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絲山秋子
(いとやま・あきこ)
1966年東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、住宅設備機器メーカーに入社、2001年まで営業職として勤務。03年『イッツ・オンリー・トーク』で文學界新人賞、04年『袋小路の男』で川端康成文学賞、05年『海の仙人』で芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞。この度、『沖で待つ』で第134回芥川賞を受賞。著書に『ニート』、『スモールトーク』、『逃亡くそたわけ』がある。今もっとも注目を集める気鋭の作家。 |
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『沖で待つ』
文藝春秋
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『ニート』
講角川書店
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『逃亡くそたわけ』
中央公論新社
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『袋小路の男』
講談社
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石川 この度は、第一三四回芥川賞受賞おめでとうございます。
絲山 ありがとうございます。でも、賞をいただいたことで自分が振りまわされてしまうようでは、せっかくの賞の価値がなくなってしまいます。受賞はもう終わったことだと思っています。
石川 受賞作『沖で待つ』は、住宅設備機器メーカーに同期入社した「太っちゃん」と「私=及川」の男女の友情を描いた小説で、太っちゃんの突然の死ののち、生前に交わした約束を及川が果たすという物語です。
絲山 友達と「自分が突然死した時に何が残ったらまずいか」という話をしていた時に、「やっぱりパソコンだろう」という結論になって、そこからこの『沖で待つ』という小説は始まりました。パソコンの中には見られたくないものが入っている人が多いんじゃないか、という前提です。それと、いつか私が勤めていた会社のことを書きたいという思いもあって、うまくこの二つが合致しました。
石川 ご自身の経験を反映した小説を書くのは、覚悟が必要だったのではありませんか。
絲山 なかなか書けなくて大変でした。辞めてからしばらくの間は、会社に対する後ろめたさがありましたし。何かしらの心残りがあったり、私は営業でしたのでお客さんに対して申し訳ない気持ちもありました。今になって、ようやく書くことができたんです。でも、いざ書く時は、会社や特定の業者さんが不利にならないことを心がけました。
石川 この作品の魅力は、同じ職場に勤める男女の友情やメーカーの営業職の何たるかが的確に描写されているところだと思いますが、特筆すべきは、巻頭で私と会話をする太っちゃんは、すでに死んでいるという点です。プロローグとエピローグに死者との対話を用いたのは、どのようなねらいがあったのでしょう。
絲山 読者を惹きつけたかったんです。最初に太っちゃんが死んでいることがわかれば、どうやって死んだか読者は知りたいと思いますよね。日常生活の中で突然太っちゃんは死を迎えるわけですが、その唐突さを弱めるねらいもありました。幽霊を書く以上は、恨めしそうな幽霊を描いても仕方がないので、太っていて、ニコニコしている、ちょっとファニーな幽霊を描いてみました。
石川 太っちゃんは投身自殺の巻き添えで亡くなります。何故このような死因を選択されたのでしょうか。
絲山 予感すらない突然の死が、ハードディスクを壊す約束につながるわけです。病死や自殺では、本人に覚悟が生まれてしまいますし、交通事故では面白くない。私の頭の中では、太っちゃんの大きな体が、ゆっくりと倒れていく映像が浮かんでいたんです。不謹慎かもしれませんが、太っちゃんらしい絵になる死因ですよね。
石川 「私」は深い悲しみにおそわれながらも、約束を守るために行動を起こします。
絲山 人の部屋に押し入って、モノを壊して帰っていく時間を確保するのは、案外と難しいんですよね。そのために太っちゃんは単身赴任中という設定にしました。その辺の状況設定はだいぶ考えました。
石川 ハードディスクの中には太っちゃんの「ポエム」が残されていたのだと読み取りました。
絲山 自宅にはポエムが書かれたノートが残されていましたが、それと同じものがパソコンの中に残っていたと考えてもいいですし、別のものが保存されていたと考えても構いません。ひょっとしたら、太っちゃんが及川のことを好きだったと書いてあったかもしれませんし、暴力的なものが入っていてもいいんです。あの場面で大切なのは、パソコンを立ち上げずにハードディスクを壊す行為なんです。中身を確認してしまっては、二人の友情にひびが入ってしまうわけです。
石川 エピローグでは、再び太っちゃんの部屋のシーンに戻り、彼と思い出を語り合います。二人は最初に赴任した福岡の風景を思い返し、それがまばゆいばかりの、かけがえのない光景として読者に伝わっていきます。
絲山 会社員というのは、慣れてくると仕事のかなりの部分を惰性でできるようになりますよね。だけどゼロだった時の自分を思い出すことは、とても大事なことなんです。及川という女性はゼロだった時に、隣に太っちゃんがいたことを心の支えにしていたんでしょうね。
石川 そして物語は幕を下ろします。不意打ちのように終わることで強い余韻が残りますし、ラスト二行の持つユーモアが逆に哀感を誘います。
絲山 最後に死者が成仏するのは絶対に嫌でした。イメージとしては井伏鱒二さんの『山椒魚』の終わり方を意識しました。あの作品はぶつ切りのように終わりますよね。ああいう魅力が出せたらいいなと考えていました。
石川 『沖で待つ』はとても個性的な文章スタイルですね。
絲山 この『沖で待つ』は『愛なんかいらねー』を書き終えたからできた作品だと思っています。『愛なんかいらねー』がなければ『沖で待つ』は、もっとぼんやりした作品になっていたと思います。
石川 本書には『勤労感謝の日』という短編も収録されています。バブル期に入社し、そしてバブル崩壊を経験して、現在は失業中の女性が主人公です。こちらの作品も、ある時代の側面を写し出しているようです。
絲山 その時代に会社勤めをしていた者として、同世代の方に共感を覚えてもらえると嬉しいですね。また、一緒に働いていた上司や部下には、私たち世代のひとつの像として読んでほしいという思いもあります。
石川 多岐にわたる絲山作品の人物造形についてお聞きしたいと思います。登場人物のほとんどに、履歴というものがありません。人物そのものの存在が世界に屹立しているように感じます。
絲山 私の場合、小説ですべてを書こうとしているわけではありません。人の一生が百あるとしたら、その中の二十五とか四十五とかを切り取って書いています。出生や家族のことを書くと、別の展開への可能性が大きくなっていくし、どんどん書きたいテーマからずれていってしまいます。だから、履歴を考えてもあえて書かない場合が多いです。でも、エンターテインメントを書く時は、考えたことをより多く書くようにしています。
石川 絲山さんの作品には「父親」という役割の人物が、全くといっていいほど登場していません。
絲山 私自身が父親の影響を強く受けているので、父親のことは改めてしっかり書こうと考えています。私は少し、ファザコン気味なのかもしれません(笑)。
石川 絲山さんの作品は長編でも短編でも底辺に無常観というものが漂っているように感じます。意識して書かれているのでしょうか。
絲山 『愛なんかいらねー』で初めて「ヨソモノ」という言葉を使いました。現時点での私の小説はすべて「よそ者」というつもりで書いています。社会のよそ者であるとか、その土地に対するよそ者であるとか。『逃亡くそたわけ』の「なごやん」もそうですし、『海の仙人』や『袋小路の男』なども、みんなよそ者を描いているんですね。そういう部分が、無常観として読みとれるのかもしれません。
石川 絲山さんは、「新刊ニュース」二〇〇五年一月号以来のご登場となりますが、この一年余りで大きく変わられた点はありますか。
絲山 群馬県に仕事場を移したことで、本をたくさん読むようになりました(笑)。
石川 その土地から触発されるものがあるのでしょうか。
絲山 そこに暮らすことで生まれてくるものがあるんですね。二泊三日の取材では何もわかりません。自分の中で白地図になっている地域に「転勤」していくことで、未開の地を開拓していきたいと思っています。
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