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車谷長吉
(くるまたに・ちょうきつ)
1945年兵庫県生まれ。慶応義塾大学独文科卒業。広告代理店に勤務のかたわら、執筆した短篇の文芸誌掲載が機となり、以後20年余にわたって私小説を書き継ぐ。92年に上梓した『鹽壺の匙』にて芸術選奨文部大臣新人賞、三島由紀夫賞を受賞。また98年には『赤目四十八瀧心中未遂』にて第119回直木賞を受賞。主な著書に『漂流物』(平林たい子文学賞)、『武蔵丸』(川端康成文学賞)、『忌中』、『金輪際』、『贋世捨人』、『錢金について』等がある。 |
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『愚か者 畸篇小説集』
角川書店
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『赤目四十八瀧心中未遂』
文春文庫
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『鹽壺の匙』
新潮文庫
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『武蔵丸』
新潮文庫
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石川 畸篇小説集≠ニ副題がついたこの『愚か者』には古くは昭和五十八年に書かれた「桃の木の話」から平成十六年に書かれた最新作「川向こうの喜太郎さん」まで、二十年あまりにわたって書きつがれた三十一篇が収められています。また内容も車谷作品でおなじみの《与一》と呼ばれる人物や《くるたまにさん》が登場する私小説から、《恐怖小説》とでもいうべき幻想的な物語まで幅広く揃っていますね。
車谷 まず愚か者≠ニいう主題でなるたけ短い小説を書こうという意思がはっきりあったんです。人間の偉さというものには限りがありますが人間の愚かさというものは底無し沼なんですね。世の中には偉い人より愚か者の方が圧倒的に多いし、まず自分自身がその代表だと思っていますから、自分の愚かさを書こうと思っていました。それから、川端康成さんに「掌の小説」という作品があり、吉行淳之介さんには「掌篇小説」があり、島尾敏雄さんには「葉篇小説」があります。大学生の頃、角川文庫で川端康成さんの「掌の小説」を読んで、いつか自分も文章を書く時代が来れば短い小説集を書いてみたいと思っていました。
石川 『愚か者』の個々の作品についてお尋ねします。「トランジスターのお婆ァ」の残された右腕にしても、「ぬけがら」のホルマリン浸けの漱石の脳髄にしても、「つまようじ」のポケットの中のつまようじも、それが何かの象徴というのではなく、ゴロンと存在そのものの強さが横たわっている感じがします。
車谷 例えば、つまようじ一本が不気味に思われる時があります。食堂のテーブルのつまようじたてに差してある時は、さほど不気味には思わないんだけど。それから夏目漱石の脳髄がホルマリン浸けとなって上野の科学博物館にあるというのは人に聞いた話で、僕は入った事が無いんです。見に行こうと思えば行けないことは無いんだけど、何か不気味な感じがして入れないですね。
石川 つまようじや脳髄は車谷さんがエッセイで書かれている《小説を小説たらしめている「虚点」というもの》なのでしょうか。
車谷 そうですね、「虚点」というのは存在の不気味さです。例えば僕の『鹽壺の匙』という小説の中で《腹が減ると「背中の炭を喰いながら。」》と書いたんです。「勇吉は腹が減っていた」と書いただけでは文学にならない訳で、食い物でない炭を食べさせる事によって、いかにこの勇吉がお腹が空いていたかということを表現しました。この場合、炭が「虚点」になっています。そんなことがわかるようになってから小説を書けるようになりました。
石川 『愚か者』の巻頭の「非ユークリッド的な蜘蛛」も不条理な作品ですね。会議中にあくびをしたという罪で主人公の蜘蛛が死刑判決を受けるという…。
車谷 僕も会社員をしていて会議に出たことはあるけれども、その席で皆あくびをしてますね。それで会議中にあくびをしただけで、死刑になるとしたらどうなるのか、と考えたんです。世の中の九割九分の人はあくびをする事に罪悪感を持たないじゃないですか。僕ももちろんあくびはしますけど、それでも何か悪いことをしたような感じが残ります。「お前死刑だ」と言われたらどうしようかって少年時代から思っていました。
石川 《刑場への長い廊下を歩いて行った。》に続いて、連れ合いである《アーキーの目が鍵穴から覗いていた。》という一文があり、作者のまなざしに冷えびえとした気分になります。また家にいるはずのアーキーが、と不思議な感じがします。これも「虚点」ですか。
車谷 はい。義務教育の間は1+1=2であるというユークリッド的幾何学を教えているわけです。ところが《非ユークリッド的》は1+1=2でないという事ですよね。それで《非ユークリッド的》という題名をつけました。この作品は、僕の友人の娘に田付秋子さんという人がいて、彼女が小学校4年生の時に手書きの新聞「黒猫新聞」を発行してましてね。親からうちの娘の新聞に何か小説を書いてやってくれと頼まれて書いたんです。タツキアキコで、主人公の名前もタツーキとアーキーです。
石川 そんな背景があったのですね。ところで、昨年出た『忌中』(文藝春秋)という作品集には「三笠山」「飾磨」「忌中」というあきらかに私小説ではない小説が書かれています。
車谷 これは新聞種小説ですね。朝日新聞に載った小さな記事から発想したものです。もちろん名前や地名は変えてあります。新聞種小説が得意だったのは三島由紀夫、永井龍男ですね。三島の新聞種小説の代表作は『金閣寺』です。金閣寺を燃やす事件があって当然新聞種になり、その記事から小説を書いたんでしょう。永井龍男の代表作『青梅雨』も新聞種です。神奈川新聞の隅っこに出ていた記事らしいです。そういう新聞種小説も若い頃から書いてみたいと思っていました。新聞を読んでいると、あっこれは小説になるなという事件が時々起こりますよね。そんな記事は切り抜いて、十年二十年と寝かしておくわけです。
石川 小説になりそうな事件とはどんな事件なんでしょうか。
車谷 それは、言葉はよくないけど「面白味」ということですね。男の愚かさ、女の愚かさがよく出ている事件です。僕は今五十九歳ですが、電車の中で人を観察しても新聞を読んでも人間の愚かさ以外は考えて来なかったな。僕の唯一の主題ですよ、「愚かさ」は。今回の『愚か者』以外にも中編小説や長編小説も書いてきましたが、皆人間の愚かさがテーマ、モチーフですよ。
石川 「狂」(『武蔵丸』収載)もその系譜に連なる印象的な作品ですね。車谷さんが高校生の時には、「狂」の主人公である立花先生のモデルになった方がいらっしゃったのですか。
車谷 いました。立花得二先生ね。本名で書きました。あだ名は「√」。数学で「√」ってあるでしょ、割り切れない。実は立花先生も小説を書いていたんですね。だけど亡くなるまでに一度も雑誌には載らなかった。
石川 《落魄の崇高を、偉大なる異者として生きた》立花先生の生涯を描いた小説です。中島敦の『山月記』に並ぶ美しい作品だと思います。
車谷 僕は人間の愚かさというものを主題に考えたのが二十七歳位の頃でした。それから考え続けて作家として認められたのは四十七歳だった…。
石川 『鹽壺の匙』ですね。ところで、車谷さんには句集もあり、「先達」(『業柱抱き』収録)には《学校を出て数年たった頃》俳句を始めたとあります。また「永井龍男と濱野正美」(『錢金について』収録)には《学校を出て二年が過ぎたころ》永井龍男の『青梅雨』と出会ったとあります。
車谷 俳句は五・七・五の十七文字。少ない文字で多くの含みを持たせようとするものです。韻文と散文の違いはありますが、短篇小説も同じで、できるたけ短い文章で多くの含みを持たせようとします。だから俳句を作るつもりで短い小説を書くという事です。この『愚か者』もそういう意識で書きました。
石川 《淀橋諏訪町》や《本郷丸山新町》等、車谷さんの小説には今はこの世にもう存在しない旧町名が書かれていますね。
車谷 僕は昭和三十九年に東京に出て来ました。当時、四歳上のいとこが日大におりまして、「お前これから東京で暮らしていくんだから地図をやるよ」と地図をくれました。その東京地図は発行が昭和三十六年で、町名が変更される前だったんです。僕はいまだにその地図を使っています。例えば文京区向丘○丁目なんて味気ないでしょ。駒込千駄木町と言う方がいいでしょ。
石川 さて、車谷さんにお話を伺う以上、ミューズである《嫁はん》こと高橋順子さん(詩人)についてお尋ねしなければなりません。
車谷 そもそもは平成二年の大晦日に、順子さんの住まいを出し抜けに訪ねて行ったんですね。僕はあなたの詩のファンです≠チて。その時は僕が小説を書いているとは彼女は知らなかったんです。おつき合いがはじまって話していると共通の知人がいる。そのうちの一人が青土社の編集者だった三浦雅士さんで、僕は昭和五十八年に三浦さんが編集する「火の子の宇宙」という雑誌から原稿の依頼をうけて、「桃の木の話」という小説を書きました。
石川 これは今回の『愚か者』に収録されている一番古い作品ですね。
車谷 はい。それで共通の知人であることを知った三浦さんは順子さんに「火の子の宇宙」を貸したそうです。次に会った時に順子さんはあなたの小説を読みました、ああいう短いのをどんどんお書きになるといい≠ニ言ってくれました。それから順子さんの勧めに従って「人間の愚かさ」を主題にして小説を書き続けたんです。順子さんに原稿を見てもらって的確なアイディアをもらう、それが僕にとって良かった。順子さんと結婚して、僕はたてつづけに文学賞をもらいました。強運のひとです。
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