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『サラマンダーの夜』の久間十義さん
インタビュアー 「新刊ニュース」編集部

久間十義(ひさま・じゅうぎ)
1953年、北海道新冠生まれ。早大仏文科卒業。学習塾を経営していたが87年『マネーゲーム』が文藝賞佳作となり作家デビュー。90年『世紀末鯨鯢記』で三島賞を受賞。社会事件に大胆な虚構をくわえた小説を得意としている。『ヤポニカ・タペストリー』、『狂騒曲』、『刑事たちの夏』、『オニビシ』、『ダブルフェイス』、『ロンリー・ハート』等著書多数。




『サラマンダーの夜』
角川書店



『ロンリー・ハート』上
幻冬舎



『ロンリー・ハート』下
幻冬舎



『ダブルフェイス』
幻冬舎文庫



『刑事たちの夏』上
幻冬舎文庫



『刑事たちの夏』下
幻冬舎文庫


−− 『ロンリー・ハート』以来、二年ぶりの新刊です。警察小説もこれが四作目ですね。
久間 連載が終わってからずっと机の横に置いてあったんですよ。そうすれば知らないうちに熟成するんじゃないかと思って。
−− ワインみたいに(笑)。
久間 それは冗談としても、やはり手直しや書き込むにはある程度の時間は必要かも知れません。前作がその余裕がなかったから、『サラマンダーの夜』は自分としてはそれなりに納得する形で単行本にできたと思います。
−− この作品のアウトラインは池袋の繁華街の風俗店やサラ金が入居した雑居ビルが出火、身元のなかなか分からなかった犠牲者(若い風俗ギャル)を通してその恋人や肉親が抱えた問題があぶり出される。また捜査する警察も町を取り仕切る暴力団と管轄署の癒着が見え隠れし、単なる火災(放火殺人?)事件では済まされなくなっていく。事件の捜査が物語の縦糸なら警察内の思惑、人間関係が横糸となって進みます。
久間 そういう意味ではすごくオーソドックスな刑事小説でしょう。冴えない中年刑事とチャラチャラしているようで実はまっとうな若い刑事のコンビ、それに捜査に首を突っ込む女性新聞記者…、松本清張以来の典型的刑事像だし。
−− ええ、そういう意味でもヒット作『刑事たちの夏』を思い出させる作品です。あの時は高級官僚の腐敗が取り上げられ、その後の作品も『ダブルフェイス』が東電OL殺人事件、『ロンリー・ハート』では女子高生コンクリート詰め殺人、そして今回は新宿・歌舞伎町で実際に起きたビル火災を思い出します。
久間 よくそれは聞かれるんですね。実際に起きた事件をどう思うかって。でもそういうノンフィクション的な意味で事件を語りたいとは全然思っていないんですよ。それは報道なりノンフィクションライターがやればいいのであって、僕は実際の事件を触媒にしてまったく別な物語を構築したいんですね。だから編集者にも本ができると帯に○○事件の真相は?…なんて入れそうになるから、ちょっと待ってと(笑)。
−− ただ読む側はついつい実際の事件を思い出しながら読んでしまう。
久間 うーん、それで本が読まれているとすれば、それは送り手側の羊頭狗肉といえる面がなきにしもあらずですが。デビュー作『マネーゲーム』が豊田商事事件、『聖マリア・らぷそでぃ』でもイエスの方舟事件のインスパイアは受けていますが、事件究明でもなんでもなくて、すごく観念的な物語をつくるためのベースを借りたくらいの気持ちなんです。『刑事たちの夏』も制度疲労した社会にいる人間を書くにはどうしたらいいのかという思いが強くてその結果が、刑事小説になったという感じだし。打ち明け話をすると今回の作品もあの歌舞伎町の事件の数日後に新宿で編集者たちと飲んでいたからで…。
−− たしかに久間さんの作品を読んでいると刑事小説といってもいわゆるエンタテインメント小説と違う興趣があるんですね。
久間 (文藝賞デビューという)放り込まれた世界がたまたま純文学だったので、周りがそういうスタンスで接してきたんだけれど、自分としては純文学も大衆文学もなかったんです。それまで塾講師をやっていて、このままじゃ先は明るくないぞ、じゃ何ができるのかといういわば消去法で小説を書きはじめたような感じだから。あのころは早川書房のミステリーやSFといった欧米作品をけっこう読んでいて、もし小説の作り方が自分の中にあるとすれば、今でもそれは欧米のその手の作品でしょうね。
−− デビューのときに、編集者からアーサー・ヘイリーを目指せって言われたんですよね。
久間 ええ、なんであんなダサい作家を、とそのときは思ったけど(笑)。今考えると、いやー、アーサー・ヘイリー、スゴいですよ、何年間も一作に集中できる環境を持っているということはね。それは日本ではとうてい許されないから。僕の場合は私小説を書くつもりはなかったから、ニュースや事件を換骨奪胎してどんな物語を書けるかだったんですよ。そういう意味ではものすごく観念的な小説ではあったと思う。ただ、それはせまい世界で評価はされても読者が読んでくれないんです。それで自分の小説作法を保持しながら広範囲な読者に面白いと思ってもらおうとしたのが『ヤポニカ・タペストリー』だったんですね。
−− なるほどあれはユング的なオカルチックな小説でした。偽史的面白さもありますし。
久間 そうしたら、すぐに編集者が同じようなものを書いてくれと言ってきたんです。それは結果として人から見たらエンタテインメント小説の面白さに通じていたんでしょうね。自分はそういう意識はなかったんですが…。僕にとってはかなり時間もかかり大変な作業で、きっとこういうことが無意識にできないとベストセラー作家にはなれないんだとつくづく思いましたね。
−− 読者の欲求に自分の作品をすっと重ねられる技術ですか。
久間 ええ、僕はできないから。いったん自分の考えていることを止めて、生活を変えてみるというのはどうだろうか。ギャンブルと酒に明け暮れて無頼を装ってみるとか(笑)。
−− 無理でしょう。
久間 そうですよね。それまである意味、野放図に自分の観念を広げて作品にしてきたけど、特に警察小説や時代小説は様式の力を借りるのもありだと思いますね。刑事ものも四作目になると前回不満だった部分を次の作品で修正して、さらに次では別の部分を自分の理想形に近づけてゆくということがわかってきたし。
−− では今までの作品は著者としては不満が多いですか。
久間 もちろん不満だらけですよ、今から見れば。ただ『サラマンダーの夜』はそういう見方をすればピッチャーがブルペンから実戦のマウンドに立って投げてみて、ボールはそこそこ走っていると感じてるんですけど。でも走っているボールだって打たれちゃう場合もあるし。
−− 様式美といえば刑事たち、とりわけ年かさの黒田刑事は警察小説の醍醐味でもある事件と個人、組織の上下、それに不正・腐敗との対決といった読みどころをしっかり押さえてあると思いました。
久間 ああいったところは思わず作者の考え方が出てきてしまうところですよね。また逆にそういう原型からいかに遠ざかっていくかというのもある。次に出す作品はむしろそういうものになると思います。
−− いつも思うんですが、時系列にしてわずか数日を圧縮して提示する書き方、それに今回は女性記者が絡むこともあって報道記事をたくみにリードとして取り込んでますね。
久間 時間を明示したのは久し振りなんですよ。これも連載のときはそうじゃなかったんですが、ここだけはじっくり付け合わせました。それも時間的な余裕が前作に比べてあったからできたんです。実は『刑事たちの夏』のあと、一斉に刑事小説を書いてくれ、というオーダーが舞い込んだんです。それまでの自分の仕事量ではとてもやりきれないくらいに。そのため、直しに時間がかかるという問題も生じてちょっと悩んでいるんです。
−− 当編集部もそのうちのひとつでしたね。
久間 「天国ジャーニー」ですね。もうちょっと待ってください。あの作品もじきに手をつけますから。−−と、こういう状態になってしまって自分の納得する作品にしなければならないものがどんどんと積み重なると、メランコリーに陥ってしまって。それはある意味覚悟のうえで純文学畑での仕事っぷりを意識的に変えようとしたはずなのですが、なかなか……。
−− 外圧を自分に課されたというようなところでしょうか。
久間 かっこよく言えばそうでしょうね。取材のようなものも『サラマンダーの夜』ではちょっとやりましたし。
−− 恋人のホスト青年・島田のキャラクターなどはその成果が出てるんじゃないですか。
かなり下衆な感じがエグいといいますか…。
久間 いや、担当編集者には、こんな言い方はホストはしないんじゃないですか、って言われましたから。リアリティをもっと出してくれって。
−− そこが悩みどころですね。久間作品はそのあたりのズレにあるというか、どうしようもなく漂う知的さが魅力だという気もしますし。でも読者としては、まんまと騙されました。
久間 あっ、そうですか。
−− 考えてみれば連載時のタイトルが「面のない女」なんですよね。
久間 タイトルも流行りの2文字ものを考えたんですけどね、「燃焼」とか(笑)。まあ火の中に生きる伝説上のトカゲの名前をつけることにしたんですけど、タイトルも読者に本を手にしてもらうためにはすごく大事な要素だということで。
−− でも久間さんがそういう地平で悪戦苦闘されていると見てとり、嘆く?向きもあるんですよ。純文学に帰ってきてくれ、みたいな。
久間 いや、ですから文芸をジャンル別けして、二つのうち、どこに帰属するかという意識はできるだけ持ちたくないな、と……。ただ、文芸イデオロギーということをよく考えるわけです。僕が大学生の頃、文学の終焉ということがさんざん言われました。たしかにそれまであたりまえだった文芸書の初刷部数が維持できなくなったのもあのころだった。でもそれは政治と文学というつながりが有効じゃなくなったということですよね。そういう意味で文芸イデオロギーがどうやって明治以降つくられてきて、崩壊していったのかを文学史じゃなくて、こういうものを書く仕事に就いてしまった人間として客観的に見ていきたいとは思っているんです。
−− それが作品になる可能性もあるんですか。
久間 もちろん読んでくれる人がいるなら。

(1月23日 東京・西荻窪にて収録)

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