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Interview インタビュー 『葬送』の平野啓一郎さん
インタビュアー 鈴木 健次(大正大学教授)

平野 啓一郎
(ひらの・けいいちろう)
1975年、福岡県生まれ。98年京都大学在学中に雑誌「新潮」に投稿した作品『日蝕』が大きな話題をよぶ。同作品は翌年第120回芥川賞を受賞。2002年夏、2500枚を超す大作『葬送』を4年ぶりに刊行した。




『葬送 第一部』
新潮社



『葬送 第二部』
新潮社



『一月物語』
新潮文庫



『日蝕』
新潮文庫



『文明の憂鬱』
PHP研究所





鈴木 大作で読むのが大変でしたが、ショパンとジョルジュ・サンドの愛のもつれとか、ドラクロワとショパンの交友など、フランスの社交界、音楽界、美術界をめぐるストーリーに引き込まれました。
平野 最初の構想の段階では五百枚ぐらいのものを考えていたんですけれど、資料を集めて読み出してからは、ちょっとこれは五百枚ではおさまらない、二千五百枚ぐらいになるんじゃないかというメドをつけました。最終的にその通りになったんですが、本の長さというのは社会状況と密接に結びついているところがあって、現代のように非常に時間の流れの速い時代に長篇はなかなか読まれにくいという状況もあります。ところが今回僕がねらいとしていた十九世紀文学の再検証ということでいうと、あの時代の文学というのは基本的に長いんですね。とくに非常に多くの登場人物の心理をできるだけ微細に追求していこうとすると、どうしてもそれなりの長さにならざるをえない。今この時代にこの長さのものを出すのは、僕としても実験ではあるんですけれども。
鈴木 たしかに冒険ですね。しかし作品は長いですが、書かれている時代はショパンがサンドの家族と別れてパリへ戻ってくる時から二月革命を挟んで彼が病死するまで足掛け四年、正味にしたら三年そこそこの時間ですね。それを綿密に書かれていますが、年表のようなものをつくったんですか。
平野 ええ、カレンダーをつくりました。何月何日にショパンはこうした、ドラクロワはどうしたと全部書き込んで。ですから、自分のふだんの生活のカレンダーと十九世紀のカレンダーが二つあって、三年続いた執筆期間はほとんど作品のためのカレンダーの方ばかり見て暮らしていました。
鈴木 二月革命がどれだけ社会を変えたのか、あるいは変えなかったのかは興味のあるところですが、やはり一つの転換期ですね。その意味で『日蝕』と『一月物語』に共通するところがあるんじゃないかと思いました。
平野 僕自身が転換期の人間で、今という時代は非常に大きな転換期にあるのではないかと常々感じています。しかし現実にこの生きている時代が果たしてどのように転換し、どういう方向へと向かうのかはまだ漠然としていて、もう一つ掴みきれていない。そういうときに、ではかつての大きな転換の時期に社会、あるいは人間はどうだったのかというのは以前から興味のあるところでした。もちろん転換の質は必ずしも同じではないですが、変化の時代に人がどう考えていたのかというのは非常に興味があります。今回の舞台もそういった転換期への興味とつながっています。
鈴木 エッセイ集『文明の憂鬱』のあとがきに、その連載と時を同じくして十九世紀中葉のヨーロッパを舞台としたこの長篇小説を執筆していて、進歩と文明という当時の社会を覆い尽くそうとしていた恐ろしく強力な観念を世紀病としての憂鬱と結びつけることに強い関心があった、そしてそれが現代においてもますます顕著になっている問題だ、と書かれていますが…。
平野 僕自身いま生きていて、バブル期以降とくにですが、ある種の倦怠感といいますか、あるいは憂鬱のようなものを非常に感じています。憂鬱だとか倦怠は十九世紀ロマン派のころから世紀病として言われはじめ、それが近代社会の形成とともに強調されるようになってきた。それはなぜかということをずっと考えていました。僕は、近代社会が形成されていく過程において人間は恐らく自然というものから、あるいは神というものからますます疎外されていって、日常の中に閉じ込められていったと考えています。
鈴木 その延長線上にわれわれも存在すると…。
平野 自然状態に人間が放り出される――雨が降ったら濡れてしまうとか、遠くに行こうと思っても歩いていかなければいけないとか、そんな不便を少しずつ解決し、利便性をよくしていこうとする方向で文明は進歩してきたと思うのですが、それが洗練されてきたところにできた場所が都市だと考えるわけです。都市は一見、人間がいかにも住み心地のよいような場所として整備されていくんですけれど、そのぶん自然からはますます遠ざかることになる。多くの人間がそこで一緒に暮らす都市では、個々の人間はおのずとその個性なり自由を制限せざるをえなくなる。そこから社会と個人との間に軋轢のようなものが生じざるをえない。現代人も不満を何らかのかたちで発散する場所を求めているのではないでしょうか。例えば先日のW杯のようなものでも、お祭り騒ぎをしてみたいというのは日常拘束されている自分をどこかで思いきり解放してみたいということがあると思いますね。その解放はかつてはいろんなかたちで試みられていたことで、定期的な祭りによって発散させる方法もあれば、宗教的な儀礼によって発散させるということもあったでしょう。しかし近代社会においてそれらは次第に都市の中に巧みに組み込まれて宗教はだんだんと力を失い、人間が神から切断されて社会の中に放り出されてしまう。そういうときに都市の中で人間の不満はいかに解消されていこうとしたか。そこに僕は芸術というもの、とりわけロマン主義がそういったものを引き受けようとしていたのではないかと着目したのです。というのは、宗教の凋落と軌を一にするかのようにカントなどが崇高という問題を一生懸命議論し始めるわけです。崇高というのはまさしくかつては宗教が引き受けていた問題ですが、ロマン主義は現実にはそれを引き受けていこうとする。芸術が失われつつあった宗教の機能を社会の中で非常に多様な、断片化されたかたちで果たしていこうとしていたのではないかと思います。つまり、芸術によってある種の日常からの人間の救済ということをやろうとしていたんじゃないか。
鈴木 ルソーの描く原始人みたいなものをイメージすると、おっしゃるように近代化によって人間が日常に縛られるようになったというのは一面の真理だと思いますが、その日その日の食べ物の採取や栽培に追われていた人間は近代になって、むしろそういう日常から解放され、一部の人間かも知れませんが、芸術を専業とするような存在すら出現する。そういう意味では、むしろ近代化によって人間は日常から解放されたという面も同時に見なければいけないんじゃないですか。
平野 それを僕は作中ドラクロワを通じて語らせているわけです。彼は会話の中で、自分たちは泥の川のようなものに猛烈な勢いで押し流されようとしていると言った後に、しかし自分たちはその中で溺れていながら、そこからすぐに出たいと思っているわけでもない、つまり居心地がいい、だからすぐそこから脱出したいというわけではないけれど、そこに居つづけることに何とも言えない窒息感のような苦しさがある、と続ける。そこのところが憂鬱なので、憂鬱というのは過酷な労働を強いられたときのような強い苦しみではないわけです。そこから一秒でも早く脱出したいというものではなく、半面心地よいような、しかし何とも言えない満たされないあいまいな苦しみだと思うのですね。それがまさしくいまおっしゃられたことであって、生活という日常で見るならば、人々はかつての原始時代のような過酷な労働から確かに解放され、文明からさまざまな恩恵を受けているわけです。
鈴木 平野さんはその憂鬱を近代が生み出したものととらえているけれど、例えば大伴家持という人がいますね。大伴家は天皇と一緒に歴戦して大和王朝を確立させた古代の大豪族ですが、「うらうらに照れる春日に雲雀あがり情悲しもひとりし思えば」などという彼の歌には、近代人の憂鬱にきわめて近い倦怠感があると思います。憂鬱というものは近代人だけではなく、いつの時代にも感じていた人がいたのではないでしょうか。
平野 もちろん憂鬱とおぼしき感情は近代以前にさかのぼっても、恐らく芸術の中や記録の中にさまざまなかたちで発見できるでしょう。しかし問題とされるべきは近代になって、そこで人々が改めて憂鬱というものを発見し直したということですね。つまり近代というこの時代を生きている自分たちに特有の病なんだと思い込み、あるいは近代そのものをまさしく自分たちの病だと考えたところが非常に重要なのです。
鈴木 まあ、この『葬送』という作品は、こんなむずかしいことは考えなくても、めずらしく十九世紀的な小説のおもしろさがあります。三島由紀夫の再来と言われる平野さんですが、これを読むとフロベールの再来です。細かな心理描写が久々に小説の醍醐味を味わわせてくれる。ショパンのCDを聴いたり、ドラクロワの画集を開いたりしながら楽しく読めます。そういう読み方もあるんじゃないですか。
平野 もちろんそう読んでいただくのが一番かもしれませんが、僕が試みとしてやりたかったことは、まさしく今おっしゃったように小説の最もオーソドックスなスタイルを自分の作家活動における最初の時期に徹底的に検証し直すという作業です。僕が文壇にデビューしたのは四、五年前ですけれど、その頃はまだ八〇年代に盛んに議論されたことの余韻で、文学は終わった、小説は終わったと盛んに議論されていました。しかしその主張に耳を傾けると、それはせいぜいある時代の、あるスタイルの小説が終わったということを告げているにすぎず、では小説がなぜ終わったのかに関しては一向に説明されていない。二十世紀は十九世紀の小説に対していかに新しいものを生み出すかということの苦労の連続でしたが、それは絵画でも音楽でも同じです。しかしヌーボー・ロマンの時代にサロートとかロブ・グリエが乗り越えなければいけないものとして念頭に置いていたのは何かというと、依然としてフロベールとかバルザックですね。彼等の小説を何とか壊そうとしてやってきて、今では小説のオーソドックスなスタイルはほぼ失われてしまった。現代の若い作家が何かを書こうとするときに、小説のオーソドックスなスタイルに拘束されて不自由だということはほとんどないのではないでしょうか。
鈴木 かつての十九世紀的小説から映画やテレビドラマでも表現できるものは除いていって、アンチ・ロマンに到達した。非常に取っつきにくくて、何となくむずかしい顔をして読まなければならなくなってしまった。
平野 近代という時代があって、そこに近代小説が誕生しますね。ああいう時代があるときに、どうしてああいう小説が生まれるかという検証は、これから新しい時代を描こうとするときに非常に参考になると思ったのです。それからもう一つ、僕は小説については詩とは違って、純化しようとする試みが極めてその作品を貧しいものにしてしまうのではないかと考えています。
鈴木 ユーゴーやデュマを読むと長々と牢獄の説明があったり、街の説明が続いたり、本来小説というものはそういうごった煮のようなものだったですね。
平野 通俗性のようなものまで含めて、どこか純化しきれない雑然としたもので、そもそも散文芸術とはそういうものなんじゃないのか。十九世紀の小説はまさしく「あれもこれも」だったわけです。二十世紀になると小説が「あれかこれか」という方向に突き進んでしまった。それによって非常に先鋭的な試みも幾つかあったと思いますけれども、結局あれもこれも的な魅力は失われてしまった。現代を描くときに、現代の複雑さをそもそも総体として描くことは難しく、断片主義でいいんだという立場もありますけれども、僕は何とかそれをいまいちど包括的に、あれもこれも的に描く術はないものかと考えていまして、『葬送』はある意味ではその一つの準備段階のようなものと位置づけています。
鈴木 それにしても十九世紀のフランスの社交界というのは、相当勉強しなければ書けなかったでしょう。
平野 僕の世代は(僕は昭和五十年生まれなんですけれど)、まさしく日本が高度経済成長期に入ってあらゆる地方都市が近代化し、日本じゅうどこに行っても同じような形のビルがあって、同じような道路ができた時代に育ちました。ですから僕は、中上健次のように熊野のような強烈な場所を舞台として据えて小説を書くことが非常に困難な時代の作家だと思うんです。僕にとってはそういう世界よりも自分が好きで読んでいたフランス文学の世界の方がはるかに親しみがあって、自分に近い。今後はさらに、人によってはインターネットで情報を得た土地についてのほうが自分の生まれ育った土地のことより詳しいというように、自分の環境がある種の個人的な好みの遠近法によって恣意的に取捨選択されるような時代が来るのではないでしょうか。
鈴木 人間が土地に縛られていた状態から、デラシネといえばまさにデラシネだけれど、かなり解放されたんですね。いまや選挙だけがいつまでもの選挙区という土地に縛られているから政治が国民のニーズとはかけ離れ、時代遅れになっているのかもしれませんよ。
平野 僕のように日本のある地方で生まれ育った人間が十九世紀のフランスを舞台に小説を書くというのは奇異に思えるでしょうが、そこに現代日本の都市の事情がかかわっているのではないかと思います。僕たちの世代はすでにそういうものを喪失し、根無し草的なところにいる。そういったところから逆にある種の自由を獲得して、世界じゅうどんなところを舞台にしても構わないというような感覚があるのです。
 
(8月27日 東京・新宿区の新潮社にて収録)

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