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Interview インタビュー 『椿山課長の七日間』の浅田次郎さん
インタビュアー 鈴木 健次(大正大学教授)

浅田 次郎
(あさだ・じろう)
1951年東京都生まれ。中大杉並高校卒業。自衛隊員、ブティック経営などさまざまな職業を経て作家に。95年『地下鉄(メトロ)に乗って』で吉川英治文学新人賞を受賞、97年『鉄道員』で第117回直木賞を受賞。同作品は大ベストセラーになる。歴史小説から人情小説、ピカレスク小説まで幅広く執筆するエンターテインメント作家の第一人者。『蒼穹の昴』、『プリズンホテル』シリーズ、『壬生義士伝』(柴田錬三郎賞)、『きんぴか』等著書多数。




『椿山課長の七日間』
朝日新聞社



『壬生義士伝 上』
文春文庫



『壬生義士伝 下』
文春文庫



『鉄道員』
集英社文庫



『蒼穹の昴 上』
講談社



『蒼穹の昴 下』
講談社




 
鈴木 浅田さんの作品は口当たりがいい、なんて言うと失礼かもしれないけれど、巧さに引きずられて気持ちよく読んじゃって、改めて小難しい質問なんてしたくなくなります。
浅田 口当たりがよいというのは、僕には一番うれしい言葉なんですよ。というのは、僕は自分で小説を書くに当たって、わかりやすい、読みやすいというのを一番の目標にしているんです。小説ってそういうものじゃなければいけないと思っています。近代になって文学が妙にひとり歩きをして、わかる人間にだけわかればよい、みたいなことになった。非大衆化したものが純粋な文学であるともてはやされる妙な傾向がありまして、これは本来の姿ではない。本当にいいものは最も普遍的な理解者を得られるものであると僕は思うので、自分で小説を書くときには、難しいことをいかに簡単に書くかということを心がけているつもりなんです。『椿山課長の七日間』という本も、実はこの中にはそれぞれの登場人物の苦悩、社会全体の苦悩、ありとあらゆる苦悩をぎゅうぎゅうに詰め込んであるんですが、それをいかにコンパクトにして、その苦悩をそれぞれの人が理解し、解決していくかというわかりやすい小説を目指した。まあ、ある程度はうまく書けたかなと思っております。
鈴木 椿山課長は四十代半ばで大手百貨店のやり手社員、かつて自分が仕事を教えた有名大学出身の後輩が部長に収まっているけれど、高卒で婦人服売り場という花形職場の課長は悪いポストではない。バーゲンセールという年間の売り上げを左右する勝負時に向けてがむしゃらに働いてから、脳溢血で倒れ、あの世の中陰に逝ってしまう。中陰は極楽へ行くか地獄へ行くか、審判の場ですね。そこで椿山課長は邪淫の罪を宣告されるけれども、思い当たる節がない。それに家族のこと、職場のこと、いろいろ思い残すことがあるので七日間だけこの世に帰してもらうことになる。見たこともない中陰の世界が意外にリアリティがあるんですけれど、こんな奇想天外な発想はどうやって生まれるんですか。
浅田 僕は小説の骨格を考えた時に、誰も見たことのない冥途をどう書くか考えたんですよ。それを陰々滅々たるものに書いたら小説は最初から台無しだなと思うし、それで二つモデルを思いついたんです。一つは成田空港です。空港の出発ロビーはいろんなところに飛行機で飛んでいきますからね(笑)。それに成田空港というのは何度行っても、なにか現世からちょっと離れた感じがする。日本であって日本でないみたいなところがありますから。
鈴木 しかも天空へ飛び立つわけですからね。
浅田 ええ、これは面白いなと思ったんです。が、ちょっと待てよ、生き死ににかかわる問題で飛行機はまずかろうという……。
鈴木 出版が9・11前後ですものね。
浅田 そうそう。それで次に考えたのが府中の運転免許試験場なんです。ちょうどこの連載を始める前の年でしたが、私は誕生日が十二月なもので、いつも免許の書きかえが慌ただしい最中なんです。あっ、いけない、免許の書きかえに行かなくっちゃって府中の試験場まで行ったところが、一年間違えていた(笑)。何でこのクソ忙しい時に無駄足を踏んでしまったんだとすごく悔しい思いをしたときに、ふと考えたんです。待てよ、この騒々しさ、この混雑、この何だか知らないけれども順路に従って行かなければならない場所を冥途にしたら、さぞかし面白かろうと。多分成田空港よりも運転免許の試験場に行っている人の方が数は多いと思う。そういう点から見てもこっちの方が普遍性があるなと思ったのです。それで人間、誰もが行く運転免許試験場というのをつくってみたんですけどね。
鈴木 私はたまたまこの小説を読む直前にカナダとアメリカの間を車で移動して、入国審査ゲートを通過しました。車が延々と連なっていて、今は審査が厳重ですから、何台かに一台は測道へ誘導されてトランクの荷物まで全部開けて調べられる。何となくそんな光景を思い浮かべて読みましたが、浅田さんの中陰も審査にコンピュータなんか使って、なかなか現代的かつお役所的です。
浅田 本当に小説家はくだらないことを考えるんですけれど、たくさんの人が死んでいくのに、いちいち閻魔大王が出てきて善か悪かというのは物理的にもありえない(笑)。これだけたくさんの人間を裁きにかけるためには、ボタン一つでごまかす方法というのが現実的なんじゃないかと思って、ボタンさえ押せば罪は許されるということにしちゃったんです。でも、そういう仕組みであればあるほど、中には強情な椿山君のように、待て、俺はそんなことしていない、と言い張る人間もいるんじゃないか。
鈴木 それにしても椿山課長の抗議が認められて現世に戻るのに、美女の姿で戻るというのも奇想天外ですね。
浅田 これはどうして思いついたんだったかな。まあ、結局、生きていた時の姿のまま帰ってきたら、これはただの幽霊ということになる。そんな話はいくらでもあると思ったんです。もしも冥途の好意によって戻ってくるとしたら、まさか現世の人々を怖がらせるような幽霊の姿では帰さないと思うんですよ。だから正反対の人格というのを考えたんですね。
鈴木 人間はどうしても自分中心にものを考えますから、自分がいなくなったら世の中は終わりとか、混乱するとか、思い上がった考えをしやすいですね。働き盛りの椿山課長など、とくにそうでしょう。ところが別人になってこの世に帰ってみると、奥さんは以前から関係のあった自分の部下と早速いいあんばいにやっているし、会社は会社でちゃんと売り上げ目標も達成している。
浅田 僕がこれを書き始めた動機というのも、父と母をたて続けに亡くしましてね、その時に感じたのは、この人たちがいなくなっても世の中はなに食わぬ顔で動いているということでした。僕は、いわゆる無常とはそういうことじゃないかと、ふと思ったんです。仮にそれが自分であったとしても、自分が死んだ後、世界は破滅するわけではない。私が生きようが死のうが、世界はそのまま変わらず流れていく。それでまあ、こんな小説になったんです。最初にちょっとしか出てこないおばあさんは、これを書く動機になった私の母なんですよ。
鈴木 無審査で天国に行ったあのおばあさん?
浅田 そう、あれは戒名もそのまま、戒名による実名登場です。あそこを書いたときには、小説家っていいなと思いました。うちのおふくろは余り僕の小説を褒めてくれなくてね、直木賞をとった後でも原稿を書いていると、もういいかげんにして寝なさいよ(笑)、なんて言っていたぐらいなんですけれど、何かあんなかたちで供養ができたので、小説家になってよかったなと思いました。供養になったかどうかは知らないけれど、自分の心の中でちょっと納得できた。おふくろはああいうふうにして成仏したんだろうなと自分で思うことができたのは、個人的な収穫でした。
鈴木 それにしても、ご両親を亡くされた時期に、こういうユーモアをたたえたものを書くのはたいへんじゃないですか。
浅田 父親と母親が亡くなったときに自分が何をしていたかを考えると、小説家は因果な仕事ですよ。僕はちょうど母親が亡くなったとき、二つの連載を抱えていたんですけれど、二つともお笑いだったんです。これはつらい。毎日ギャグを考えなきゃならなくて、もう笑顔なんかしていられないですよ。親に死なれて落ち込んでいて、それでもギャグを書かなきゃならない。申しわけない、申しわけないと思いながらギャグを書いたんですけれど、まあ、その埋め合わせもありまして、小説の中で母親を真っ先に極楽に送ったわけです。
鈴木 椿山課長が女性の姿になって身に覚えのない邪淫の罪を調べにいくと、入社以来つきあっていた同期の女性が、実は自分に無償の愛を捧げていたことを知る。課長の父親だけがそのことを知って、自分も家族に無償の愛の行為を続けていたこともわかる。そして椿山課長自身も自分の息子だと思っていた子どもが、実は妻と自分の部下との間に生まれた子だったことがわかりながら、その子を自分の子として愛しつづけることができて中陰に帰ってくる。「無償の愛」はキーワードですね。
浅田 自分が椿山課長の立場だったらどうだろうと考えたとき、今まで自分の本当の息子だと思って育ててきた子が実は違っていたと知って、それでもやっぱり愛しているんだったら、愛するということは無私であると思うんです。自分が愛されたいと思うのではなく、相手を愛したいという気持ち、相手の幸福を願う気持ちが真実の愛だと思う。だからあれは父親としては正しい姿だと思うんですよ。彼をそういう気持ちにさせたのは佐伯さんという無償の愛を抱きつづけた女性がいたからで、それに啓発されて彼はそういう気持ちになることができた。決して独立した話ではないんです。この小説にはいろんな苦悩がごちゃまぜに入っていますけれど、その苦悩が全部連鎖するように書いているつもりです。世の中そうじゃないですかね。自分一人で苦労しているとか、自分一人で悟ったとかいっても、そんなはずはない。必ず誰かに啓発され、誰かを啓発しながら生きている。案外人間の世界には、自分では気がつかないけれど、そういう啓発の連鎖というのがあるんじゃないかなと思うんですね。
鈴木 いい話ですね。
浅田 出来不出来はよくわかりません。自分の書いた小説は全部自分の子どもみたいなものですから、どの子がかわいいかということも答えられません。僕は数は書いていますけれど、どの小説にも誠実に向き合ってきたという自信はあります。ですから一人でも多くの人に読んでほしいと思っています。今の世の中、本を読む人が少なくなったのは現実ですけれど、これは別に小説がつまらなくなったわけでもないし、小説を読む絶対人口が減ったわけでもない。ほかにやることがたくさんあるというだけのことですね。昔は電車に乗れば本を開いたけれど、今はみんな携帯でメールを打っている。家に帰ればテレビを見なければならない、そういう世の中になっています。ただ、活字から離れると人間は退行すると僕は信じています。これは単純に情報量の問題で、少ない情報で満足しちゃうと人間は退行する。だから、できるだけ多くの活字を全人類に読んでほしいと思うし、またそのための旗手としてやっていかなければならないのが小説家だと思います。面白くてためになる小説を少しでも多く提供していくのが、自分の務めだと信じております。
(9月17日 東京・築地の朝日新聞社にて)

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