白洲次郎 略年譜
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1902
(明治35年) |
2月17日、兵庫県芦屋市に生まれる。父文平は絹の貿易で産を成した富豪。「傍若無人な人」だったという。 |
1919
(大正8年) |
神戸一中を卒業。学校では乱暴者、ペイジ・グレンブルックを乗り回す「驕慢」な中学生。まるで「島流し」にされるが如く、英国に渡り、ケンブリッジ大学クレアーカレッジに入学。 |
1925
(大正14年)
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ケンブリッジ大学を卒業。英国ではベントレー、ブガッティを乗り回すオイリーボーイ。七世ストラッフォード伯のロビン・ビングとの終生の交わりを結ぶ。 |
1928
(昭和3年) |
大学院で歴史を学び、学者になろうとしていたが、自家の「白州商店」が倒産したために帰国。 |
1929
(昭和4年) |
樺山正子と出会い、結婚。「ジャパンアドヴァタイザー」という新聞社の記者となる。その後「セール・フレーザー商会」という勝者の取締役に就任。 |
1937
(昭和12年) |
「日本食糧工業」(のちの「日本水産株式会社」)の取締役に就任。一年の大半を外国で暮らす。吉田茂と親しくつきあい、英国大使館が白洲の常宿となる。 |
1940
(昭和15年) |
この頃仕事から退き、日本が戦争に突入すれば食糧不足になることを予見し、鶴川村に土地を求め農業に専念する。一方吉田茂のいわゆる「ヨハンセングループ」の一員といして「昭和の鞍馬天狗」的活躍を始める。 |
1945
(昭和20年) |
吉田茂に請われ「終戦連絡事務局」参与に就任。GHQを向こうにまわし、八面六臂の活躍が始まる。 |
1946
(昭和21年) |
「日本国憲法」誕生の現場に立ち会う。「終戦連絡事務局」次長に就任。 |
1947
(昭和22年) |
「終戦連絡事務局」次長を退任。 |
1948
(昭和23年) |
初代の貿易庁長官に就任。商工省を改組し通産省を誕生させる立案者の中心的存在であった。 |
1951
(昭和26年) |
電力再編成の分割民営をすすめ、東北電力会長に就任。サンフランシスコ講和条約締結の全権委員団に「同行」。 |
1959
(昭和34年) |
東北電力会長を退任。囲碁、荒川水力発電会長、大沢商会会長などを歴任し、大洋漁業、日本テレビの社外役員、「ウォーバーグ」顧問等をつとめる。八十歳の頃までポルシェを乗り回し、軽井沢のゴルフクラブの理事長としてその運営に力を注いだ。 |
1985
(昭和60年) |
11月28日逝去 |
出典:『風の男 白洲次郎』より |