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「新刊ニュース 2011年12月号」より抜粋
江國香織(えくに・かおり) 1964年東京生まれ。目白学園女子短期大学国語国文学科卒業後、デラウェア大学に留学。91年『こうばしい日々』で第38回産経児童出版文化賞、92年第7回坪田譲治文学賞受賞 。92年『きらきらひかる』で第2回紫式部文学賞を受賞。2001年『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』で第15回山本周五郎賞。04年『号泣する準備はできていた』で第 130回直木賞受賞。07年 『がらくた』で第14回島清恋愛文学賞。10年 『真昼なのに昏い部屋』で第5回中央公論文芸賞をするなど、受賞作多数。小説、エッセイ、絵本、詩、 翻訳と多分野で執筆活動を続けている。この度、小学館より『金米糖の降るところ』を上梓。 |
── 『金米糖の降るところ』は、日本とアルゼンチンを舞台にした長編小説です。この小説が生まれた経緯を教えてください。
江國
最初は「場所」でした。四季も昼夜も、日本と正反対の場所を舞台に小説を書いてみたくて、二〇〇八年の五月下旬に、ブエノスアイレスに行きました。晩秋でしたが、例年より暑い年だったらしく、真夏のように暑かったです。きれいで大人っぽい印象の街で、物語がたくさん埋まっている感じがしました。正反対の場所にあるのに、日本に近いものも感じました。日本というより東京に近い、都市独特の共通点だったと思います。とても密度の濃い旅ができて、その後ずっと、街を引きずっていました。日本に帰ってきているのに帰りたくない、自分の「一部」を置いてきたままのような。小説を書き終わるまで、地球の裏側と太くつながっている感覚がありました
。
── 中心人物は、ふたりの姉妹です。ブエノスアイレス近郊の日系人居留地で育った佐和子とミカエラは、どんな男も自分たち姉妹の間に入れないと決め、すべてのボーイフレンドを「共有」してきた……。 江國 ブエノスアイレスで出会ったものを物語にどう生かせるか、考えているうちに、姉妹の話にしようと思いました。日本と南米を舞台にする小説の構造上、地球のどちら かにひとりを置きたかったこともあります。場所から生まれた話といっても、小説を書き始めたら場所や現地で見た事柄はすべて背景になりますから、姉妹とひとりの男の話 を書きたい、その気持ちが第一でした。恋人の共有は珍しいですが、実は姉妹って、親を共有し、記憶を共有し、多くのものを共有しているんですよね。姉の夫は、妹にとっ て義兄。人が人を共有しあっていることの不思議さ、面白さも書いてみたいと思いました ── 留学先の日本で達哉と知り合った佐和子は、初めて妹との「共有」を拒み、日本で達哉と結婚する。同じく達哉に好意を抱いていたミカエラは、父親が定かでない子を 妊娠してアルゼンチンに帰国した。それから二十年。物語は、佐和子、ミカエラ、達哉、ミカエラの娘アジェレンの動きを追って進みます。 江國 長編を書くときは筋書きを決めず、人物と場所の設定だけを細かく考えて、その人たちがどうなっていくのか、観察しながら書いていきます。 ![]() ── 実業家として成功した達哉は東京に住み、佐和子は一年前から所沢の屋敷に住んでいる。そしてある日突然、達哉に離婚をきりだします。 江國 ブエノスアイレスが故郷だけれど、達哉と暮らした日本にも十分に大切な思い出ができた人にしたかったので、二十年の時間が必要でした。ほんの少しでもいいから、小説には時間の流れが必要。この小説は二十年です。小説の中に流れる時間が長いほうが、人物に与える影響や変化の振り幅が大きくなり、書きがいがあります。 ── 達哉は明るくて、みんなから好かれる人物。自分の魅力を自認している彼が、離婚を言いだされてすごく動揺する。 江國 私は達哉を、書いているうちに好きになりました(笑)。今まで書いたことがないタイプの男の人ですが、この感じの人と知りあう機会があって、あの人ならこう言いそうだな、こうしそうだなと想像でき、立体的に描けたと思います。佐和子とミカエラが留学したとき、日系一世の親から聞いていた昔の日本とのギャップに驚いたと思います。そんな姉妹にとり、おれについてこい<^イプの達哉のような男は、魅力的に見えたでしょうね。世代がくだる中で価値観は変わっていく。二世の世代では、ルーツである日本の大学を出ることが重要だったり、故郷に錦を飾る♀エ覚がまだあったと思いますが、三世のアジェレンの世代はもうそうじゃない。 ── 恋愛小説というより、姉妹の物語のような気がしました。 江國 そう。この小説は、女たちの話なんです。所沢に引越した佐和子が出会う、十字架を地面に埋めて遊んでいる十歳の女の子も含めて。子供の頃って、大人から見たら何をやっているのか理解できないようなことに夢中になりますよね。私は、九歳、十歳くらいの女の子を書くのが好きなんですが、その年頃の子の女っぽさが、私の中にも基本として存在していると思います。成長してさまざまなことを知っていくけれど、その人の中には十歳くらいの少女がいて、大人になっても、恋をしても、その子が行動を決めているところがあるのではないか。 ── 南米育ちの姉妹の話が、日本の読者にとって普遍性を持つのはなぜでしょうか。 江國 たぶん、物語というものが本質的に普遍性を持ってしまうからだと思います。「きちんと書けば」という条件つきなので、普遍性を持った、きちんとした物語になるといいなと常に思いながら書いています。この小説の場合、非常にやっかいなことを始めてしまった感じがありました。妹の子がもしかすると夫の子ではないかと思いながら生きているなんて、この人間関係はあまりにややこしくないか?(笑)。でも、書き終えたときにはきちんと書けた手応えがありました。最終的には、あんなことも、こんなこともあったねと、女たちは冗談みたいにして笑っちゃうんだろうなと。 ── 江國さんが小説を書く時に気をつけている事は? 江國 この小説に限らずですが、この人と結婚していたのに別の人を好きになった、それがいまは違う人といるとか、説明がつかない感情や出来事をどの人も持っていて、あちこちで小さく起こっている。そういう説明がつかない感情を書きたい。でも、書いてもすべては分からないです。割り切れない、先の見当がつかないのが真実なのだから、見えない部分も残したい。物語自体は、ほんとうに日々あちこちで発生していますが、それをそのまま書いても普遍性を持った物語にはなりにくい。物語と小説は別なものなんです。ある物語を、小説としてきちんと書き起こすのは体力もエネルギーも要る作業なので、次から次に書けるものではない。 ── 恋愛を書くのはなぜでしょうか。 江國 恋愛をすると、その人が見える。恋人から電話がないとき、じっと待つのか、飲みに出かけるか、怒るのか、小さいところにその人の本質が現れる。恋愛をすると人は無防備になるから、無防備にさらけだされた人の状態を、私自身が見てみたいし、小説を通して見せたい。私は恋愛だけではなく、友情や家族の話も書いているんですけれど、どんな小説を書いても人間たちの話ですね。恋人じゃないよと言っているふたりでも、男女の場合は同性同士と違う友情が生まれるので、恋愛を書きたいというより、男たち女たちを書きたいと思っているんです。 ── 江國さんの小説に登場する女性は、体の奥にある意志に突き動かされるようにして行動している、そんな印象があります。 江國 そうなのかもしれない(笑)。自分ではこういう女性を書きたいとは思っていないのですが、知らず知らずにそんな女性像になるのかもしれないですね。物語に対して嘘をつかない。これが、私にとってはいちばん大事です。物語を著者の都合で動かしてはいけない。そんなところに行っちゃうの? どうしてこの人なの? と、流れるところに流れていくのを邪魔しないようにしています。どんな人に関心があるかは、本当にいろいろです。よそのテーブルにいる人を見てイメージがわいたり。今回はアルゼンチンという場所が始まりでしたが、ブエノスアイレスで姉妹に会ったわけではなく、帰国してから佐和子とミカエラの姉妹を考えました。 ── 今後の執筆予定を教えてください。 江國 来年生誕百五十周年を迎える、メーテルリンクの『青い鳥』を翻訳しています。いま連載中の三作の小説は、来年以降、順番に本になるかな。私は、自分の小説を、どんなふうにでも読んでもらいたいです。この小説で、アジェレンの恋に共感する人がいてもいいし、ブエノスアイレスの街の空気を楽しんでもらってもいい。地球の両端にあるふたつの都市を書きたい気持ちからスタートした物語ですが、読者にも、書いた私にも、まったく予想外のものが見えたらいいなと思います。それは、小説が立体的であるしるしだと思うんです。 (九月十四日、東京都品川区にて収録) |
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