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『亡き母や』の阿川弘之さん
インタビュアー 鈴木健次(大正大学教授)

阿川弘之
(あがわ・ひろゆき)
1920年広島県生まれ、東京帝国大学文学部国文科卒業、海軍に入隊する。復員後、志賀直哉に師事。46年『年年歳歳』で文壇に登場。昭和という激動の時代に遭遇した人間の悲哀を浮き彫りにした作風は、文学界に独自の分野を開拓、卓識と端正な文体は多くの読者の敬愛を集めている。『春の城』(読売文学賞)、『雲の墓標』、『山本五十六』、『井上成美』(日本文学大賞)、『志賀直哉』(野間文芸賞、毎日出版文化賞)等著書多数。99年文化勲章受章。




『亡き母や』
講談社



『人やさき 犬やさき 続 葭の髄から
文藝春秋



『食味風々録』
新潮文庫



『葭の髄から』
文春文庫



『志賀直哉 上』
新潮文庫



『志賀直哉 下』
新潮文庫


鈴木 ここまでタクシーで参りましたが、美しが丘は落ち着いた、いい町になりましたね。
阿川 その一方で渋滞が始まってます。駅へ行こうと思うとバスが動かなくなるんです。
鈴木 このあたりが開発された頃、246号線の開通を待ちきれずに東京から車で走ってみたら、工事中の道路にブルドーザーがあって通れず、引き返したことがありました。そういえば佐藤春夫の『田園の憂鬱』の舞台がこの辺りだそうですね。
阿川 碑が建っています。佐藤さんがこの辺に住まわれた頃は、辺鄙な所だったでしょう。
鈴木 『亡き母や』の冒頭は、いまも僅かに多摩丘陵の面影を残している近くの池の光景から始まっていて、散歩の途中、その池でふと見かけた釣りの光景から、本当に自由に、連想のままに語られていくご両親やご先祖の話の展開が実に自然体なんですけれど、実際はいろいろお考えになって書き進められたんでしょうね。
阿川 いやいや、ベテラン編集者というのはたいしたもので、僕が書きあぐねていると、あまり構成を気にしないで、思いつくまま随筆を書くようなつもりで書かれても大丈夫なんじゃないですか、などと言ってくれてね。その月やっと二十枚ほど書けると、ああ、やれやれ、でした。一回分二十二〜三枚でしたが、それだけ書きあげるのに毎晩徹夜して、半月くらいかかりました。
鈴木 ご長男の尚之さんやご長女の佐和子さんも実名で出てきて、本当にエッセイとも小説ともいえるような作品で、ある年齢に達した方が書かれると、それが面白いですね、こちらが歳をとったということもありますが。安岡章太郎さんの作品にもそういうものが多くなっていますが。
阿川 安岡は僕と同じ大正九年生まれで今も健在ですがね、大正九年が次から次へ欠けてゆく。古山高麗雄、近藤啓太郎、文士じゃないけど秋山庄太郎がそうですし、なにか、いやーな気持ちですよ。
鈴木 ところで、阿川さんはお会いするとおだやかな紳士ですが、この本を読むと……。
阿川 せっかちで癇癪もちで、変な性格だって女房にも始終言われてるけど、仕方がない、そういう生れつきなんだから。それを伝えたのはお袋だと思ってるんです。
鈴木 そういう母親から自分に遺伝子として伝わっているものを探ろうということで物語が始まりますね。自分の血筋というものを、お子さんたちがもう少し歳をとって自分の人生を振り返るような気持ちになったときに、なにがしかの参考になるのではないか、子どもと孫のためだ、と書いていらっしゃいますが、それだけなら私家版でいい。
阿川 それを一般読者に読んでもらうのはけしからん話で、プライベートなことばかりですから、自分一人で面白がっているようになっちゃ悪いと思って気にはしてました。だけど、そういうかたちで、一つの名もなき家系の伝承が書き残せたといえば言えるかもしれません。
鈴木 ふつうなら自分史で終わるものが非常におもしろく、気持ちよく読めて、しかも一つの時代史、歴史になっています。
阿川 そうですか。ただ、時代史といっても、前に申し上げたように私は親父が歳とってからの子どもですから、日露戦争まで入ってくるんですね。親父の戦地での手記があったのですが、家が広島だったので焼けてしまった。ところがどうもそれの写しらしいものが執筆中出てきた。不思議な偶然なんです。
鈴木 この連載を始められて、史料を提供してくださる方が現れたんですか?
阿川 いや、違うんです。向こう様は僕のことご存じなかったと思う。うちの娘に、阿川という人の書いた古い戦時日誌の写しが見つかったけど、あんたと何か関係があるんじゃないかと言ってこられた。何しろ近頃は、船旅なんかしてても、「船客のなかに阿川さんという人が乗っているけど、あれは阿川佐和子さんの何かになるんですか」って質問が出るらしい。僕を知っている人が「佐和子さんのお父さんですよ」と言うと、「あっ、そうですか。で、お父さんは何なさる方ですか」って、そういう時代なんです(笑)。ですからね、手記を提供してくださった人も多分僕のことはご存じなかったけれど、家にある日露戦争の手記の原本を書いた阿川という人は、テレビに出ている阿川佐和子の何かではないのかということで娘を通して話しが来たんです。それで、日露戦争のことが書いてあるんならぜひ見せてほしいということになった。実物をお目にかけましょうか。……これが九十八年間、木島さんという方の家に埋もれていたんです。明治三十八年九月に木島さんの、お父さんの兵隊さんが書き写したと書いてある。戦が終わってちょうど講和条約が結ばれる頃に、父が写してくれと頼んだのか、木島一等卒の方が写させてくれと頼んだのか……。
鈴木 お父上のお名前が出てくるんですか。
阿川 ええ、ここです。
鈴木 父上が自分で阿川生の作と書かれた。阿川生作、ではなくて阿川生・作ですね。
阿川 多分そうだと思うんです。遠藤周作という例もありますから、阿川生作さんなら別人ですが、父は騎兵第十四連隊に所属していたんです。木島さんのお父上がおられたのと同じ隊です。しかも相当官というんですから、通訳とか主計ということになるんで、おそらく間違いはないでしょう。親父はロシア語の通訳として出征したんです。ここに「このたび捕虜二、三名を南沈旦堡近傍に捕えたり。彼らはみなポーランド人にして、自ら投降を企てたものなり」とあります。おそらく親父がロシア語でいろいろ聞いたんだろうと思います。こういう天の助けみたいな偶然が生じるんですね。
鈴木 日露戦争後、お父上は軍隊を離れて満州、いまの長春に行かれますね。
阿川 ええ、そこで阿川組という土建屋を起こして、いちおう財をなし、五十歳ではやばや気に入った広島に引退してしまった。その年に私が生まれていますから私は広島の人間にされていて、その通りなんですが、家の者は誰も広島に直接の縁はないんです。
鈴木 日露戦争とか満州とか、阿川さんの血脈をたどると、それがそのまま歴史になっています。
阿川 自然にそうなったという感じですけどね。
鈴木 満州の話などは、どうしてもイデオロギー先行になりやすいですが……。
阿川 イデオロギー主体の決まり文句は嫌いでね、対米戦争なんかも、決して肯定する気はないですけど、かといって日本だけが悪いことをしたように言うのはどうもフェアじゃないと思う。歴史は淡々と事実だけ述べて残すのがいいといつも思ってました。ぼくの作品は歴史ではありませんが、歴史に関わる部分もありますから、折角見つかった親父の手記を引用する気になったんです。
鈴木 満州での生活が日常の目線で描かれていて、内地の人と同じような喜怒哀楽の中で生きていたのがわかります。
阿川 ええ、実際そうでしたからね。敗戦ま近かになって、満州であんな残留孤児問題が起こったりした大騒動になる前は、もう少しのんびりしたものだったんですよ。僕は昭和十七年が最後ですがね、満州へ行ったのは。
鈴木 お父上はもう少し満州で頑張ったら、もっともっと儲かったのでは(笑)。
阿川 現地で父の会社の支配人をしていた人が、「どうも大将は実業家としての欲がなさすぎる」と言っていたそうです。
鈴木 昭和三十年代に発表された『舷燈』はフィクションですが、阿川さんご夫妻のことが語られているんだと思います。でもご両親のことはあまり書かれませんでした。
阿川 あの頃はまだ兄貴が生きておりましたから、自分の癇癪もちのことは書けても、家族全体のことっていうのは、ちょっと触れてはいけないところがあったものですからね。親父について書けば、親父がよそでつくった兄貴のことを書かなくちゃあならないというのがあって、五十年以上の文筆生活で、両親あるいは先祖のことは、ほとんど触れておりませんでした。それと、私はさっき申しましたけれど親父が五十歳だったときの子で、孫みたいなものですから、志賀直哉先生のような、長男と父親との葛藤なんていうものはなくて、甘やかされて育っているんですよ。その意味でも親父についてあまり書くことはないような気がしていました。ところが「群像」の編集者に、「いや、それは書く価値がある」と熱心に勧められて、初めは「そうかねえ」という感じだったんですが……。
鈴木 『亡き母や』を読んで、安岡章太郎さんの『鏡川』を連想しました。
阿川 安岡の『流離譚』は読みましたが、『鏡川』は読みそびれてる。
鈴木 『流離譚』で父親の系譜をたどり、『鏡川』で母親の系譜を追っているんです。阿川さんの『亡き母や』は池の散歩で始まりますが、安岡さんのこの作品も冒頭は多摩川べりの散歩から始まっていて、川からの連想で母親が子供時代を過ごした大阪の淀川の話になり、母方の祖先の地にある鏡川が出てくるんです。『流離譚』の時はまだ父親のことを知っている人も生存していたけれども、このときにはもう関係者がほとんど残っておらず、史料が乏しい中で母親の系譜をたどっていくという点でも、『亡き母や』に似ています。
阿川 それじゃあむしろ読まなくてよかったのかね。読んだら書く気がしなくなったかもしれない。
鈴木 阿川さんの母上は社会的なお仕事をなさった方ではありませんから、史料などはないでしょうね。
阿川 お袋のほうは何にもないんですよ。兄も姉も妹も亡くなり、その子どもたちもほとんど生存者はいない。お袋と僕と一対一で癇癪を起こしたことぐらいしか書けなくて……。
鈴木 母上との会話の断片がとても効果的に書かれています。母上もご自分の思っていることをバンバンおっしゃるし、阿川さんも言い返す、たいへんだったでしょうね。
阿川 女房も初めの頃あれを聞いて、びっくりしたようです。
鈴木 ゆかりの地を旅行されたりして想像をふくらませていく、阿川さんの文章の力を感じます。
阿川 文章には一応神経質に気をつけているつもりです。近頃、日本語がずいぶんいい加減に扱われていると思うものだから。
鈴木 これもつい最近出された『人やさき 犬やさき』でも、「べしは正しく使うべし」とか「だった考」とか、日本語の問題を書いていらっしゃいますね。尚之さんや佐和子さんの文章まで引き合いに出して具体的に書かれていて、勉強になりました。
阿川 いや、僕も偉そうなことは言えないんで、若い頃のものを必要あって読み返してみると、結構「だった」を使ってるんですよ。だけど「だった」「だった」「だった」というのは安物の機関銃を撃っているようだからやめろと、娘なんかには言うんですけど。
鈴木 この本を読むと、日本語だけではなく世の中の状況全体に阿川さんが「いらついて」いらっしゃるのがわかります。
阿川 半分諦め加減ですがね(笑)。
鈴木 いらつきながらも諦めないで、希望の光を見出そうとされていますよ。
阿川 見出そうというか、見出した感じがするときはうれしいですね。若い作家や評論家でも、あっ、この人の文章いいじゃないかと思えるときは非常にうれしい。川上弘美さんとか、このあいだびっくりしたのは新潮新書の磯田道史さんの『武士の家計簿』という本です。なぜだろうと思ったけど、川上さんも磯田さんも内田百閧フ愛読者らしい。百關謳カの文章を愛読していれば、あまり変な文章は書けないですよね。日本の将来はもうダメだと思う時もあるし、いやいや、僕たちの後に若い立派な人たちがたくさん出てくるんだからと、うれしいというか、安心するときもあります。
鈴木 『人やさき 犬やさき』に収められた「文藝春秋」の巻頭エッセイはいまも続いていますが、この時期は9・11とかイラク戦争といった生々しい事件が続いてたいへんだったでしょうね。
阿川 まあしかし、それは触れてもいいし、触れなくてもいいんですから。ただ、あの欄の伝統的な性格のようなものがあって、どうしてもそれに影響されますね。
鈴木 対米関係については親子二代ではっきり書かれている。尚之さんは最近『それでも私は親米を貫く』という本を出されましたが、それにしても尚之さん、佐和子さんと、みなさんご健筆ですね。
阿川 『亡き母や』に戻して申しますとね、不思議なんですね、長男と長女を、文筆家と言っていいかどうかわかりませんが、文筆をもってある程度の仕事をしている者がこういう家系からなぜ親子三人出たのか、幸田露伴先生の家じゃないんですからね。
鈴木 「文章も絵姿も、はっきりした名前すら残さなかった遠い祖先の人たちの細胞のなかに働きつづけていたサムシング・グレートに感謝する」と書いていらっしゃいますが、その前の部分に「母が末っ子の私に伝えたヒトゲノムのおかげで相変わらず癇癪が起こる。起こしていいとは思っていないが、思っていなくても起こる。いらいらガミガミやって孫にも嫌われる。せっかちの度が過ぎ、石段を踏みはずして転んで手首を骨折したりもするけれど、一方、八十歳を過ぎても未だ、とにかく小説らしき文章を書くだけの体力知力に恵まれており、美味を楽しみ、音楽や野鳥の囀りを楽しむだけの感受性が与えられている」とあります。食欲旺盛、文壇の健康優良児と言われたこともおありだそうですが。
阿川 食うことは好きですからね。でも、あんまり誉めた言葉ではないと思いますよ。日本の作家は病気と女と貧乏がつきものでないとね。
鈴木 いや、いまはずいぶん変わりました。『人やさき 犬やさき』などとおっしゃらないで、どうか愛犬共々お元気で、これまでのように息の長いお仕事をなさってください。
阿川 ありがとうございます。しかし犬は主人に似てくると言うけど、僕と同じでダラーとして、よく寝るしね、怠惰そのものです、近頃のこいつは。

(5月15日 横浜・阿川弘之さんの自宅にて収録)

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