『ホテルローヤル』の桜木紫乃さん
インタビュアー 石川淳志(映画監督)
「新刊ニュース 2013年10月号」より抜粋
桜木紫乃(さくらぎ・しの)
1965年北海道生まれ。2002年「雪虫」で第82回オール讀物新人賞受賞。2013年『ラブレス』で第19回島清恋愛文学賞受賞。他著に『風葬』『凍原』『恋肌』『硝子の葦』『無垢の領域』などがある。この度、『ホテルローヤル』で第149回直木賞を受賞。
── 第一四九回直木賞受賞おめでとうございます。受賞のご感想をお聞かせください。
桜木 ありがとうございます。いつも目の前の坂を一つ一つ精一杯越えている状態なので、受賞に関しても坂の一つ、坂の途中だなぁ、という感じです。このたびのことで『ホテルローヤル』が一人でも多くの方に届くきっかけになれば嬉しいです。
── 受賞作『ホテルローヤル』はラブホテルを舞台にオーナー家族や従業員、客たちの人間模様を綴った七つの短編連作集です。
桜木 受賞会見では「ラブホテル」の娘ですと口にしました。この本を出したからには特別隠す必要もないし、何故ここを舞台にと訊かれたときに逃げるのも嫌だった。「古い」「貧乏くさい」と言われますが、ずっと好きで読んできた小説に対する尊敬もあります。それを自分でも、という気持で七作揃えました。
── 個々の短編小説についてお尋ねします。初めに書かれたのは廃墟になったラブホテルで投稿用のヌード撮影を行うカップルの物語「シャッターチャンス」です。
桜木 雑誌に発表した時は「ホテルローヤル」という題名でした。編集者から「廃墟でヌード撮影」というお題が来たんです。実は実家のラブホテルが『廃墟の歩き方』に載ったらいいと思っていたほど廃墟が好き。ラブホテルの廃墟は通り過ぎた人の多さからか、殊更うらぶれ感が酷くて特別の空気を持っているのではないかと思って、実家の名前をそのまま使いました。誠実じゃないとも言いきれない貴史、彼の世界には自分しかいない。そこに都合のいい存在の美幸がいて、美幸も自分なりに決定打を打とうか打つまいか迷っている。お互い何かを勘違いしたままということはよくあることで。冷めたまま結婚するかもしれないし、別れるかもしれない。それを書き手が特別にラストで提示する必要はないです。
── 次いで書かれたのが「えっち屋」ですね。
桜木 「ホテルローヤルに絡めて時間を遡ってみましょうか」と提案されました。アダルト玩具販売のえっち屋という仕事があると話すと「書いてみましょう」と決まったんです。ここでは、経営を任されていた雅代がホテルを捨てて出て行くときに良いきっかけになるような「えっち屋」を造形しました。ホテルが廃墟になった理由を二作目で提示したんです。
── 次は「星を見ていた」です。
桜木 ミコはラブホテルの従業員で、一日中働きずくめで食事は三つのおにぎりで済ますような生活です。ミコのような女性は実際にいると思っていて。これでちょっと私の書くものの流れが変わったんですよ。このお話を提出する時が一番勇気が必要でした。これがボツだったら物語に対する考え方をもう一度勉強し直しだと覚悟して送った原稿が、初めて何の改稿もなかったんです。その場所その場所で一所懸命な人を書いていければいいな、と。ミコちゃんは自分が一所懸命であることに気がつかない人なんですけれど。
── そして親の新盆に住職が来ずに、残されたお布施で夫婦でホテルローヤルに入り休憩する「バブルバス」が書かれました。
桜木 これもあまり直さずにスッと通ったんですよね。「星を見ていた」が通ったことで担当編集者にエロスや官能描写という拘りがないことが判り、お互いに疎通ができて少しパイプが太くなったような気がしてきたんです。
── 真一が、ホテルのバブルバスを使うと匂いで子供たちに判るのではないかと躊躇するところで、妻の恵は「わたしは、気づかなかったよ」とつぶやきます。
桜木 真一の浮気があってもなくてもいいけれど、妻がそこを「もしかして…」と疑うことがすべてなんですね。疑ったことをダラダラ書くとそれがあったことになってしまうので、一瞬通り過ぎるだけでいいんです。もし夫が浮気をしていたとしても気が付かなかったよ、とひとこと言う妻、そしてその言葉に夫が気づかない、そんなことはよくあることだと思います。ここは自分も好きな所です。この二人こそ「ザ・夫婦」と思って書きました。親が死んで流した涙に嘘はないけれど、通り過ぎていく。悲しみよりも優先される日常がある、だから夫婦だし長くいられるんだろう。生活ってそういうことだと思います。
── 続く「せんせぇ」は二十年に及ぶ妻の不貞を一年前に知った高校教師と両親に捨てられた女子高校生・佐倉まりあの物語です。
桜木 自分でこれが書きたいというものはないんです。編集者からお題を与えられる、相手はそのお題で読みたいのだからそれに応えていくことに価値があると思います。「えっち屋」で心中した教師と女子高生に触れていて、あの二人を書かないかと提案されました。高校教師と女子高生だったら野島伸司脚本、真田広之主演のドラマ「高校教師」が大好きで繰り返し見ていたので、あの作品を自分で書くとどうなるか、と考えました。私はよく、既成の映画を自分が書くとどうなるかな、と考えます、たいがい貧乏臭くなっていくんですけど(笑)。桜木版「高校教師」で主人公の名前は野島広之です(笑)。
── 札幌のビジネスホテルで野島とまりあは一夜を明かしますが、行き場を失った二人が身体を重ねることはないのですね。
桜木 そこはないです、もう一度書き直せと言われてもそこで二人はしない。そこに快楽のある男なら彼女の絶望に引きずられずに生きていきますよ。書き手と編集者の美学でこの作品だけはホテルローヤルは登場しません。この二人がホテルローヤルに辿り着き、いろんなものが狂い始めてきたことが暗示できればそれでいいんです。
── 続くのはホテル開業の背景を描く「ギフト」です。
桜木 田中大吉と愛人のるり子の物語です。雅代が生まれる前提で書かなきゃいけなかったり、湿原を見下ろす高台にホテルを建てた経緯など背景を埋めていきました。どうしてゼロ資金でスタートすることになったのか、こんな無謀なことをする大吉は底抜けの馬鹿でなければいけない。大吉はだらしない訳でも情けない訳でもないんです。「ギフト」で破滅願望もなく破滅していく奴を書けたような気がして、自分の中では新しいキャラでした。私小説ではないから父とは違う人物を書いたつもりなのに振り返ると大吉は何となく父っぽいんですよね(笑)。
── 本に纏めるにあたり「本日開店」を書き下しされました。
桜木 これは書くのが大変でした(笑)。細部を埋めて調整しなきゃいけない制約があり、大吉の行く末もアプローチしなければならなくて、三回くらい違う話に書き直しています。後妻の幹子が、寺の維持のために檀家の老人たちに体を提供する物語です。こんなインモラルな設定なもので、あんまり賞とか評価とか、考えなかったですね。ただ、最後に幹子が腹をくくって半歩なり一歩なり進むようなラストになったかな、と。それが良い悪いではなく、そもそも良い悪いの判断は私がしてはいけないと思うので、そうやって生きていく人もいるかもしれない、と続いていく話になったと思います。
── 七作のうちで愛着がある作品はありますか。
桜木 どれも一所懸命書きました。いつも最後のゲラチェックで客観的に文章を見るようにしているのですが、「バブルバス」の最後の方でグッと引き込まれる瞬間、書き手じゃなく読者になってしまう瞬間、何となく身につまされる感覚があったので、良い写実、良い物語ができたかな、と思います。
── 現在、受賞第一作『無垢の領域』が書店に並んでいます。純香という人物の無垢さを前に、宙吊りのように生きていた兄の信輝、書道家の秋津、秋津の妻の玲子の本質が露わになっていく長編小説です。
桜木 ドストエフスキーの『白痴』が意識のすみにありました。私は翻訳小説が苦手で読まないのに『白痴』だけは読んでいて。あの世界を書いてみたかった。「死刑宣告による殺人は強盗殺人に比べて釣り合わぬほど恐ろしい」という台詞があって、何故かそこだけ記憶に残っていました。正直、執筆はきつかったです。過去に編集者から、十枚書くと場面を転換する癖を指摘されていて、じっくりと耐えて書き込みました。物語を進める前に人物を掘り下げたんです。
── 桜木作品では流れ者だったり旅芸人だったり、自らを旅行者とする人物が登場しますね。
桜木 みんな頭で考えていることと、普通に送っている生活とは違うと思う。私は家の中にいるのも家族と一緒にいるのも好きなんですが、体は同じ場所でも、いつもどこか頭の中は浮遊している。帰りたい場所があるひとが逆に、現実の生活を捨てる場合もあるんじゃないかと思います。
── 桜木さんが「ゴールデンボンバー」ファンであることは受賞会見で有名になりましたが、そのほか椎名林檎さんや極道映画、作家では花村萬月さんや西村賢太さんへの憧憬も語っていて興味の対象が多岐にわたっていますね。
桜木 ジャンルは一見バラバラですがみなさん潔いです。潔い人が好きですね。人としての佇まいのいい人、いい曲、それから腹を括った人が好きです。
── 改めて受賞を振り返るとどんな感慨でしょうか。
桜木 どこからどう転がっていくか判らない物語を書いていたら書き手の自分が一番転がっていたという変なオチが付いた夏になりました。ここにいてはいけない、ここに縛られてはいけないと思う性分です。受賞は良い誤算で、欲をかかないことは良いことだと身をもって体験しました。近々の予定では十月に双葉社から『蛇行する月』が刊行されます。
(八月二十六日、東京都千代田区・集英社にて収録)