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Interview インタビュー 『二十三の戦争短編小説』の 古山 高麗雄 さん
インタビュアー  鈴木健次

古山 高麗雄(ふるやま・こまお)
1920年朝鮮・新義州生まれ。三高中退。42年召集され南方を転戦しラオスで終戦。BC級戦犯容疑で収監後、復員。50年河出書房入社。67年「季刊藝術」編集長。70年「プレオー8の夜明け」で芥川賞、72年「小さな市街図」で芸術選奨新人賞、94年「セミの追憶」で川端賞をそれぞれ受賞。99年には「フーコン戦記」を刊行し「断作戦」「龍陵会戦」につづく三部作が完結し、2000年菊池寛賞を受賞する。




『二十三の戦争短編小説』
文藝春秋




『フーコン戦記』
文藝春秋




『プレオー8の夜明け』
講談社文芸文庫




『反時代的、反教養的、
反叙情的』
べスト新書


鈴木 巻頭の『墓地で』が一九六九年の発表で、最後の『真吾の恋人』九五年、実に四半世紀以上にわたる作品を集大成されたんですね。
古山 昭和四十四年、四十九歳のとき、江藤淳に「書け、書け」と言われて初めて小説を書いたんです。
鈴木 『季刊芸術』編集長時代ですね。
古山 あの雑誌はもともと遠山一行がお金を出して、文芸評論家の江藤淳、美術評論家の高階秀爾、音楽が遠山で、日本の批評を高めようという気持ちで、ジャンルに固執しないで文学者も音楽のことを語ればいいし、音楽家も美術のことを語ればいいということで始めたんです。講談社の野間省一さんにそういう雑誌をつくりたいのでお力を貸していただきたいといったら、「設計図だけじゃ家は建たぬよ。大工が必要なんだよ」と言われ、その大工に僕が引っ張られたわけです。
鈴木 『月山』を認めて森敦を世に送り出すなど、作家・古山高麗雄さんの前に編集者・古山高麗雄さんがあり、ご自分まで発掘されたと思っていたんですが。
古山 僕は妻子を飢えさせても芸術に邁進するなんという気持ちは全然ありませんでね、まず家族を食わせるのが先だという気持ちでいたんです。芝居をやるにしたって役者と演出家がいる。みんなが手をたたいてくれるのは役者にだけれども、うまくいった時の喜びはどっちが大きいかわからないんでね、「俺は編集者で一生を終えればいいよ」って言ってた。そうしたら江藤淳が、こいつにちょっと書かせたらどんなものを書くか見てやろうと思ったんでしょう。「そんなこと言わないで、書けよお、書けよお。小島信夫さんもそう言ってるよ。古山さん、どうして小説を書かないんだって」と、やあやあ言うんですよ。たまたま円地文子さんが原稿を一回延ばしてくれって締め切り間際に言ってきたんで、まいったなあ、雑誌が薄くなっちゃう、じゃあこの際、江藤さんが勧めるから書いてみようかと会社の宿直室に一週間ばかり泊り込みまして、昼間は編集の仕事をやって夜そこで書いたのが『墓地で』なんです。それを持って江藤のところへ行って、「お手盛りで古山が変な小説を載っけたといわれたら雑誌の名折れになる、八百長なしに厳正に批評してくれ」と言ったら、江藤は「プロの批評家が八百長なんかするわけねえよ」と言って読んで、「あっ、これはいいです。ぜひ載せてください」と言った。「本当ですね。載せても『季刊藝術』に泥を塗ったことになりませんね」と言ったら、「大丈夫、大丈夫」と言うので「それじゃあ、お言葉に甘えてお手盛りをやらせていただきましょう」と載っけたら、河出の寺田博君がすぐ頼みに来たんですよ、『文藝』にも書いてくれって。まだそのときはプロになる気持ちもなくて、原稿料をもらったら競馬の馬券を買えるなあ(笑)、そう思って書いたのが『プレオー8の夜明け』です。
鈴木 『墓地で』、『プレオー8の夜明け』、それに『白い田圃』あたりまでは、その後の作品と多少感じが違いますね。
古山 あの三つの戦争話は、僕はずっと誰かに語りたかったんですよ。
鈴木 小説としての構成、あるいは普通の意味での完成度が高い。すぐに芥川賞をとられたのも当然だという感じですが、後の作品になるほど発想の過程とか、日常生活との関わり、記憶の行きつ戻りつなどがそのまま出てきて、むしろそこに惹かれて読みました。小説を読んでいるような気もするし、随想を読んでいるような気もする。最初の三作のピーンと張りつめた描写から、同じような記憶を日常の中でたどり直す最近の作品まで、その変化もこの本の面白さですね。
古山 僕にしてみればね、ああいう理不尽なことが日常茶飯に起きる人生というか、戦争というか、そういう話をしたかったのと同時に、初めて小説を書いた時にはやっぱり気負いがありまして、他の作家がやっていないようなことをやってやろうとか、こういうところにこっそり爆弾を仕掛けておいたら読者に何か与えるんじゃないかとか、そういうことがありました。例えば『プレオー8の夜明け』を書くときには、僕の頭の中にはモダンジャズのリズムみたいなものがあった。そういうものを入れてね、気がつく人だけ気がつきゃいい、そうするとちょっと新しい文章を書けるんじゃないかなと思って書いたんです。でもそのうちにあんまり作為を用いないで、述べてつくらず式に書いていくのも悪くないなと思い始めた。それはちょっと怠慢かもしれないけど、中島敦みたいなあんな完成されたフォルムをつくっちゃうと、読者はその中に閉じ込められちゃう。形があるようでないような随筆みたいな書き方をすると、文章を読んでそこから読者がものを考えてくれるんじゃないか。読者と一緒に世界を広げていければ、それでいいじゃないか。書きたいことも大体書いているし、あとは編集者と約束した締め切りに間に合わせるだけ(笑)。吉行の言う、干からびたレモンから汁たらすようなことをやっているんだから、気張ることねえだろうということですよ。ただ、いい読者とめぐり合うということが非常にうれしくて、それで何とか食っていければ、もうどうせ金も別に欲しいわけじゃないし、有名になりたいわけでもない、この辺で矛をおさめればいいんじゃないかというような気持ちもあって、ああいう文体になってくるんですね。
鈴木 二十三篇というのは一冊の本としての物理的な限度かと思いますが、『他人の痛み』、『船を待ちながら』など、まだまだこの中に入っていない古山さんの戦争短篇はたくさんあるし、奥様が亡くなられてから書かれたものでも、戦争と切り離せない作品ですね。この本は戦闘場面が出てくるから戦争小説という定義ではなくて、それが狭い意味の戦争小説とは違った深さになっていると思います。そこに野間さんの『真空地帯』などと違った共感を持ちました。
古山 僕は五味川純平さんのエンターテインメント戦争小説は映画やテレビで見ると面白くてね、俺はあんなふうに女に恵まれなかったなあ(笑)などと思いながら楽しみましたよ。仲代達也が最後に奥さんに饅頭を食わせるんだって、カチンカチンになった支那饅頭を持って雪の中に倒れていく、ちょっとお涙ちょうだいだけど、ええなあ(笑)、俺もああいうんだったらよかったんだけど、何て俺の兵隊というのはぶざまなんだと思って(笑)。
鈴木 古山さんの戦争小説は、戦争という極限状況から見た人間観察であって、これでもかこれでもかとイデオロギーを押しつけてくるようなものではない。かといって家族を飢えさせないために汲々と状況に妥協して生きていらっしゃったという感じからは遠い。この本の中で、旧友の作家が自分と古山さんを比較して、自分は状況中の人になる、古山はそうじゃないというようなことを言ってますが、家族を食わせるためには状況の人にならないと難しい時があるんですが、古山さんは体が先に状況を拒否しちゃうようなところがあります。
古山 いやあ、それで家内もまいったんでしょうなあ。会社組織に順応しないで、いきなりバーンと四つか五つ会社をやめた。つらかったというようなことも言っていたんですが、僕にしてみればそれは自然だった。気持ちだけは小説より妻子が優先するということはあったけど、実際の行為は逆のことをやったかもしれません。
鈴木 ただ、彼は状況の人、俺は脱状況の人と明確に線を引いてしまえば面白くない。古山さんの作品を読むと、相手が将校だから反発するとか、兵卒だからシンパシーを持つのではなく、兵卒でも嫌なやつは嫌なやつだし、将校でも何か秘めたものを持っている者にはシンパシーもある。
古山 いや、それは本当にそのとおりで、僕はそのつもりで書いています。将校タイプだの下士官タイプだの、タイプで分けて書くと『人間の條件』になっちゃう。僕は京都の高等学校を途中で落っこちちゃったけど、クラス会に行って旧友たちと会うと、「古山はあの時代に支那事変に反対するなんて随分ませていたなあ。俺たちは国策に沿うことがいいことだと思っていた」と言われる。僕は状況に添うのが自然だと思うんですね、人間の。だけど僕には僕の自然もありますので(笑)、自分の自然に従っていると状況中の人になれなくなって転落してしまう。
鈴木 古山さんは、反戦だとか好戦だとか、そんな簡単なレッテルは貼れないと、この二十三の短篇を通しておっしゃっているように思いました。
古山 いやあ、本当にね、戦争で命を保障されりゃあ、それは面白いこともあるだろうけど、自分が死ぬか生きるかというようなところに放り込まれると、好戦なんて言っておれないですよ。だけど戦争は起きるときは起きちゃいます。兵隊だって下士官だって将校だって一人一人違うんだし、一人の人間の中にも良いものもあり醜いものもあり、それを抱き込まなければ人間なんて描けるわけない。タイプを書いたってしようがないんですよ。
鈴木 それにしても戦争長編三部作が完成し、戦争短編も集大成され、お仕事に一つの区切りがついた感じですね。
古山 僕はね、さっきも言いましたように、妻子を食わせるために働いておりましたので(笑)、『フーコン戦記』が本になる半月前に家内が死んでしまって、そうしたら、江藤さんみたいに後追い心中はしませんけれども、これでもう俺は何もかも終わりじゃねえかという気持ちになりました。
鈴木 いやいや、井戸と同じで水をくみ出すとまた新しい水が寄ってくるんじゃないですか。
古山 そういって鈴木さんだとか編集者がお尻をたたくから、駑馬は走らないけれども、また歩き始めたというところです(笑)。     (6月4日取材)

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