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阿部和重(あべ・かずしげ)
1968年山形県生まれ。日本映画学校卒業。94年『アメリカの夜』で群像新人文学賞受賞。97年の『インディヴィジュアル・プロジェクション』は読者の熱狂的支持を集める。新作が大きな注目を持って語られる数少ない作家の一人。他の著書に『ABC戦争』、『無情の世界』(第21回野間文芸新人賞)、エッセイ集『アブストラクトなゆーわく』がある。
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『ニッポニアニッポン』
新潮社
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『アメリカの夜』
講談社
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『インディヴィジュアル・
プロジェクション』
新潮社
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『アブストラクトなゆーわく』
マガジンハウス
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『無情の世界』
講談社
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『公爵夫人邸の午後の
パーティー』
講談社
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『ABC戦争』
講談社
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石川 今回刊行された『ニッポニアニッポン』は非常に楽しんで読ませていただきました。もともとデビュー当初から阿部さんの作品に注目していまして、純文学的な観点からも、エンターテインメントとしても面白いものでした。周囲から動機が不可解とされるような、犯罪者の手記を読んでいるようなそんな感じの読書体験でした。犯罪者というとすぐ「理解不能な者」としてレッテルを貼りたがる傾向が世の中にあるとは思いますが、阿部さんが以前、文芸評論家の渡部直己さんとの対談でおっしゃっていたように「おれの中にこういう部分がないか?」(渡部直己著『現代文学の読み方・書かれ方』河出書房新社 p.192)という立場に立って書かれるようなところに共感を持ちました。
阿部 ありがとうございます。その「犯罪者の立場」というのはそうですね、結果的に僕が書いてきたのは加害者の立場が多いですね、『トライアングルス』が以前芥川賞の候補になったときに池澤夏樹さんがそういうふうに選評で書いてくださったんですけど、主人公がストーカーだったり、『ニッポニアニッポン』も犯罪を起こす側ですね、主人公自身の考えを、例えば帯にも書かれているように「妄想」ってなっていますけど、思考の特異性や狂気を描きたいとは考えていないんです。実際にひとが考えている思考の内容というのは、どんな小説で書かれるよりもずっと緻密なものですよね。一秒の間にもひとはいろんなことを考えるし、常に論理性が保たれているわけでもないし、どんなに冷静でも、様々な感情に左右されたりする。些細なきっかけで突拍子もない発想が生まれたりするのはよくあることだと思うんです。日常的にひとが考えている思考の軌跡にどれだけ迫れるか、そういう意図があって書いていることはありますね。それがたまたま妄想という風に見えたり、犯罪につながっていくということになるんだと思います。
石川 そういうものを描くのに、よく阿部さんは「新しいもの」を使っている、たとえばインターネットがテーマになっている、と言われがちだと思うんです。でもそれは携帯電話やテレビと同じで、わたしたちはごく普通に使っているわけですから、私はそれを当たり前のように道具として表現されている阿部さんの作品はとても頼もしく思っているんです。とりわけネットを描こうとしているわけではないと思うんですが、そんなふうに受け取られたりしませんか?
阿部 いやー、よくそう言っていただけました(笑)。よく取材で言われたり、書評などでもあるんですけど、「なんで阿部和重はいつも新しいものを好んで取り上げて、現代を書いた気になっているの?」という批判はあるんですが、僕はことさらネットや引きこもりやストーカーという問題を書きたいわけではないんです。ネットとかは使っていますけど、それは日常の一コマであり、そういう言葉が既にあるわけですし、それらを無視するのは不自然だと思うんです。ネット依存、引きこもり、ストーカー、メル友、そういった括弧付きの現代的な現象と見られているものを組み合わせて、いかに物語をつくりあげるかが、作家としての僕のひとつの試みではあったんです。それらひとつひとつについては既にほかの方が作品として書かれていますが、すべてまとめあげるというのはなかなか大変なことだと思うんで、僕はその困難にチャレンジにしてみたかった。それらひとつひとつについて描き尽くすことは不可能だし、答えが出るわけではないんですが、それらをいかに組み合わせるかということに重点を置きました。
石川 わたしはまさにそのように読みましたが、この作品には二つのテーマがあるように思いました。ひとつは、これも以前渡部さんとの対談にあったんですが『インディヴィジュアル・プロジェクション』で天皇や右翼の問題についてもっと踏み込んで書きたいとおっしゃっていて、今回はそれを正面から書かれたんだなあと思って、待ちに待った作品という感じでした。
阿部 ええ、僕は有言実行でして(笑)、いずれにしても子供の頃から不思議に思っていた存在ですし、日本に生まれた人ならだれでも天皇は「へーっ」って思う存在ですよね。また、作家にとっては最も魅力的な物語の対象でもあります。『インディ・・・・・・』ではそういう部分をいくらか匂わせることはできたけれども問題自体に迫ることはできなかったんです。それでいずれはそういう小説を書きたいとあのとき約束しているんで、その約束を守ったと言うことだと思うんです。
石川 なるほど。確かにその通りなのですね。既に読まれているでしょうが、渡部さんの反応がとても楽しみです。それと最近アップされたようですが、阿部さんの新作が連載されている「シンセミア」というサイト(http://www.sin-semillas.com/)がありますよね、ご自身によって今回の作品についてずいぶん詳しく書かれていまして、インタビュアーとしては助かったような逆に既に答えが書かれているような気持ちになったんですが(笑)、書名にはトキの学名とは違って『ニッポニアニッポン』とナカグロが無い理由とか、参考になりました。ここであえて同じ質問をするのは野暮なので避けますが(苦笑)、二重写しのニッポンというのはなるほどなあと思いました。
阿部 ははは(笑)、でもあの通りなんです。この作品の中でやっぱり中心になっているのはトキと、ニッポンの名が冠されているということ、そのトキをめぐることがテーマなので、それは言っておきたいことですね。なんでナカグロが無いの? とよく訊かれましたし、インタビューの原稿にも「・」が入ったりしてわざわざ取ったりしましたし。それであのような形で書いたというわけです。
石川 この小説のもうひとつのテーマ、と勝手に私が思っているんですけど、それは「天皇」という大文字のテーマがある一方で、もうひとつはとても個人的で、ある種ロマンティックとも言えるような、少年の恋愛、まあ恋愛と呼べるかどうかはひとによって違うと思いますが、そういった部分が印象的で、とても切ない気持ちになって拝読した部分がありました。
阿部 僕はこの小説で主にやりたかったことは二つありまして、一方ではトキを主題に扱う、トキというのはメタファーになっているわけですが、トキを語りつつ、日本の問題、特に皇室とトキの問題は似ていると思うんです。それを、いわゆる右とか左とかそういった政治言語に拠らないで語りたかった。それがひとつと、同時にいまおっしゃられたような少年と少女の出会いの物語、そこで切なさを感じていただけたのなら、僕としては成功だったと思えるんですけど、今まで僕はそういう話を書いてこなかったんですね。ひとによっては通俗的でベタな展開と思われるかもしれないですが、今回はそういうことを書いておきたかった。これはトキの小説であると同時に「少年期の終わり」の物語なんです。今まで僕は『アメリカの夜』に代表されるような「青春期の物語」を書いてきたわけですね。今まではある共通したタイプの主人公を描いてきましたが、僕も今年で33になりますし(苦笑)、ある程度の経験を積んできたんで、そろそろ「私が私を語る」ような小説に終止符を打っておきたいと考えたんです。それには「少年期の終わり」というような小説がふさわしいのではと。それでああいう、佐渡で少女と出会うという一種ロマンティックなシーンにしたわけです。取材で佐渡にも行ったんですが、非常に切ないイメージにぴったりのところで、賽の河原にも行ってみて、ちょうど夕方で日が落ちたところで、ほんとに地の果てにきているなあというか、これをそのまま出したいなと思って書きました。
石川 『アメリカの夜』の帯にもあったように「自分探し」とよく言われるけど、エッセイ集の『アブストラクトなゆーわく』で書かれていらっしゃるようにそれは「自分探しではなくて欲望探し」なんじゃないかということなんですが、大事な「自分を構成している欲望を見極めること」というのは本当にそうだなあと思いました。
阿部 そうですね、一概にこう言えるかどうかわかりませんけど、小説ではよく「欠如した部分を埋めようとして追い求める」ような話がでてくるような気がしますが、僕の小説の場合は「欠如」ではなくてむしろ「過剰」なんですね。その過剰は欲望に結びつくと思うんですが、欠落からくる欲望ではなくて、既に自己の衝動、中にあるものを表に出していく、そういう方をむしろ僕は描いているように思います。
石川 ネットの話になっちゃいますけど(苦笑)、やはり実在のサイトを参考になさったんでしょうか?
阿部 そうですね、自分ははじめテレビでトキのことを知ったとき、ふつうのひとが知っている程度の一般常識的なことしか知らなかったので、やはりネットを使って調べたりしました。つまり主人公がたどった経緯はそのまま僕がたどった経緯なんですね。そういう意味では僕自身のドキュメンタリーになっている面もあります。
石川 読者はまたそのあとを追体験していくという感じですね。
阿部 そうですね、だからその書かれた記事のサイトに出会えると思いますよ。そういう意味ではこの物語はやはり今でしか書かれ得ない作品だと思いますね。ネットとは切っても切れないし、少年がたったひとりで佐渡の保護センターに乗り込むためにはこういう方法しかないですし、ネットを使えばここまでできるのではないかというわけです。これは今だからこそできる話ですし、インターネットは不可欠な小道具なんです。
石川 これもよく言われていることだと思うんですが、阿部さんのご経歴からしても、これまでの発言からしても映画を撮りたいと思われているとのことなんですが、ご自身の小説と映画化などに関してはどのように考えてらっしゃるんでしょうか。たとえば脚本として書いてみたいと思われたりしますか?
阿部 ええ、よく訊かれるんですけど、自分の書いた小説はやはり映画とは別ですね。どなたかが映画化してくださると言えばそれは嬉しいことですが、自分でやろうとは思って書いているわけではないです。むしろ映画にはできない部分を小説でやっているようなところがありますから。今連載している『シンセミア』などはそうですね。
石川 ええ、そうですね、私も読んでいると、映画に多大な影響を受けてこられた方という感じは露骨にはせず、むしろ小説ならではの小説だなと思います。思考の過程を読むのがとても面白いです。
阿部 そういっていただけるととても嬉しいですね。僕は「構築していく」という作業が好きなんでしょうね。物語をつくるというのが前提ですね。情感を描くというタイプの小説ではなく、まず場所があって、人がいて、そのまわりにものがあってそれらがどのように関わり合っていくのか、そういうことを頭に思い浮かべてそれを言語化していくような作業を書いていますね。
石川 わりといつもラストは視点をずらされて書かれていると思うんですが、今回の作品もそうですよね。
阿部 今回は特にその点が重要でして、主人公の結末だけではなくて別の結末というのを見せておかないと先には進めないなと思いました。今回はハッピーエンドなんですよ。彼は後戻りのできない地点まできてしまった。これがまさに彼にとっても少年期の終わりなんですね。ただ主人公が今後一生知り得ないような場所で、彼のしたことによって、別のひとになにか影響を与えているんだ、そういうことを最後に見せておきたかったんですね。安易な結末と思う人がいるかもしれないですけど、現実的に僕はそのようなかたちで世界は動いていると思うんです。関係のない者同士が影響しあっている、それは小説を書いている僕自身がそうなので、まったく顔の見えない読者に向けて自分の言葉を発信しているわけですが、それが意図しないところで何か新しい出来事のきっかけになってくれればいいなと願っています。それは言葉とか感想とかだけでなくて、行動や違う何かで出てくると面白いなと思っています。
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