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『キアズマ』の近藤史恵さん
インタビュアー 石川淳志(映画監督)


「新刊ニュース 2013年7月号」より抜粋

近藤史恵(こんどう・ふみえ)

1969年大阪府生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒業。1993年『凍える島』で第4回鮎川哲也賞を受賞しデビュー。2008年『サクリファイス』で第10回大藪春彦賞受賞。著書に『エデン』『サヴァイヴ』『砂漠の悪魔』『タルト・タタンの夢』『天使はモップを持って』など多数。この度、新潮社より『キアズマ』を上梓。

キアズマ

  • 『キアズマ』
  • 近藤史恵著
  • 新潮社
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サクリファイス

  • 『サクリファイス』
  • 近藤史恵著
  • 新潮社(新潮文庫)
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エデン

  • 『エデン』
  • 近藤史恵著
  • 新潮社(新潮文庫)
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サヴァイヴ

  • サヴァイヴ
  • 近藤史恵著
  • 新潮社
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三つの名を持つ犬

  • 『三つの名を持つ犬』
  • 近藤史恵著
  • 徳間書店(徳間文庫)
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モップの精と二匹のアルマジロ

  • 『モップの精と二匹のアルマジロ』
  • 近藤史恵著、村松 誠画
  • 実業之日本社(実業之日本社文庫)
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天使はモップを持って

  • 『天使はモップを持って』
  • 近藤史恵著
  • 文藝春秋(文春文庫)
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── 自転車ロードレースの世界を舞台にした長編小説『サクリファイス』が好評を博し、続編の『エデン』『サヴァイヴ』に続くシリーズ第四作『キアズマ』がこの度上梓されました。まずは『サクリファイス』執筆のきっかけを教えて下さい。

近藤  私は今までスポーツ小説を書いたことがなかったのですが、元々自転車ロードレースが好きで、DVDを買ったりして熱心に観戦している時に「これ、ミステリにならないかな」と思って『サクリファイス』を書きました。主人公の白石誓は、自転車ロードレースでは「エース」を勝たせるために走る「アシスト」という役割です。私の書く小説の登場人物は内にこもるタイプが多くて、『サクリファイス』でも内省的な主人公を造形しました。

── 『サクリファイス』は第十回大藪春彦賞受賞、第四回本屋大賞第二位を獲得しました。近藤さんのキャリアでエポックメーキングといえる作品になったのではないでしょうか。

近藤  受賞についてはびっくりしましたが、これまでの作品とそう違いはない認識です。ただ「スポーツ小説」にしたことで、私の他の小説が持っている暗部≠ェ緩和され、多くの人たちに受け入れられたのではと思います。以前から私の作品を読んでいる読者の皆さんは「なぜ『サクリファイス』だけが売れるのか納得がいかない」と言って下さいます(笑)。けれども評価を受けたおかげで書き続けられる環境が整ったとは感じています。

── 続く『エデン』は、誓が移籍したフランスのチームから出場する「ツール・ド・フランス」で戦う三週間の物語です。

近藤  『サクリファイス』が思っていた以上に評価されて、続編の話は早い段階で頂きました。でも『サクリファイス』は完結した物語だったので、続編はすぐには思いつかなかったのです。そんな中、「ニコラ」というツール・ド・フランスで二十年ぶりにフランス人の総合優勝者と期待される人物が浮かび、誓の物語であると同時にニコラの物語にすれば続編として成立すると思いました。『サクリファイス』はたまたま構造的にスポーツ小説とミステリが両立できた幸運な例です。しかし『エデン』ではどちらかを優先しなければいけない、ミステリ要素は多少減らすだろうと予想はしていました。実は構想では「殺人事件」を設定していましたが、レースの駆け引きや流れを損なうし、人物の心理の推移を考えて書籍の状態に着地しました。

── 三作目『サヴァイヴ』では、一転スピンオフ的な『サクリファイス』の前日譚、『エデン』の後日譚が描かれる短編集です。

近藤  『サクリファイス』の中でも一番好きなキャラクターが「赤城」でした。『サクリファイス』で書けなかった赤城と石尾の過去を書きたかった。誓のように最初から割り切ってアシストに務めるのではなく、平均的なスポーツ選手の心理に近い人物が赤城です。そんな彼が、天才の石尾に出会って何を考え、どのようにアシストを選んでいくかを考えていきました。「Story Seller」誌に一作書いてみると、すごく書きやすくてその後二作続けました。赤城は『キアズマ』にもゲストで登場しています。

── 今作『キアズマ』の舞台は大学の自転車部になりました。

近藤  『サクリファイス』から『サヴァイヴ』に至ると、誓がどんどん凄くなって世界の大舞台であるグランツールに出場しています。それは書いていて楽しいんですけれど、日本で頑張っている選手がいるのに世界しか見ていないのはどうなのか、という疑問がありました。それから、読者の方が、自転車ロードレースの観戦だけではなく実際に走ってみよう、と思える小説を書きたかった。そうなると実業団の選手か大学自転車部が浮かび、大学なら初心者がいきなり始めても話としても無理はない、と構想を固めていったんです。

── 「ぼく」の一人称で語っていた誓と違い、『キアズマ』の主人公の岸田正樹は「俺」と語りますね。

近藤  スポーツを題材とした小説や漫画は類型的なキャラクター、たとえば「ヘナチョコが努力で強くなっていく」とか「無軌道だけど天才肌」といったような設定がされていて、それが面白さに繋がっていると思います。『キアズマ』では、あえてそういった設定から抜け落ちる主人公にしたかったんです。正樹は身体が大きくて、柔道の経験があり、体力には自信がある。性格は少し内省的で、でも誓ほど自分の内面を意識してはなく、モテたい気持ちも目立ちたい気持ちも適度にある普通の男子です。

── 自転車部のエース、櫻井元紀はキャラクターが立っていますね。

近藤  私は大阪人でネイティブのヤンキーことばはリアリティを持って書く自信があり、正樹とは対照的に櫻井はヤンキーにしました。そうすると最初の登場から得体の知れないガサツな奴だと読者の印象に残ります。彼の過去や仲間に隠している秘密はプロットを立てた時に考えていました。それを煙幕のように隠す人物です。人間は多層的ですし、イメージがどんどん付加されていくキャラクターですね。すぐ暴力でコミュニケーションを取ろうとするところとか、櫻井は可愛いですよ。書いていて楽しかったです。櫻井の気持ちは正樹に伝わるものがあるし、正樹も櫻井に何か伝えるかもしれない、という物語を目指しました。

── 『キアズマ』という題名は生物学用語で、そのX字形は人が生きる中で誰かと出会う象徴なんですね。

近藤  はい。人と人が出会って、何かを渡されて、新たに何かがが生まれる。それが永久に伝達されていくイメージです。『キアズマ』の登場人物だけでなく、誓もそうです。これはスポーツに限らず、強い意志を持って臨む物事には交わるはずのないものが交わり、気持ちが交差して受け継がれるものがある筈です。

── 「走ることが櫻井の中で祈りに近い意味を持つ」というくだりがあります。これは櫻井に限らず誓やシリーズすべての人物にいえますね。

近藤  私は基本的にスポーツをしない人間なので、スポーツへの共感度が薄いというか、走りたいとか体を動かしたいとか、そういう気持ちがあまり判らないのですが、静かに行為を続けることによって背負ったものを昇華させることは祈りに向かうのでは、と考えました。

── 描写についてお尋ねします。読んでいると風圧の壁、風が汗を飛ばしていく爽快感、速度など実感が湧くのは取材の結果でしょうか。

近藤  申し訳ないことに、私は体質として取材をしない書き手なんです(笑)。ただ、私もポタリング程度で自転車に乗りまして、しんどい時や気持ちのいい時があるので、そこからプロの走行を推察しています。レースの観戦はしますがテレビで見る方が好きですし(笑)、聞くと書けなくなるので選手に取材もしません。

── このシリーズには絶対的な「無垢」があり、いずれの作品も後味が爽やかです。一方で近藤さんには歌舞伎の世界に材を得た小説や、人間の悪意や世界の暗部をえぐる映画監督のミヒャエル・ハネケが好きだという発言もあります。

近藤  私のスポーツ小説は、作家としての特性もあるのでしょうけれど、死の香り≠ェ強いのではないかと思います。キャラクターや題材のおかげでそういった部分が和らいでいるだけで、自分では他の作品と違うという意識はありません。スポーツが持っている汗とか努力や達成といったイメージが、私の小説の暗い部分を緩和しているのでしょうか。

── 過去のインタビューで、大学時代に「月蝕歌劇団」に所属し「ステージにも三、四回出ました」とあります。

近藤  俳優の経験からくる身体性がスポーツ小説を書く上で役立っているとは思います。また、演劇は自分が好きで始めたことであるのに、挫折も経験しました。外圧ではなく、自分が目指す場所にいけない、趣味としてもやっていけない限界を感じて辞めました。『サクリファイス』にも描いた、天賦の才に努力が届かないエピソードは、こうした演劇の体験から来ていると思います。

── 近藤さんの作品はどれもリーダビリティが高く、たちまち作品世界に没入できます。秘訣があるのでしょうか。

近藤  読者としては、入り組んだゴージャスな文章を読むのは大好きなんですが、文章を書くときは一度読んだときに考えないと意味が入らない語句はなるべく使わないようにしています。文学的な描写の文章も考えながらも、読者が意識をせず、すんなり入っていける文章を心掛けています。

── 近藤さんは一九九三年『凍える島』でデビューしました。キャリアが二十年を経て多作の作家ですね。

近藤  気が付いたら二十年経っていました。感覚的には、まだキャリア五年の新人のつもりです(笑)。作品に関して言えば、そもそも物語を空想するのが好きなんです。他の作家の方もやってらっしゃると思いますが、発表の当てもないのに小説をちょこっと書いたりしています。これは私にとってはご飯を食べたり寝たりすることと同じ、普通のことなんです。でもクオリティは問題ですけれど(笑)。

── 『サクリファイス』シリーズは続編の構想はありますか。

近藤  いずれ、もう一度誓を書きたいです。正樹と櫻井の物語も途中なので、今後何かに巻き込まれていくはずです。

── 今後の具体的な出版の予定は。

近藤  六月に『猿若町捕物帳』シリーズの新刊が出版されます。それから「野性時代」に連載中の老犬ホームを舞台にした『さいごの毛布』が今年の末くらいに上梓できるはずです。長いスパンで言うと、私の小説は二、三か月の期間を書いていることが多く、『エデン』は三週間ですし、『キアズマ』も大学四年間を考えていましたが結局一年の物語になっていますので、いずれ一冊の中で何十年という長い時間を抱える物語を書きたいと考えています。楽しみにしていてください。

(五月九日、東京都千代田区にて収録)