『ゼラニウムの庭』の大島真寿美さん
インタビュアー 石川淳志(映画監督)
「新刊ニュース 2012年12月号」より抜粋
大島真寿美(おおしま・ますみ)
1962年愛知県生まれ。南山短期大学卒業。1992年『春の手品師』で第74回文學界新人賞受賞。同年、第15回すばる文学賞候補作となった『宙の家』で単行本デビュー。2012年『ピエタ』で第9回本屋大賞第3位。著書に『三人姉妹』『ビターシュガー』『戦友の恋』『やがて目覚めない朝が来る』『羽の音』『ちなつのハワイ』『ぼくらのバス』など多数。この度、ポプラ社より『ゼラニウムの庭』を上梓。
── 『ゼラニウムの庭』は、明治生まれの祖母・豊世が小説家の孫・るみ子に語り伝える明治から平成の百年以上に及ぶ一族の歴史を描いた長編小説です。どのような経緯で書かれたのでしょうか。
大島 今まで書いてきた小説ではやれないことを書こうと考えました。それは、時間について考えてみることです。日常から地続きの物語を等身大の視線で見つめるのではなく、大きな時間を俯瞰しながら、同時に細部をフォーカスしたいと考えていたら、こんな話かなと物語が降りてきました。
── るみ子の一人称「わたし」の視点で語られ、過去の当事者として豊世の一人称「あたし」が挿入されていく多元的な話法ですね。
大島 書き始める前から「おばあちゃんから聞いたお話を孫が綴る」ことは判っていましたが、豊世の語りを自然に読んで貰うために書いていくと多層的な語りの形式になりました。でも方法論は特に意識しなかったんです。るみ子の職業を作家にした理由も、意図的なものではなく小説世界を現実と地続きにしたいなと思いながら書き始めたら勝手にるみ子が作家だと言い出してしまったから、そうかと思って書いていきました。
── 一族には豊世の双子の姉・嘉栄にまつわる秘密があります。
大島 彼女は「神のなせる業」や「天の悪戯」と形容されます。そもそもありえない存在ですから、書き方を間違えるとファンタジーになってしまう恐れがありますが、それは避けたかった。他の人物は現実にいると思えますが、嘉栄を全く違う人物には描きたくなかった。現実から虚構に向かうグラデーションの中で同じように見えることを望んで書いていました。嘉栄が生きた時代を描写しないといけないので昭和史に巻き込まれる側面を書きました。小説で百年以上の時間を扱っていますし、人物が多く登場するので年齢表を作りました。現れて消えていく人々について間違えたら大変なことになるので、そこは慎重に臨みました。
── 小説の書き出しは《大きな蜘蛛を見た。》です。
大島 蜘蛛から始まりますが、何故なのかは判らないんです。これは試し書きだったんですよ。そろそろ書き始めないと締切に間に合わない、まずい、と思いながらも、一行目が何も降りてこない。どうしようか、とりあえずパソコンに向かってみて「大きな蜘蛛を見た。」と書いたらスーッと進んでいったんです。試し書きのつもりがこのまま決定稿でいいんだと思ったので、蜘蛛が何かの象徴なのか、何に由来するのか判らないんです。ただ、人間も生き物であり、人ではない生物がこの小説世界に必要だったような気がします。蜘蛛が一族から隔離されながらも「彼女の磁場に掠め取られる」ことで嘉栄のことだと考えたり、蜘蛛が吐き出す糸は時間を現していると理解された方がいました。それぞれの解釈をして貰って構いません。「大きな蜘蛛を見た。」と書いた時には、私は嘉栄や豊世という名前も知りませんでした。「双子がいる、そのうち一人には秘密がある」ということ、判っていたことはそこまでです。
── 一族に仕える女中の「お駒」も不思議な人物ですね。
大島
彼女も変な人でしたね。こんな変わった人が出てくるとは思わなかった。物語に引っ張られて登場した人物です。執筆中は「ゼラニウム」の語源を知らずに書いていましたが、語源は鶴とかコウノトリなんだそうです。それを先日、書店員さんから教えて貰い驚きました。赤ちゃんはコウノトリが運んでくると言われますよね。「お駒」もさまざまな女性が子をうむかうまないかを言い当てます。鶴も、お駒に関連する場面で登場するのです。
── 屋敷にはゼラニウムの花に囲まれた井戸があります。井戸の水脈は血脈の象徴とか、地下を流れて見えないのは居ないことにされた嘉栄の比喩だと言えるでしょうか。
大島 井戸がありそうだとは書き初めに思っていました。でもどのようにあるのかが判らなかった。ただ、嘉栄の存在を隠すために郊外の屋敷に引っ越した所が、大きな井戸があって富士山が見える場所だということは判っていましたし、太平洋戦争の戦禍の状況が想定にあったので自分のイメージに合う場所を調べて選定しました。具体的には書いていませんがモデルとなった場所はあります。
── 年代記的な物語ですが、西暦は使わずに元号を選択した理由はありますか。
大島 あえて決めた訳ではないですが、明治、大正、昭和の時代のうねりを描くには元号が適していると判断しました。また、語っていく豊世にとって、西暦よりも元号の方が身近だと考えて元号を選びました。
── 嘉栄は《魔物みたいな時間の正体を私は知っている》と語りますね。
大島 彼女は生きた時間が膨大なので、たくさんの人の誕生と死を見てきた。人によって早世したり、天寿を全うしたりしますが、過ごした時間の質によって重みが変わっていく。時間は滔々と流れているけれども、密度によって長くも感じれば短くも感じます。見えないけれども人が縛られているものでもあるし、そんなことを考えてみたかったからこの小説を書いたのかもしれません。
── 本書は『やがて目覚めない朝が来る』と響きあうものがあります。
大島 なるほどそうですね(笑)。今言われて気づきました。「asta*」の連載中「今回は前作の『ピエタ』とずいぶん違っちゃったわ」と編集者に話しているときに「『やがて目覚めない朝が来る』に一番近いような気がする」とは伝えていたんです。でも何がどう似ているかは、細部を忘れているので具体的に言えなかった。書いている間は『やがて〜』のことは意識していませんでしたが、作品の持つ空気が一番近いと感じてはいたんです。
── 人物の台詞がカッコで括られる場合と地の文に溶かし込んだ場合と、どんな区別があるのでしょうか。
大島 自分でも峻別の法則を知りたくて考えたんですけど、結局判らないんです。別の作家の方にも「大島さんの書き方には法則があるのかと思ったけど無い」と言われました(笑)。自分の中で生理的に書き分けてしまう。何かリズムがあるんでしょうね。今回の『ゼラニウムの庭』では極端に鉤括弧で括られた台詞が少ないです。自分では気がつかなかったんですが。豊世の語りを伝えることを優先して書いていたらこうなってしまいました。時の流れを綴る年代記のようなこの小説が、この書き方を導いたとも言えますね。
── 「小説」が大島さんに接近して作品が書かれて行くように聞こえますね。
大島 そうですね、それに逆らわないで書くようにしています。逆らわないのは結構怖いんですよ。上手く着地するのかどうか不安ですし。行き先も判らず航路も知らない船に乗っていくようなものです。でもそこで躊躇すると失敗する、ということを長く書いてきたなかで学んだので怖いけど信じて乗る。たとえば先程も出た話ですが、お駒に関連する場面で鶴が登場しますが「何故ここで鶴なんだ」と思うわけです。これを書くか書かないかは分かれるところですが、とりあえず判らないまま乗っかって行くんです。結局鶴がどんな意味を持つのか判らないまま書き終えてしまって、「何だったんだろう、あの鶴は」と思っていたら、ゼラニウムの語源が鶴だったので、やっぱりあの船に乗って良かったんだなと思いました。だから嘉栄の不可解な行動と、その納得の仕方は、私の小説の書き方に近いです。あんな感じですよ。
── では完成稿に向けて、ゲラなどで全体的な調整を施すのでしょうか。
大島 それもあまり直しません。直せないんですよ。一度書いてしまったものを大きく変えるのは苦手です。変更箇所は前後のセンテンスに共鳴しているので、その部分だけを直そうと思っても大掛かりになってしまい、訳が判らなくなってしまうんです。だから出来るだけ決定稿として原稿を提出したいと書いています。あと、小説の中でたくさんの人の死を見つめてきました。私が書くからそのようになってしまうのでしょうね。家族が多く描かれると言われますが、生きることに向かうから出てくるのだと思います。今回も家族を書こうと意識している訳ではないんですが、どうしても出て来てしまうものですね。
── 今後の出版予定を教えて下さい。
大島 十一月にポプラ文庫ピュアフルで『空はきんいろ─フレンズ─』という児童文学が刊行されます。来年は「小説宝石」で連載している連作短編、「ジンジャーエール」での連作小説が書籍に纏まるのではないでしょうか。「別册文藝春秋」での連載も控えています。楽しみにして下さい。
(九月二十一日、東京都新宿区・ポプラ社にて収録)