著者のことば
30年戦争を戦いルバング島から日本に帰還した小野田寛郎さんのニュースは、世界中に発信されました。その益荒男ぶりをテレビで見たのが、私の人生の大きな転換点となりました。偶然が重なって寛郎さんと結婚し、ブラジルに移住することになったのですが、再び日本の土を踏むことはない、との悲壮な決意での旅立ちでした。
牧場の開拓は日々トラブルの連続。慣れない気候・風土に加え、食べ物も違います。近所に知る人もいない広大な荒野にポツンとあるだけの一軒家では、喧騒の東京がひどく懐かしく感じられたものです。これまでの人生でおよそ接したこともない、ダニや毒ヘビ、ワニ、蜂などの動物もいます。もちろん、電気も通じていませんでしたから夜はランプの生活。灯に集まる羽虫のすごさにも驚かされました。死んだ羽虫が、一晩でバケツ一杯にも。私の不注意で牧場の牛に襲われて、九死に一生を得たこともありました。
牧場開拓も私の予想とは随分違いました。というのも、7、8年というもの牧場からの収入は一切なく、お金は出てゆくばかりなのです。いかに資金力が必要なのか実感させられました。主人の印税を使い果たし、私が持参したお金も底をついて、明日の食べ物に困るほど困窮したこともあります。主人が考えた窮余の一策が、ブルドーザーによる出稼ぎでした。これで生活を支えたのも今にして思えばよい思い出です。
ポルトガル語に堪能でない私たちが、使用人を使うことの難しさもいやというほど体験しました。雇ったばかりのメイドに大金を盗まれたり、主人も私も好感をもっていた牧童フランシスコが、何人もの人を殺した殺人者だったという恐怖も味わいました。
現在、成田空港を超える広さをもつ小野田牧場には、千八百頭の牛が悠々と草を食んでいます。のどかな風景に見えますが、ここまでくるには、ここに書き表せないほどの苦労もしました。ただ、どんな苦労も耐え忍べたのは、主人がいつも庇護してくれたこと。これがなかったら我慢できずに日本に逃げ帰ったかもしれません。
ある週刊誌のインタビュー記事で、主人が私のことを、「格好の戦友を得た」と言っています。これを知ったとき、私は本当に嬉しかった。何よりのプレゼントであり、私にとっての勲章だと今でも思っています。
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