『等伯』上・下の安部龍太郎さん
インタビュアー 石川淳志(映画監督)
「新刊ニュース 2013年4月号」より抜粋
安部龍太郎(あべ・りゅうたろう)
1955年福岡県八女市(旧・黒木町)生まれ。国立久留米工業高等専門学校機械工学科卒業後、東京都大田区役所に就職。後に図書館司書を務める。1990年『血の日本史』でデビュー。2005年『天馬、翔ける』で第11回中山義秀文学賞を受賞。他著に『彷徨える帝』『関ヶ原連判状』『信長燃ゆ』など。この度、『等伯』で第148回直木賞を受賞。
── 第一四八回直木賞受賞おめでとうございます。
安部 ありがとうございます。三十九歳の時、『彷徨える帝』で直木賞の候補になり、それから十九年経っているのでもう自分にはチャンスはないだろうと考えていました。今回受賞することができ、選んでくれた方々に感謝しております。責任を感じると同時にこの賞を得たことで大きな自信になりました。今まで越えられなかった作家としての山を一つ越えられたような手応えを感じており、今後はもっと伸び伸びと自由に小説を書ける気がします。
── 受賞作『等伯』執筆の動機は何だったのでしょうか。
安部 僕は戦国時代の小説を多く書いてきましたが、戦国武将を描いただけではどうしても見えてこないものがある、というもどかしさを感じていました。戦国時代にはある程度固まったイメージがありますが、それは江戸時代に作られた歴史観に根ざしたものです。しかしこの歴史観には大きな欠陥があるわけです。その一つは鎖国史観です。戦国時代を鎖国史観で捉えていて、外国の影響をほとんど無視した戦国時代史になっている。もう一つは士農工商の身分制度史観です。江戸幕府は農本主義をとって、士農工商という身分制度を作り、商業が一番下に置かれた。そのため、戦国時代の商業や流通への目配りがほとんどない。明治維新後も、鎖国史観、身分制度史観がなかなか是正されぬまま今日に至ります。ずっと書いてきて、その壁は厚いなと思っていました。しかし絵師ならば描かれた絵が現に残っていて、絵と対話することで物語を創り、描いた人の内面や思想、描かれた社会状況を想像することが可能です。江戸時代の史観や時間の隔たりを飛び越えて直接対話できる。それがいつか絵師を書きたいと思った動機です。それを挿絵画家の西のぼるさんに話すと「能登に長谷川等伯というすばらしい画家がいる」と教えてくれた。調べてみると非常に面白い人で、僕が作家としてデビューした年齢と等伯が上洛した年齢が同じであるなど、重なることが多かった。
── 受賞後に「等伯は私だ」と発言しています。
安部 小説家が自分のテーマに向かって一作ごとに階段を上っていくように、絵描きも階段を上りながら苦悩のプロセスがあり、その先につき抜けようとする目標や夢がある。小説家の代表作の主人公が、作家本人を投影した人物になるのは当然だと思います。作中で《愚直なまでの粘り強さにあった》と等伯を評しました。歴史というものは大きなテーマですから、粘り強く時間をかけないと見えてこないものがたくさんある。粘り強さは僕自身がやってきたことでもあるんです。
── 絵画を言葉で表現することも今回の挑戦だったのではないでしょうか。
安部 等伯の資料はほとんど残ってないんです。武家の奥村家に生まれて長谷川家に養子に入り、三十三歳で上京した。そこから五十一歳で大徳寺の金毛閣に絵を描くまでの十八年間の記録が無くて、文書や文献に頼ることができない。ところが幸いなことに七尾時代に絵仏師をしていたころの絵や、本法寺で描いた日堯上人などの絵は残っている。等伯を表現するには徹底的に絵と対峙するしか方法がない。その方法に忠実に従ったことが、絵画を文章で表現することに繋がってくれたのだと思います。僕自身も三年前から水墨画を習い始めて、筆遣い、息遣いなど基本的な技法を身に付けて、等伯がどのように描いたのか、臨場感豊かに描写する努力をしました。
── 『等伯』には妻や息子との家族関係が一貫して書かれています。
安部
この小説の前半のテーマは苦難の中の家族愛です。たとえば等伯の「枯木猿猴図」はお母さん猿が子猿を肩車していて、お父さん猿は木にぶら下がって帰ってきている。等伯は濃密な家族団欒を描く人間なんです。そんな等伯は一緒に七尾を出た妻の「静子」を亡くしてしまう。彼女は七尾で等伯と同じ空気を吸っていた糟糠の妻ですね。喪ったことは等伯の人生でその後の負い目になっている。後添いの「清子」は先進都市・堺の大富豪の娘です。等伯が大きく羽ばたいて成功していくのは、清子さんの力が大きかったろうと思えます。二人の妻のキャラクターの描き別け、二人に助けられた等伯の人生を書きたかったのです。
── 物語は後半に向かい水墨画の極致と言われる「松林図屏風」を描くに至る人間ドラマが描かれていきます。
安部 『等伯』のクライマックスはいかに「松林図屏風」を描いたか、にするつもりでした。どのようなドラマに導くか取材中から随分考えた点です。基点になる息子久蔵の死の背景は、本法寺の言伝えにあります。その歴史的背景と「松林図屏風」の圧倒的な緊迫感と迫力がどう結びつくか。等伯は「松林図屏風」をアグレッシブに描いています。「松林図屏風」に到達した芸術性が、豊臣秀吉の権力を人間的に超えていく。僕たちが今「国立博物館」で「松林図屏風」を見ると、違う世界に連れて行かれるような感じがあります。等伯がこの世の執着を超えて普遍的な世界に行っていないと描けないと思いました。七尾では日蓮宗の絵仏師として作品を残していますし、等伯の人生は法華経を抜きに語れないのです。生家の奥村家、養子先の長谷川家が日蓮宗の門徒ですし、お世話になった本法寺や堺の妙国寺も日蓮宗ですから、「松林図屏風」が達成した解脱感にまで法華経が通奏低音のように響いていたはずです。
── 安部さんが何度も書かれてきた織田信長は、『等伯』で一度だけの登場です。
安部 等伯にとって信長は敵なんですね。琵琶湖を渡る御座船の舳先に立つ信長を見て、等伯は「三世の虚無を渡っていくのだ」と呟きます。仏教の価値観で見れば信長は三ミリ歩いた蟻程度の存在ですが、日本の歴史から見ると大きな存在です。歴史上の人物で日本を変えようと巨大な力を発揮したのは、平清盛、足利義満、織田信長の三人だと考えています。ところが信長の人物像、これが判らない。非常に優しい面もあるかと思うと、二万人を焼き殺したりする残虐性も秘めている。これをどう捉えたらいいのか。歴史小説家、歴史学者皆さん同じ迷いを持っていらっしゃるはずです。けれども、この信長をちゃんと書ければ日本のことがはっきり判ってくるような思いがあります。これからも挑戦したい人物ですね。
── 信長がイエズス会を保護した理由に《彼らの背後にいるポルトガルと友好関係を保ち、堺での貿易を円滑におこなう目的があった》とあります。
安部
鉄砲伝来から徳川幕府の鎖国まで九十年の時間がある。この間、世界は大航海時代に当たり、日本はグローバル化の波に晒されていました。結果としてポルトガルを通じて西洋の文物が入り、イエズス会が信仰と最新の学問を持ってきていた時代だったわけです。たとえば「信長は鉄砲の大量使用で天下を取った」が共通認識ですが、火薬の原料の硝石や鉄砲玉の鉛、砲身の内側の鋼などはほとんど輸入なんです。その輸入を押さえていたのが堺の商人たちでした。そのような流通や国際情勢を見ないで戦国時代を語ることは、現代の日本を石油の輸入やアメリカとの関係も無視して語るようなものなんです。僕には偏った歴史観を是正したいという思いがある。それは『レオン氏郷』という蒲生氏郷を描いた小説でもチャレンジしています。
── 『等伯』に登場する近衛前久は、信長を潰そうと計略したり、信長と「莫逆の友」になったりして、公家のイメージを変える人物でした。
戦国時代、朝廷や寺社が隠然たる勢力を持っていたことは歴史の事実なんです。しかしそれらの勢力の動きは物語になかなか現れない。織田家や豊臣家は力を失って久しいのですが、近衛家は現在でも権威をもっている。信長や秀吉より、近衛前久の方が勝者≠ナはないかとも言える。日本の権力は、武力だけではなくて文化や信仰などを政治に取り込むことで続いてきたのですが、そこを触れないのは非常におかしいと思っています。僕は近衛前久が好きで何度も小説に登場させています。
── 戦国時代の魅力はどこにあるとお考えですか。
安部 皆が命がけで戦っていたことでしょうね。その中でこそ見えてくるドラマがある。家族愛、主君と家臣の関係、領民との関係、大名同士の関係など鮮明で曖昧さがない。人間の生き様のベースを通じて日本人の姿が見えるような感じがする点です。
── 今後の予定を教えてください。
安部 今後二年から三年は東北を舞台にした小説を二つ書きます。一つは、二本松藩で戊辰戦争を戦った、藩士・朝河正澄と息子の貫一の物語です。戊辰戦争とはなんだったのか、明治維新とはなんだったのか、と問い掛けをする物語です。もう一つは、秀吉の「奥州仕置」のときに九戸政実が九戸城に立て籠もって反乱を起こす「九戸政実の乱」を題材にした物語です。奥州と秀吉の大義がぶつかり合う筈です。この二作で、日本人にとって東北とは何か、東北の人にとって日本とは何かという問題を根本的に考えてみたい。3・11以降の奥州復興の遅れに対して一石を投じたい思いがあります。どうぞご期待ください。
(二月八日、東京都千代田区・日本経済新聞出版社にて収録)