トップWeb版新刊ニューストップ
Interview インタビュー 『明治天皇』(上・下)の ドナルド・キーンさん <後編>
インタビュアー  鈴木健次

ドナルド・キーン
1922年ニューヨーク生まれ。コロンビア大学、同大学院、ケンブリッジ大学を経て、53年に京都大学大学院に留学。現在コロンビア大学名誉教授、アメリカ・アカデミー会員、日本学士院客員。日本文学、日本文化の研究とその海外への紹介に対し、勲二等旭日重光章、菊池寛賞、読売文学賞、日本文学大賞など受賞。『日本人の美意識』『日本文学の歴史』『百代の過客』など著書多数。




『明治天皇』上
新潮社




『明治天皇』下
新潮社




『日本文学の歴史』
全18巻

中央公論新社




『能・文楽・歌舞伎』
講談社学術文庫




『日本人の美意識』
中公文庫




『日本語の美』
中公文庫












鈴木 キーンさんの本を読んですぐ思い出したのは、ウイリアム・エリオット・グリフィスの『ミカド』です。あれは1910年代の出版ですから1世紀近くたっていますが、おそらくその間、外国の方による明治天皇論は出ていないんじゃないでしょうか。
キーン まったくありません。本当に。不思議ですね。私は明治天皇の伝記を書こうと思ったとき、初めは日本人のためとは思っていませんでした。日本人以外の人に明治というスリリングな時代のことを、もっと知ってほしいと思っていただけなんです。
鈴木 英語版はまだ出ていないんですか。
キーン 2002年の2月に出ます。
鈴木 外国の人にも読んでもらいたいです。現代の日本を理解してもらうためにも、とてもいい本だと思います。これを読むと日本人の私たちでも、この国はよくあの時代に欧米諸国に押しつぶされずに先進国の仲間入りができたと思います。ものすごいスピードで自己変革をしています。
キーン それは本当に日本人の努力のたまものです。初めはすべての外国が、日本は遅れているから信用できないと考えていました。しかし、日本は結構法律がきちんとしているし、対等につき合ってもいいと次第に思うようになった。イギリスだけが条約改正に最後まで反対しましたけれど、そのイギリスと日本は日英同盟を結ぶまでになるんですから、それ程のすごい変化があったわけです。
鈴木 明治9年に木戸孝允が建白書に「政府は人民のために設ける所にして、人民は政府の使役に供するものにあらず」と書いているのに驚きました。アメリカの『独立宣言』に、政府は人民が自分たちの権利を守るために作るものだ、とあるのによく似ています。福沢諭吉は『西洋事情』のなかで『独立宣言』を見事な日本語に訳していますが、この部分だけはよくわからなかったのか、「政府たらんものはその臣民に満足を得せしめ、初めて真に権威あるというべし」と、いささか曖昧な訳し方をしています。『西洋事情』は慶応2年の刊行ですが、彼は万延元年に咸臨丸でアメリカに行ったときにも、アメリカ人が誰もワシントンの子孫がどうなっているか知らないという事実にびっくりしています。福沢のような人でさえ、当時はまだ共和制とか主権在民ということが十分わかっていなかったのでしょう。それが10年あまりですっかり変わる。
キーン そう、すごい時代です。わずかな間で随分変化がありました。孝明天皇の時代にはもちろん誰もそんなことを言っていなかったし、言えなかった。攘夷主義が盛んだったから、武士たちのほとんどが攘夷主義でした。
鈴木 攘夷を、幕府を倒す手段として利用した人もいたと思いますが…。
キーン それはそうです。しかし、孝明天皇の場合は本物の攘夷ですね。一人の外国人がいても、それは日本の神々に対する冒涜だと思っていました。全然妥協することはなかった。孝明天皇は一度も外国人を見たことがないんです。しかし明治天皇は即位するとすぐ外国人に会っています。顔も見せた。外国人が顔をスケッチしています。初めはまだ眉を剃って、にせ眉をかき、口紅をつけ、おしろいを塗ったりしていたのです。外国人はそれを見て全く不思議な存在だと思っていました。しかし、日本人もだんだん天皇像を変える必要を感じはじめます。天皇の最初の写真は昔風の装束で烏帽子です。大久保利通とか伊藤博文がワシントンから帰ってきて、天皇の写真がどうしても必要だと主張しましたが、出来た写真は余りにも古風で、日本はまだ現代国家ではないという印象を与えたために、これでは外国人に見せられないと新しい写真を発注した。次の写真で天皇は散髪して、肋骨型の縫い取りがある軍服姿です。これなら外国人に見せてもよろしいということになった。
鈴木 キーンさんの本を読むと、孝明天皇の時代にはたびたび陰陽師が出てきて、何をするのに今日は日が悪いとか、天皇の結婚相手の年がよくないから一年後に生まれたことにしようとか、あらゆることに口出ししている。それが、明治天皇になると、元旦の四方拝までやらなくなるんですからね。
キーン 不思議なほどの変化の時代でした。極端な例ですが、明治天皇は星亨という男を評価していました。彼は日本の社会の最下層の出身です。武士階級にも属していなかったし、町人でもなかった。姉は売春婦だった。そういう人が偉くなることは、以前には絶対にありえないことでした。ああいう人は新しい日本を象徴しています。
鈴木 しかしその一方で、明治天皇は華族制度ができるとき、旧公家や旧大名だけでなく薩長などの維新の元勲を加えることに抵抗していますね。これは身分的な感覚なのか、それとも経済的に困窮してきた旧公家などにたいする責任感なのか。
キーン もう一つ忘れてはいけないことは、明治天皇が京都人だったことです。京都人として、薩長の人たちを田舎者だと思っていたに違いない。初めのうちはそういう反感があったでしょう。田舎者の言葉はきれいじゃないとか、態度とか身のこなし方が宮廷で育った明治天皇にとっては卑しいものに見えたとか。しかし、だんだん彼らのよさを知るようになったと思います。それにしても京都人としての明治天皇は十分に研究されていません。あのころ録音がなかったのは残念です。明治天皇がどういう言葉遣いだったかわからない。御所言葉だったのか、それとも京都弁だったのか、誰もそれを書いていないんです。食べ物は完全に京都風でした。海の魚を嫌って川魚しか食べなかった。刺身が嫌いだった。京都人は刺身を余り食べなかったからでしょう。そして京都の古いものを何でも覚えていた。こういう窓はこうであるべきだとか、子供のころにここでこういうことをしたとか。京都の公家を守る義務も感じていたでしょう。
鈴木 キーンさんは、明治天皇はコチコチの神道主義者ではなかったけれど、祖先崇拝の心を自然に持っていた人で、それが天皇の身の処し方とかいろいろな面に大きな影響を与えていたと書いていらっしゃいますね。祖先崇拝に関して先ほど引き合いに出したグリフィスは、日本は近代化したけれども、まだ本当の文明国にはなっていない。だから祖先崇拝という思想を中国から借りて、それを国民を統一するために政治的に利用していると書いています。日本の歴史が神武天皇から始まったとか、万世一系とかはフィクションで、日本はもっとそういう点で開明的にならなければいけないと言う。これは、日本の古い民俗を好み、日本がそれを捨てて近代化することに寂しさを感じていたラフカディオ・ハーンのような人とはまるで違います。キーンさんは、グリフィスとハーンの日本観についてどうお考えになりますか。
キーン グリフィスは英国の外交官のアストンとだいたい同じ時代の人でした。私の『日本文学の歴史』の前に、英米人の書いた日本の文学はアストンの本しかなかったです。それは1898年に出ました。そして、アストンの本は最後のところで、「未来の日本文学はきっとキリスト教の強い影響のもとで書かれるだろう」と予言しています。彼はそう信じたかったのでしょう。グリフィスも同じようにキリスト教を信じていたし、日本人も深く愛していました。だから、日本人に一つだけ欠点があるとすれば、それはキリスト教を信じていないことだと思っていました。明治天皇を非常に優れた人物だと思っていましたが、彼は神様ではないし、また神々の子孫でもないと考えていたと思います。
鈴木 お雇い外人として、そんな前近代的なことを信じている日本人を啓発しようという使命感があったように思います。
キーン そうです。グリフィスもアストンと同じようにね。アストンは今までの日本文学はキリスト教の影響は全くないけれども、当然これから大きくそれが出てくるだろうと書きました。その点で彼は間違っていました。一方、ハーンのような人は、日本人が大人になることを喜ばなかった。子供のときはとても親切で、純粋で、目が澄んでいるけれど、大人になってから口論が好きになり、武器を使い始める、と残念に思っていました。彼は父親がアイルランド人、母親がギリシア人で、祖国らしい祖国がないのです。日本に来てやっと自分の場を見つけました。ハーンが日本に来るまでに書いたものを少し読んだことがありますが、ひどいものです。文学的な価値はまったくありません。しかし、日本に着いてから初めて自分の言葉を見つけたと言えるでしょう。そして彼の書いたものは英米だけじゃなくて、ヨーロッパ全体に訳されました。私の尊敬するフランス人の学者、ベルナール・フランクさんに、どうして日本に興味を持ちましたかと聞いたら、ハーンを読んだからだと私に言いました。そういうこともありますから、ハーンの価値は認めています。しかし、私は正直言ってハーンを信用しません。彼はチェンバレン宛の手紙に「夕べごちそうに呼ばれたけれど、相客に日本人がいると知って断った」などとひどいことを書いています。日本の美しさを書き、日本の怪談とかそういうもので生活しながら、一方では自分の仲間に本当は日本人を軽蔑しているようなことを言う人は、私は尊敬できません。グリフィスは本当に日本に対する愛着が強かった。表裏はなくて、それは彼の本音でした。彼は福井に着いたとき、家の設備がひどくて帰ろうとしたら、福井の市民たちが人間の鎖をつくって彼を止めたのです。それを見てかれは福井にとどまったのです。
鈴木 福井を愛するようになって、福井のことを『ミカド』にも書いていますね。キーンさんのお話はキーンさんと日本の関係に重なります。この本にも、キーンさんの日本への思いがこもっていると感じました。
キーン 私はこの伝記を本当に楽しんで書きました。調べていくうちに知らなかったいろんなことも出てきましたし、本当に楽しかった。日本への思いが現れてもおかしくないと思います。                         
(11月20日取材)

Copyright©2000 TOHAN CORPORATION