージー」でのバーニーのストリング・ベンダーのソロを見事に再現しているのは聞きものだ。
 キーボードは2人でマイク・トンプソンとウィル・ホリース。ウィルは「ホール・イン・ザ・ワールド」でアコースティック・ピアノをプレイしている。この2人は曲間やイントロで活躍、ヘンリーやグレンが楽器をスイッチする間を持たせる役割をも担ってもいた。
 ドラムとパーカッションには〈ヘル・フリーゼズ・オーヴァー・ツアー〉からのスコット・カーゴ。今回のツアーでは以前よりもヘンリーがドラム・セットを離れてステージ・フロントで唄う事が多く、その分スコットがドラムをプレイする機会が増えた。ティモシーの近作『フィード・ザ・ファイヤー』やヴェニスのアルバム&ツアーにも参加しているスコットは新世紀のラス・カンケルといった感じの売れっ子セッション・ドラマーで、今回のツアーでは安定したリズムと歌心溢れるフィルでリズムを引き締めていた。
 そして4人のホーン・セクション。ヴァイオリンも弾くアル・ガースは〈ヘル・フリーゼズ・オーヴァー・ツアー〉にも同行していたが、元ロギンス&メッシーナ、ニッティ・グリッティ・ダート・バンド、そして短期間ではあるがポコのメンバーだった事もあるウエスト・コースト・ロックのベテラン。バリトン・サックスのグレッグ・スミスはグレンの仲間達、ジャック・マック&ザ・ハートアタックのメンバー。トランペットのビル・アームストロングはケイコ・マツイやブライアン・ブロンバーグと活動していたジャズ/フュージョン畑の人。そしてただ1人、ヨーロッパから来たのがサックスの素晴しいソロを聞かせるクリス・モスタート。ちなみにキーボードの2人とギターのステュワートはバック・ヴォーカルも担当している。
 別表のセット・リストをご覧いただくとわかる通り、今回のツアーでは「ホール・イン・ザ・ワールド」以外には新曲がない。ヘンリーとジョー曰く過去30年以上の経験から、聞き慣れるチャンスがなかった新曲をやると観客がシラケてしまう可能性が高いし、新作のリリース前にステージでプレイしてしまうとブートレッグを作られたり、ネットで流されてしまったりする危険があるからだそうだ。新曲はないものの、それぞれのイーグルス・クラシックスはイントロを変えるなどの工夫も施されており、ホーンセクションという見た目の変化もあって〈ヘル・フリーゼズ・オーヴァー・ツアー〉の時とは若干違ったイメージを与える。
 特に、今回のツアーで改めて感心させられたのは彼等のコーラス・ワークだ。彼等はピッチの乱れもなく、ヴィブラートまでピッタリ揃った美しいハーモニーを聞かせてくれるのだ。特に「ピースフル・イージー・フィーリング」や「ライン・アイズ」といった曲で聞かれるハーモニーはまさにイーグルスならではのもので、これほど美しくライヴでハモれるのは全盛期のビーチ・ボーイズと、ティモシーにリッチー・フューレイ、そしてジョージ・グランサムが揃っていた頃のポコくらいなもんだろう。
 イーグルスが現存する多くのロック・バンドのなかでも最高峰のコーラス・バンドであるという事を思い知らされた。新曲「ホール・イン・ザ・ワールド」は今まで以上にハーモニー・オリエンテッドな曲だったが、この〈フェアウェル〉もハーモニーがより充実したヴォーカル・グループとしてのイーグルスが思う存分楽しめるツアーだと言えるだろう。

レッド・ツェッペリンが『III』に求めた音とは
『III』収録曲はその後のステージでどう取り上げられたのか。
『III』に秘められたサウンド・ポテンシャルはどこにあるのか。
文◎西江健博
 『レッド・ツェッペリン3』は文字通りレッド・ツェッペリンにとって3枚目のアルバムであり、全10曲が収録されているが、その内の6曲までもがアコースティックなナンバーで占められている。実はそれ以外にも、「移民の歌」のシングル盤でカップリングされた「ホワット・キャン・アイ・ドゥ」、後の『フィジカル・グラフィティ』に収録される「ブロン・イ・アー」、『コーダ』に収録される「プア・トム」の3曲もこのアルバム用のマテリアルであり、このサード・アルバム用の公式マテリアル全13曲中、アコースティック・ギターが全く使用されていない楽曲は「移民の歌」「祭典の日」「貴方を愛しつづけて」「アウト・オン・ザ・タイルズ」のわずか4曲しかなく、9曲までもがアコースティック・ギターを必要とした楽曲群となっているのは改めて驚きだ。

 これは如何にこの時期のツェッペリンがアコースティックな音を求めていたかということになるだろう。振り返ってみると、レッド・ツェッペリンはニュー・ヤードバーズとして1968年9月にデビュー・ライヴを行って以来、マネージャーであるピーター・グラントの戦略により、ほとんど休む間もなく1970年4月まで過酷なライヴ・ツアーを続けている。それに疲れ果てたジミー・ペイジとロバート・プラントは、その反動からか1970年5月上旬、電気も通じていない(と言われている)ウェールズ南スノウドニアの山荘ブロン・イ・アーに滞在し、自己の音楽についての再考察を行っている。アコースティック・ギターやコンガといった楽器だけで、自分達の根底にある音楽性を見直そうとしたわけだが、ここで創出された楽曲の骨組みが後に『レッド・ツェッペリン3』を象徴する作品群へと繋がっていくわけである。もしブロン・イ・アー・コテージへの逃避がなかったならば、その後のツェッペリンの多様な音楽性への発展は、ひょっとするとなかったのかも知れない。
『レッド・ツェッペリン3』は1970年10月5日にリリースされる。前2作とは指向が異なりアコースティックなナンバーが極端に目立つこのアルバムの楽曲をライヴで演奏することには、それなりに躊躇があったのかもしれないが、リリース当時、このアルバムのマテリアルからライヴで頻繁に演奏されていたのは「移民の歌」「貴方を愛しつづけて」「ザッツ・ザ・ウェイ」、そしてジミー・ペイジのソロである「ブロン・イ・アー」のみである。ごく稀に「アウト・オン・ザ・タイルズ」も演奏された記録は残っているが、基本的にインプロヴィゼーションを必要としない型にはまった楽曲なので、ツェッペリン側としてはステージで演奏してもあまり面白みがなかったのだろう。セカンド・アルバムに収録されている「リヴィング・ラヴィング・メイド」が一切演奏されなかったのも同理由ではないだろうか。「ブロン・イ・アー」は『レッド・ツェッペリン3』には収録されなかったので、『レッド・ツェッペリン3』からはわずか3曲しか頻繁に演奏されていないわけだが、翌1971年には「祭典の日」「タンジェリン」「スノウドニアの小屋」も頻繁に演奏されるようになっただけでなく、「フレンズ」「ギャロウズ・ポウル」もごく稀に演奏された記録は残されており、結果的に「ハッツ・オフ・トゥ・ロイ・ハーパー」を除く全曲がライヴで演奏されたことになる。ギターの多重録音が施されている「祭典の日」と「タンジェリン」はライヴ用のアレンジを確立するのに間違いなく時間を要したのだろうし、ジョン・ボーナムの休憩タイムとなるアコースティック・セットにドラムスを必要とする「スノウドニアの小屋」を加えることにジョン・ボーナムは首を縦に振らなかったのかもしれない。いずれにせよ、アルバムをリリースしてからライヴで演奏するまでに時間を要する楽曲が、このアルバムから間違いなく増えていくわけである。例えば、4枚目のアルバムでは「限りなき戦い」「ミスティ・マウンテン・ホップ」「レヴィー・ブレイク」がそうだし、『フィジカル・グラフィティ』では「テン・イヤーズ・ゴーン」「黒い田舎の女」がそれに当たる。このような事実から『レッド・ツェッペリン3』はスタジオ・ワークならではといった本格的なレコーディング手法が始まったアルバムとも言えるのではないだろうか。デビュー・アルバムはわずか30時間でレコーディングが完了したと伝えられるし、セカンド・アルバムは過酷なツアーの合間を縫った強行なるスケジュールでレコーディングが行われたと伝えられるのに対し、このサード・アルバムは初めてじっくりと落ち着いてレコーディングされたと伝えられるだけに、スタジオ・ワークに緻密さが増すのは自然なことだし、4枚目以降の多様な音楽性はこのような手法でなければ確立出来ないわけである。

 このような緻密なスタジオ・ワークにより創出された楽曲をライヴで演奏するにはジミー・ペイジの試行錯誤が繰返されていくわけだが、例えば1971年のステージで「祭典の日」はWネックを用いて演奏されていた。これは多重録音による何本も重なったギターを12弦にて表現しようとした試みであり、同様の試みである「天国への階段」の次の曲として演奏されていたことは多かった。しかし、その後はレスポールで普通に演奏されたり、Wネックの6弦側だけで演奏されたりと演奏形態はさまざまだ。そして、それにより奏でるリフやバッキングといったプレイ自体も変化していることにジミー・ペイジのギタリストとしての面白さが隠されているわけだ。「タンジェリン」にしても、1971年のステージではジミー・ペイジとロバート・プラントの二人によって演奏されていたものが、1975年のアールズ・コートのステージではジミー・ペイジのWネック、ジョン・ポール・ジョーンズのベース、ジョン・ボーナムのドラムスによるエレクトリック・ヴァージョンにて演奏されている。
 こういった緻密なスタジオ・ワークを必要とした楽曲は、ライヴ用のアレンジにもさまざまな解釈を生み、さまざまな表現を我々に与えてくれている。ツェッペリンのライヴが面白い理由のひとつには、このようなスタジオ・ヴァージョンとライヴ・ヴァージョンの全く異なったアレンジやテイストが隠されているところにもあるのだろう。なお、『レッド・ツェッペリンDVD』にも『伝説のライヴ』にも「タンジェリン」は何故か収録されなかったが、「祭典の日」も「タンジェリン」も、年代によるライヴ・ヴァージョンの聴き比べをするには、残念ながら非オフィシャル物に頼らざるを得ないことをここでお断りしておく。

 冒頭でも触れたように、過酷なツアー・スケジュールと連日連夜に繰り返されるマーシャル・アンプの歪んだエレクトリック・サウンドが本能的にジミー・ペイジをアコースティック・ギター・サウンドへと導き、その本能的に生じたアコースティック・サウンドへの傾倒から生まれたのが『レッド・ツェッペリン3』ではないだろうか。このようなアルバムを作り上げようという意思が最初からあったとは考えにくい。そして、このアルバムのレコーディングを境にステージでもアコースティック・セットが登場するわけで、ライヴ・ステージでの音楽性とエンタテインメント性の幅を広げる事になる。レッド・ツェッペリンの偉大なところは、その時その時に本能的に求める音色がまず存在し、それを基盤に4人のセッションにて化学反応が生まれ、普遍的な音を生み出したところにあるわけで、『レッド・ツェッペリン3』で例えるならば、本能的に求める音色がアコースティック・ギターの音色で、その上でこの4人ならではといった音の構築に成功している。そのような見方をすると、ツェッペリン・サウンドの要であるジョン・ボーナムのヘヴィでパワフルなドラミングも大々的にフィーチャーされている「ギャロウズ・ポウル」と「ホワット・キャン・アイ・ドゥ」にこそ、この『レッド・ツェッペリン3』制作時のツェッペリンのサウンド・ポテンシャルが秘められていると言えるのかもしれない。「移民の歌」「祭典の日」「アウト・オン・ザ・タイルズ」やブルース調の「貴方を愛しつづけて」といったデビュー以来の王道サウンドは、このアルバムにおいては例外的な楽曲だったのかもしれない。レッド・ツェッペリンに秘められた本能的に求める音色と、それを踏まえた上でのバンド・アンサンブルが作り出すグルーヴ感というものを解釈するには、この『レッド・ツェッペリン3』こそ、正に絶好なアルバムと言えるのではないだろうか。


華麗なるレースを制し、伝説のチャンピオンを目指す
他にも有力と噂されたシンガーもいる中、なぜポール・ロジャースだったのか?
文◎マッド矢野
 クイーンのフロントをポール・ロジャースが飾る。そんな時が訪れようとは誰が想像しただろう。クイーンとポール・ロジャース、共に概ね“ハード・ロック”で語られる。が、そのセンスは両極端。両極へと追い遣る理由は明白。黒人音楽性の度合い。片や氾ヨーロッパ志向に基づきオペラにまで食指を伸ばす。一方は、あくまでブルースに基づくアプローチ。水と油。相塗れる事など予想だにしなかった。とはいえ、その実現はロジャースの資質の為せる業でもあろう。
 ポール・ロジャースのキャリア、それは黒人音楽を柱とした螺旋階段の如し。故に、常にブルージーかつソウルフルな歌いぶり。だが、意外にもそこには特定の影響が見えない。ミック・ジャガーならばドン・コヴェイ、ロッド・スチュワートならばサム・クックが容易に見える。が、ロジャースには見えない。また、先の二人にスティーヴ・マリオットやフランキー・ミラーらを加え共通項を導くならばオーティス・レディング。ロジャースも彼の「ジーズ・アームズ・オブ・マイン」を披露した。が、そこですらオーティスの影は薄い。『マディ・ウォーター・ブルース』然り。御大マディへのトリビュート作。だが、その唱法に倣おうとはしない。フリーではハウリン・ウルフ、バッド・カンパニーではコースターズ、ファームでは黒張りのライチャス・ブラザーズをカヴァーした。が、それらも同様。しかもテナーのカール・ガードナーからバリトンのビル・メドレーまで己の声で処理。04年にはフォー・トップスと共演した。とはいえ、言う迄も無くリーヴァイ・スタッブスからの影響は皆無。常に黒人音楽を柱にキャリアを積んで来たロジャース。しかし他の同系シンガーのようには特定の影響が見えない。実は不思議なシンガー。
 かつてロジャースは言った。「B.B.キングがいい」。誰もが画期的なモダン・ブルース・スタイルを指していると受け取った。が、フェイヴァリット・シンガーの表明だったのかもしれない。黒人的ながらも滑らかな声質と歌唱。B.B.的だ。そして何より演奏と会話するかのような歌。意外にも填ったのがジミ・ヘンドリックスの大量カヴァー。何よりグルーヴを操るかのような歌。ヘンドリックスとの共通性を見た。ロッド・スチュワートやスティーヴ・マリオットらは己のシンガー的ルーツに求心的なアプローチを取る。が、彼らとはヴェクトルもスタンスも異にする黒人的シンガー、それがポール・ロジャースなのである。換言すればフレクシブルかつオリジナルなセンスを持つシンガー。
 フレクシブルである証としてジャクソン・ブラウンやローウェル・ジョージへの意識がある。メロディの抑揚を抑え語尾を伸ばし余韻を生む唱法。紛れもなく、その二人への意識の反映。特にリトル・フィートへの憧憬はリズムを筆頭にバッド・カンパニーに大いに反映された。
 ジェフ・ベックとリッチー・ブラックモアがロジャース獲得に出た事は有名。当時、両者に共通して現われた候補がピーター・フレンチ。しかし両者はその黒過ぎる嗄れ声を拒否。そしてロジャースを狙う。ならば二人は嗄れ声ではない声に惹かれていたのではないか。しかも当時はロッドやジョー・コッカーの全盛時代。嗄れ声のソウルが氾濫。ロジャースの声は特異な存在だった。故に要請が集中。リッチーはジェス・ローデンにも声を掛けた。デヴィッド・ラフィンの黒い影響を窺わせつつも嗄れ声に非ず。そしてデヴィッド・カヴァーデイルに決める。決め手は声だったに違いない。
 フレクシブルかつオリジナルな歌唱、そしてハスキーではない特異な声質。その意味に於いてフレディと共通する。しかもロジャースはジミー・ペイジと組んだり、バンド・オブ・ジプシーズを装ったり、他流試合的傾向をも強めていた。そしてクイーンへの参入。最早そこに不思議はない。
 ブライアン・メイは言う。「フリーやバッド・カンパニーの曲が好きだった」。そこでロジャース曲も披露する。が、あくまでクイーンが主体。ロジャースは、そのフレクシビリティをもってフレディ色を損ねず、その上で己の色を主張する。ポール・ロジャースとフレディ・マーキュリー、共に孤高のシンガー。だが、ここにクイーンをスパーリング・パートナーとし、ロジャースは孤高的シンガーの統一チャンピオンを目指す。

シンコーミュージック・エンタテイメント「THE DIG」編集部協力


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