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保坂和志(ほさか・かずし)
1956年山梨県生まれ、その後、鎌倉で育つ。早稲田大学政経学部卒業後、西武コミュニティカレッジで講座企画を担当する。90年『プレーンソング』で作家デビュー。93年脱サラし作家に専念。96年『この人の閾』で第113回芥川賞を受賞する。一連の“何も起きない小説”は、現代日本文学の中で常に注目を集めている。小説に『草の上の朝食』、『季節の記憶』、『残響』、『猫に時間の流れる』、エッセイ集に『アウトブリード』、小島信夫との書簡集『小説修業』等の著書がある。猫好き、横浜ベイスターズのファン。
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『カンバセイション・ピース』
新潮社
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『プレーンソング』
中公文庫
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『季節の記憶』
中公文庫
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『この人の閾』
新潮文庫
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『言葉の外へ』
河出書房新社
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鈴木 これは、家が主人公といってもいいような小説ですね。
保坂 その通りです。実は最初からの狙いなんですよ。日本語で「家」っていうと、血筋とか家族と解釈されやすいけど、ここではほんとうに家屋なんです。
鈴木 その家は伯父が戦後、世田谷に建てた大きな日本家屋で、子供たちが結婚したり就職したりして出ていき、伯父の死後は伯母が独りで住んでいた。その伯母も死んで、転勤中の長男に請われて小説家の「私」が妻とそこに住む。やがて離れに妻の姪が越してきて、母屋の一部はスタッフを二人抱えた友人が事務所に使うことになります。「私」は従兄に「たまには社会に役に立つ小説を書け」と言われながら、三匹の飼い猫の相手と横浜ベイスターズの観戦に明け暮れ、姪や事務所の友人たちとおしゃべりしながら暮らしている。保坂さんの言葉を使えば「非貯蓄型の人間」が集まっている日常生活が、筋らしい筋もないまま淡々と描写されています。
保坂 ええ、普段軽い会話でみんなよく、「家にはそこに住んだ人の記憶が残るからね」みたいなことを言う。誰もそんなことを本気でつっこんで考えたりはしないんだけど、雰囲気が残るというよりもっと物質的に近い次元で、住んだ人の考えたこととかやったことがその家に残るとは考えられないか、それが出発点です。
鈴木 巧いな、と思ったのは猫の使い方ですね。何年も前に死んじゃった伯父と伯母の飼猫の匂いが、人間は嗅覚が鈍いからわからないけれど、いま飼っている猫の鼻は嗅ぎ出せるんじゃないか、そんな話から家の記憶の世界に引きずり込まれてしまう。
保坂 実際に僕の飼っていた猫が死んだっていうことがあって、情緒的に死んだ猫が生きていて欲しいって思う気持と、死んだら終わりっていう考えが二つある。それが共存しているわけではなくて、局面ごとに別々に出てくる。まあ普段は科学的妥当性がある考え方が支配的なんだけど、今ちょうどお盆で迎え火を焚いたり、お墓参りに行ったり、そういうものも残っているわけですね。二つの感じ方が共存できないで割れているんです。僕は冷静な論理的なものよりも強い感情の方が勝ると思っているんですよ。論理的なものでも裏に強い感情がないと、その論理を進めることはできない。
鈴木 従姉が風呂場で黒い人影を見たという話が出る。誰も本気で霊の存在を信じていないようだけれども、それにこだわって何度も何度もみんなの話題になりますね。
保坂 ええ。風呂場で従姉が影を見た。それを「本当だったんだよ」ってもしも僕がここで言うと、みんな「え?」って思う。僕がそう言ったら、やっぱり本当かもしれないと考えだす頭の部分ってあるわけですよ。夏になると必ずテレビで怪談めいた話をやるでしょう、山奥でアベックが車で走っていて何かに出会ったとか。科学的な思考と、そういう非合理的で古代的で感情的なものとが絶えず二つあるわけで、僕はその二つをこの小説のなかでくっつけて、乗り越えたかったんです。
鈴木 保坂さんが山梨から世田谷に越されたっていうのは事実ですか?
保坂 世田谷に越してきたのは最近のことで、子供時代の話ではありません。僕は両親とも山梨で、この家のモデルは山梨にある母の実家なんです。最初は実際にない建物で書き出してみたんですが、イメージがうまく浮かばないんです。読者にもかなり正確にイメージが浮かぶようになっていないと、この小説は成り立たないと思ったんで。
鈴木 僕は読みながら登場人物の系図をつくって、名前、年齢、職業などわかるたびに書き込んでいったんですが、家の見取り図もできそうな気がしましたよ(笑)。
保坂 一級建築士の女性が途中まで読んだ時点で、「私、描いてみた」って見取り図を送ってきたんです。ほとんどぴったり、僕が書いてない所だけ違ってるんです。ただ、あのサイズの建物が世田谷にありうるか、事前にちょっと見て歩いたんですが、不可能ではないですね、世田谷って昔は土地が安かったですから。迷っていた時期には、いっそ山梨にしちゃおうかなとも思ったんですけど、山梨じゃベイスターズを見に行けない(笑)。
鈴木 僕は読みながら子供のときによく行った祖母の弟の小石川の家のことを思い出しました。やはりかなり広い家で大家族でしたが、家のたたずまいやら、今はもう大方が死んでしまった親族たちの仕草や声までよみがえってきて、なつかしい気分になりました。
保坂 この小説では現実に住んで会社をやっている三人と、今住んでいない従兄姉とか死んじゃった伯父、伯母がほとんど同じレベルの登場人物として読んだ人に思い浮かぶっていうところが、一つのリアリティかなと思います。僕自身、母の実家で育って、石屋だったから職人もいたし、近所の親戚もお風呂を借りに来たりしてた。だからですかねぇ、僕は『プレーンソング』からいつも一つの家の中に大勢が雑居している暮らしを書いている。僕の場合にはその方が普通っていうところがあるんです。
鈴木 ところで、『カンバセイション・ピース』という題名はどういう意味ですか。
保坂 「家族の肖像」という意味なんです。18世紀のイギリスで流行した家族の群像画ですね。もとは「話の発端」っていうことで、ヨーロッパの家では壁に掛かっている家族の肖像が、お客が来ると話の糸口になる。それから転じてそういう絵自体がカンバセイション・ピースになるらしいんです。
鈴木 僕はてっきり会話の断片かと思っていました。不勉強でしたね。それにしても「私」を中心に交わされる何気ない会話が、なかなか形而上的な意味をもつように配列されていて、これは『プレーンソング』以来ずっとやってらっしゃる保坂さんの得意芸ですね。
保坂 今回はだいぶ書き直したんです。会話を途中でずいぶん削ってるんですよ。律儀に読む人には、ちょっと話が飛びすぎるかもしれないぐらい切っちゃった。
鈴木 二組の会話が入り混じってくるところがあるでしょう。あれはとてもおもしろかった、新鮮で。現実にはああいうことはいくらでもあるわけですよ。
保坂 現実の会話って本当にかみ合わないし、あっちこっちに飛ぶ。だから理よりもリズムを重視してつくったんです。それと極力一つの場面で二人じゃなくて三人以上出すようにしたかった。その方が動きがでるんです。
鈴木 なんか切れてるような人もいたり、また急に会話に参加してきたり、そういうところが面白いんじゃないですか。二人だとなかなかそういう変化をもたせにくいでしょう。
保坂 ええ。でも三人以上になると、とりまとめるのが一気に大変になるんですよ。黙っている人が本当に読む人の意識から退場しちゃっては困る。その場にいるけど黙ってる、そういうふうにしたいんです。だからとても手間がかったんです(笑)。
鈴木 そこに保坂さんの読書と思考、宇宙論とか時間論とか、あるいは生命論とか芸術論、そういうものの集積が流れ込んでいる。しかも普通の小説みたいにストーリーで展開していくんじゃない。いったいどの程度見通しがあって書き始めたんですか。
保坂 見通しはいつもないけど、今回はとくになかったです(笑)。
鈴木 過去の経験と、実績がないと、おっかなくてできない仕事だなあ(笑)。
保坂 いちおう十年はやっているんでね……。でも経験を積んだら経験に見合った苦労をしなくちゃいけない。経験のなかだけでやったら、作家を生きるっていう意味で進歩が止まっちゃいますから。まあ、今までの自分では、これは書けなかったと思います。
鈴木 文章が長いですね、一文一文が。僕は学生がこんな文章でレポートを書いてきたら、バサバサ切っちゃう(笑)。どういう効果を狙っているんですか?
保坂 効果っていうよりも、例えば墓参りから戻った夜から翌日までのシーンは、センテンスが一個か二個しかなくて、一つのセンテンスが二ページも続くんですが、それは全部経過説明なんです。僕の感じでは、経過説明を途中で切ったら何かを起こさなきゃいけない気がするんです。それともう一つ、自分が考える場所でも長くなる。それは、短いセンテンスで言い切れる命題を考えてないからなんです。最初のセンテンスで言うことを断定しないまま次のことを考え、またそこに次の判断材料を入れてくる。結局、断定せずにこうじゃないか、ああじゃないかっていうのを引きずって最後までいくのが、この小説の構造になっている。デビューの頃は日常を書いて日常を肯定しようとしたんですが、今は日常場面において非日常的な思考形態にたどり着きたいんです。日常を使って日常を乗り越えたいと言ってもいいかもしれません。登場人物は実社会にいないようなへんてこりんな奴です。僕は思うんですが、いまの日本の日常的思考様式≠ヘ日常を否定することなんです。日常が満ち足りなくて、もっと多くを求めるという考え方が普通なんですが、僕はそうじゃなくて、この日常しかないんだって考える。これは今の日本では非常に非日常的なんです(笑)。
鈴木 小説って本来、日常が単調だから日常にないような生の展開を求めて読まれるものではなかったんですか。保坂さんの小説には、ほとんど筋らしい筋がない。『プレーンソング』、『季節の記憶』、『カンバセイション・ピース』と、設定はかなり共通ですね。
保坂 似てますねぇ。同じといってもいいくらい(笑)。
鈴木 こんなに同じようなことばかりしていていいのか(笑)。
保坂 『プレーンソング』からのスタイルは『季節の記憶』で終わろうと思ってたんですね。ところが考えなおしたんです。一人称と三人称の問題なんですよ。今回の場合、最初は三人称にするつもりだったんですが、この小説は見えない場所が見えないといけない。僕自身の暫定的な結論では、三人称と一人称はどっちが大きいかっていうと、一人称だっていう結論なんですよ。なぜかっていうと全員が「私」をとおして世界や自然に触れる機能がある。ビデオカメラ的三人称で記録しても、画像も音も人間が触れていないとしょうがないわけで、それは一人称でしか起こらないんです。『残響』っていうので三人称を試み、『明け方の猫』っていうのも一応「彼」なんだけど、その彼は猫になる。そういうふうにいろいろやってみて、どの線でいこいうかと確かめ、試みてみて、今回はやっぱり今までの「私」だったっていうことです。
鈴木 最近出された『言葉の外へ』というエッセイ集に、音楽家や画家や小説家にとって作品をその人のものたらしめているものは一つしかない、と書かれていますが、保坂さんを保坂さんたらしめているものは非常にはっきりしている。確かにモーツアルトはどれを聴いてもモーツアルトです。だけど、ピカソみたいな画家もいるじゃないですか。
保坂 同じことの繰り返しをして、もう出尽くしたんじゃないかということですね。実は、本人もそう思うわけですよ(笑)、出尽くしたかな、って。
鈴木 出尽くすと、井戸水みたいにまた新しい水が湧いてくるってこともある?
保坂 いやぁ、出し尽くさないと次が出てこないと思って……。ただ、これから先どうなるかはよくわからないですね。今回もこれでやりだして、しばらく書いていると小説として自律性をもってきたから、まあよかったと思うんだけど、もしうまくいかなかったら、やっぱり今までの設定を踏襲しちゃったからだと思った可能性はあったと思う。
鈴木 保坂さんの手法が独特の魅力を生んでいるとは思いますが、今後も、例えば競争とか金儲けとか、そういうものを一切排除して囲った静かな世界の中だけで小説を作っていくんですか。申し訳ないことに僕は読んでないんですけれど、『プレーンソング』の前にはストーリー性とエロチズムにあふれた作品もお書きになっているようですが……。
保坂 今、サラリーマンは仕事をやるだけで精一杯です。形而上学的な次元を持たないから仕事ができてる。たとえば定年になったあとで何をするかなんて大問題だと思うんですが、彼らは働くことで人生の時間を埋めていって考えるべきことを考えようとしていない。だから実社会に普通に生きている人間を出すとなると、僕は彼らに話をさせられないという問題が出てきてしまう。それから性的な問題は最初と今とでは考え方がまったく逆になっているんです。最初の頃は、セックスは僕の世界に入れるのに情報量が多すぎたんですね。それを持ち込んじゃうと、それのためにいろんなことを入れなきゃならなくなる。でも今は逆になっちゃって、恋愛もそうなんだけど、みんなが目の前にいる人間とくっついたり離れたり同じことばかりで、なんか単純すぎるような気がするんです。渦中にいるときにはそれは大問題だけど、傍からそういうのを繰り返し見たり、自分自身でも繰り返してみると、求めていたものがあまりに単純で面白くない。
鈴木 新しいスタイルで新しい読者を、といったお考えはありませんか。
保坂 僕が小説を書くときいつも心がけているのは、波乱万丈のストーリーを求める人に面白がってもらうことは無理だけど、寝っ転がって読んでも面白かった、ちょっと立ち止まって読むタイプの人も面白かった、深く物事の意味を考えることが好きな人にも面白かった、っていうものが書きたいんです。『プレーンソング』は鎌倉の僕の実家の向かいのおばさんが面白がった。当時七十歳ちかい人です。それから山梨の母の実家のおばさんがやっぱり七十過ぎで、面白かったって言った。僕が自分の耳で初めて面白かったって言ってくれるのを聞いたのは、その二人のおばあさんだったわけです。だから、その人たちが読んでも楽しめるものを書きたいっていうことが、いつも僕の念頭にあります。
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