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ドナルド・キーン
1922年ニューヨーク生まれ。コロンビア大学、同大学院、ケンブリッジ大学を経て、53年に京都大学大学院に留学。現在コロンビア大学名誉教授、アメリカ・アカデミー会員、日本学士院客員。日本文学、日本文化の研究とその海外への紹介に対し、勲二等旭日重光章、菊池寛賞、読売文学賞、日本文学大賞など受賞。『日本人の美意識』『日本文学の歴史』『百代の過客』など著書多数。 |
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『明治天皇』上
新潮社
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『明治天皇』下
新潮社
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『百代の過客』上
朝日新聞社
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『百代の過客』下
朝日新聞社
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『古典の愉しみ』
宝島社文庫
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『日本語の美』
中公文庫
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鈴木 日程を変更させていただいたりしてすみませんでした。なにしろ大著なもので。
キーン よくわかります。私、本を出すために何本もの木を倒している(笑)。
鈴木 売れ行きがよいそうで、さらに木が伐られるでしょう(笑)。でも、この本で江戸時代末から明治への流れが、人間の行動や感情を通して理解できました。いま大学院の学生と万延元年の遣米使節の日記や関連のアメリカの新聞記事を読んでいますが、使節を送り出した同じ年に、幕府は攘夷を天皇に約束しているんですね。実にきわどい時代ですね。
キーン 本当にそうです。ペリーが来たときからずっとそうでした。私、文学をやってまいりましたが、歴史の本を書きましたら、歴史は文学よりも面白い(笑)。
鈴木 でも今度のお仕事も文学研究と全く違うわけではなく、大状況は歴史ですが。
キーン やはり人間への興味ですね。ただ明治天皇自身が書いたものは短歌しかない。
鈴木 私の家にも明治天皇と昭憲皇太后の御製集があって、和綴じの本が二冊、一つの帙に入っていました。和歌以外は本当に何も残っていないのでしょうか。
キーン ちょっとわからないです。私、探してみましたが、明治天皇の場合、まだ関係者の子孫が生きているから見せられないと…。
鈴木 ということは、あるということですか。
キーン まあ、あるんでしょう。しかし、どんなものかは全然わからない。『明治天皇紀』の編纂をやった人たちは、あらゆるものを見たと思います。もし何か歴史的な重要な価値ある文献がありますと、きっと出ているはずです。あとは、まあせいぜい誰かの悪口(笑)、そんなものくらいではないですか。
鈴木 『明治天皇紀』はいつお読みになったんですか。『日本文学の歴史』を書き終えられたとき、新聞に「ライフワークの後で」という文章を発表されていますが、そこにはまだ明治天皇のことは出てきませんが…。
キーン 十年くらい前です。ライフワークを終えてから何もすることがなくなってしまった。何かもう一つのライフワークが必要だと思いました。誰かの伝記を書こうと考えてはいたんですが、誰にするかは決めていませんでした。その時点で古本屋の目録に『明治天皇紀』が載っていたんです。私、早速買いました。十三冊の大きな箱入りの本が届きました。『日本文学の歴史』の校正が終わって、ついに自分の時間ができたと思ったとき、『明治天皇紀』の第一ページを読みました。全部で一万ページ以上ありますが、もちろん全部読みました。本当にいい本ですよ。『明治天皇紀』がなかったら書けなかったでしょう。非常に詳しい資料です。読み物としては最低ですけれど(笑)。
鈴木 読むだけでも大変なのに、キーンさんの本も大きな本で上下二巻、千二百頁近くあります。まずそのエネルギーに驚きました。
キーン でも大変というより、楽しみながら書きました。明治時代にはいろんな面白い変化がある。それに錦絵も好きでした。明治時代の錦絵は私が日本に来たころは非常に安くて、古本屋で売っていた。画廊で売るものではなかったです。明治時代には新しい現象が燃えるような力で出てきたんです。そういう時代に私は興味がありました。しかし私はもともと文学者で歴史家ではない。でも時代全体を書くのではなく、誰か一人のことを書くことならできるだろうと思いました。文学には伝記という部門がありますから。そして誰かを書くなら、やっぱり明治天皇がいいと思うようになりました。
鈴木 明治天皇はびっくりするほど開明的だと思うとやっぱり保守的なところがあり、勤勉だと思うと何もしなくなったり、なかなかとらえにくい不思議な人ですね。
キーン 本当に不思議な人です。孝明天皇は特別ですけれども、その前の徳川時代の天皇たちはほとんど個性がない。何をやったか誰も覚えてないです。毎年元旦に四方拝をやる、決まった儀式をやるだけで、それ以外何もすることはありませんでした。明治天皇はそれに満足できなくて、場合によっては退屈した。毎年毎年同じことをするのを無意味だと思ってやらなくなったんです。新しい方面に向かっていったと私は思います。新しいから嫌だということはなかったのです。髪も切ったし洋服も着た。当時の旦那さんは奥さんの洋装を喜ばなかったのが普通ですけれど、明治天皇は一向に問題にしなかった。皇后は皇后でむしろ着物は外国のもので、かえって洋服の方が日本的だという論法でずっと洋服を着た。それでも明治天皇は何も言わなかったようです。
鈴木 でも、モダンな人かというと、違う面もありますね、教育観とか趣味とか。
キーン そうです。保守的な面もあります。美術の場合ははっきりしています。展覧会に行って、どうして人々は日本画のよさを認めていないのかと言いましたし、謡曲も大好きでした。趣味は日本的だったのです。食べ物も日本食の方が好きでした。もっとはっきり言えば京都の食べ物が好きで、海魚など東京の人たちが喜ぶようなものはあまり食べなかった。
鈴木 スポーツは相撲、文学は和歌、そういう意味では伝統主義者ですね。
キーン けれども一方では蓄音機が好きで、レコードで軍歌を聴いていた。晩年には映画を見て大変喜んでいました。
鈴木 政治面では、象徴ではないと思います。重要な局面局面ではっきりした意見を言いましたが、でも独裁者的ではありませんね。
キーン 本当にそうです。そして個人崇拝というような面も全くありません。
鈴木 銅像も建てさせないし、コインにもなっていませんね。
キーン そうです。お札にもないでしょう。ヨーロッパではどんな小さい国でも、即位するとすぐ新しい切手をつくったりしてますからね。
鈴木 写真も撮らせなかったんですか。
キーン 二十歳前後のものだけで、あとは全く撮らせなかったです。
鈴木 私たちが拝んでいた御真影がキヨソネのスケッチが原画とは知りませんでした。御真影を焼いて自殺した校長先生もいたのに。
キーン 本当に気の毒でした、外国人のスケッチでね。そのかわり錦絵にはしょっちゅう天皇が出ていました。どうしてそれを認めたかというと、似ていないからです。
鈴木 生活が質素だったのも意外でした。軍服なんかも新調することを許さず、古いのを平気で着つづけ、観艦式に着慣れた陸軍の軍服で行って海軍の軍人を失望させたとか…。
キーン そうです。ぜいたくが嫌いだった。靴を修理すると新しい靴を買うより高くつくと聞いても、いや、古いものを捨ててはいけないと直させている。軍服にも継ぎが当たっていました。日露戦争で広島に参謀本部を移したとき、何の飾りもないような部屋にいまして、もう少しきれいにしましょうかと言われると、いやいや、第一線の軍人はもっとひどいところで我慢していると断ったり、女性がいないとご不自由でしょうと言われると、いや、前線の兵士に妻はついていないとか、すごい人でした。当時、有力な皇帝は三人いました。ロシア皇帝とドイツ皇帝とイギリスの皇帝(これは女性でしたが)、ロシアとドイツの皇帝は本当に恐ろしい人物でした。自己顕示欲が強くて、自分の好き嫌いであらゆることをやった。軍について何の予備知識もないような人を軍人の最高位につけたりしたんです。ヴィクトリア女王だって、自分の大事な主人をなくしたからと六年間も国会に出なかった。そういうわがままなことは明治天皇にはないですね。自分の意見を聞かずに予定を決められたりするとキッとなることはあったようですが。例えば神武天皇の御陵の近くで演習があって参詣の予定を加えられたときなど、別なときにすると拒否しています。行こうと思っていたかもしれませんが、人が決めた場合は嫌だと言う。
鈴木 自分で決めたいという面もありますが、よく人の話を聞いていますね。発言する人というよりも聞く人という感じです。
キーン そう、とくに憲法公布の準備していたときは毎回毎回会議に出ていました。一言も言いませんでしたが、そこに天皇がいるということだけで会議に違う意味があったのです。重臣たちは居眠りすることもできなかったし、みんな緊張して会議を進めたと思います。会議の内容は場合によっては全然面白くなかったでしょうが、それでも明治天皇はずっとそこにいました。偉いと思います。他の同時代の皇帝にはあり得なかったことです。
鈴木 印象に残ったのは、日清戦争の時も日露戦争の時も決して積極的な戦争開始論者でなく、日本が勝っても喜びを見せていないことです。御歌会始めの題も戦勝にかかわるようなものは拒否し、御製では勝利ではなく戦死者に対する気持ちを歌った。
キーン 自分の目でほとんど戦争を見ていないのに珍しいと思います。アメリカのグラント大統領は反戦主義者でしたが…。
鈴木 グラントは南北戦争で徹底的な壊滅作戦をやった張本人で、自分が命じた作戦の悲惨な現実を目の当たりにしましたからね。
キーン その後、本当に戦争を嫌がってました。外国で演習にも絶対行きたくないとか、戦争の絵を見てもムカムカするとか、彼は戦争とはどんなものか身をもって知っているんです。しかし、明治天皇はそういう体験がなくても同じように戦争に否定的だった。日清戦争が始まったときには、戦争を起こしたくないとか、やめてくれと言って怒っている。そして戦争が終わるやいなや、中国との伝統的そして友好的な関係を再開したいと使節を送った。これも珍しいことです。大抵の君主は、ざまあみろとか相手が悪かったためにこういうことになったと思うのに。偉い人だったと思います。
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