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『春の庭』の柴崎友香さん
インタビュアー 石川淳志(映画監督)

「新刊ニュース 2014年10月号」より抜粋

柴崎友香 (しばさき・ともか)
1973年大阪府生まれ。大阪府立大学総合科学部卒業。1998年「トーキング・アバウト・ミー」で第35回文藝賞最終候補。99年「レッド、イエロー、オレンジ、オレンジ、ブルー」が「文藝別冊」に掲載されて作家デビュー。06年『その街の今は』で第23回織田作之助賞大賞、07年同作で第57回芸術選奨文部科学大臣新人賞、10年『寝ても覚めても』で第32回野間文芸新人賞受賞。07年『その街の今は』が第136回芥川賞候補、「主題歌」で第137回芥川賞候補、10年「ハルツームにわたしはいない」で第143回芥川賞候補となる。他著に『ドリーマーズ』『また会う日まで』『きょうのできごと』などがある。この度「春の庭」で第151回芥川賞を受賞。
  • 第151回 芥川賞受賞作
  • 『春の庭』
  • 柴崎友香著
  • 文藝春秋
  • 『星よりひそかに』
  • 柴崎友香著
  • 幻冬舎
  • 『週末カミング』
  • 柴崎友香著
  • KADOKAWA
  • 『わたしがいなかった街で』
  • 柴崎友香著
  • 新潮社
  • 『虹色と幸運』
  • 柴崎友香著
  • 筑摩書房
  • 『ビリジアン』
  • 柴崎友香著
  • 毎日新聞社
  • 『よそ見津々』
  • 柴崎友香著
  • 日本経済新聞出版社

── 第一五一回芥川賞受賞おめでとうございます。

柴崎 ありがとうございます。大阪や東京でサイン会があり書店様も回らせていただき、たくさんの方が読んでくださって反響が大きいことを実感しています。

── 受賞作『春の庭』は、都内の取り壊しが決まっているアパートに住む太郎や西たちと、過去に「春の庭」という写真集になった、アパートの窓から見える水色の洋館にまつわる物語です。執筆の動機を教えて下さい。

柴崎 元々自分でも写真を撮るのですが、写真を見るのも好きです。写真家の方がご自身の家族や家庭を撮ったプライベートな空間の写真集の中に、特に荒木経惟さんが自宅で妻を何年も撮影した写真とか藤代冥砂さんの『もう、家に帰ろう』という、これも妻を撮り続けた名作があるんです。私は三十歳まで大阪で暮らした後、東京の世田谷に引っ越しをしたのですが、どちらの家もたまたま世田谷区にあったので、あの写真の中の家は近くなのか、と散歩をしながら想像していました。東京以外から来る人にとって東京≠ヘ新宿≠ニか六本木≠ニいうような、テレビや「作品」の中の場所という印象がまずあり、住んでみると実際の生活の場としての東京≠ニ、フィクションやイメージの街が重なり合ったり混ざり合ったりしながら、住む人それぞれの東京があることが面白いなと思っていて、写真集の家が近所にあったら気になると思ったことがきっかけです。そこから、街と人の暮らしというか、一つの場所にいろいろな人が入れ替わり立ち替わり暮らしてきて、それが長い年月積もっている、一つの場所に染みついている人の記憶を辿りたいと考えました。

── この作品は仕上げるまでに時間がかかったそうですね。

柴崎 二年近くかかっています。一番大きな問題は視点をどこに設定するか、でした。「ある家に興味を持って、そこに入りたいと思っている人物の話」を考えていたんですが、やはり視野が狭くなってしまって、特に「人の家に入りたい」というのは誰もが共感できる欲望ではないので(笑)、もう少し形式を変え、その人を中心としながら距離を作ろうといろいろなやりかたを試しました。それである家を見ている人≠、さらに見ている人物として「太郎」を登場させ、彼の視点から書こうと決めました。それからようやく回り始めていったんです。

── 登場人物の履歴は詳しく書き込まれていますね。

柴崎 最初に人物の経歴、どういう所で生まれ育って、どんな仕事をしているのか、ということは人物を形作っているものなので、いつもある程度考えています。それから性格だとか細かい仕草や話し方、癖などは書きながら見えてくるものがあります。

── 太郎の視点に西の視点が挿入される三人称の話法に、後半「わたし」の一人称が侵入する語りを持ってきた理由は何ですか。

柴崎 一つはいつも小説を読んでいると、聞いてもいないことを延々と説明していて「これは誰が誰に、何のために語っているのだろう」と「小説」は変な形式だな(笑)、不思議な形式だな、と思っていました。そういう風に小説の語りは元々不自然といえば不自然なものだけれど、不自然さを感じないようにたいていは書かれています。世界を一つの視点で客観的に把握するのは難しいという思いもあって、後半、急に視点が変わる事で「誰が誰に語っている話なのか」揺らぎを感じてもらえばと思いました。私は小説の中の世界と自分がいる現実が繋がっていると思っていて、二つの世界が繋がるような通路ができればいいとも考えました。それから、西さんを観察する太郎、さらに外側の視点人物が来ることで、東京の片隅の小さなアパートの、さらに外側の広い世界を提示したかったというのもあります。太郎は東京で標準語を話していますが、姉の「わたし」が登場することで急に大阪弁で喋り、弟として振る舞う、その変化も書いてみたかった。人間って人間関係の数だけその人の顔があるというか、職場の顔、友達といる時の顔、家族といる時の顔、それぞれ違うと思います。私自身、大阪から出てきて大阪の文化や言葉、風景を持ちつつ普段は東京にいる人と同じように暮らしているわけです。自分がそうだということは他の人もそれぞれの文化や歴史を心の中に持ちながら生活している、それが東京、都市という場所なんだと思います。

── 太郎はサッシのレールの隅に小さな「トックリバチ」の巣を発見します。

柴崎 大きいものも小さいものもきりがないんですね。トックリバチの小さい巣があり、アパートの部屋があり、アパート全体、その街、最後は宇宙から地球を俯瞰したような視点がありますけれど、その世界が入れ子になっているというイメージはありました。小さいトックリバチの巣の中にも生命の一生が詰まっていて、それら集合として街があるというイメージで書きました。

── 物語の中盤で太郎は「都内で不発弾処理」のニュースを見ます。

柴崎 私の小説はよく「事件がない」とか「何も起こらない日常」を描いていると言われますが、私自身はそう捉えてはいません。何も起こらないということは「まだ起っていない状態」であるだけで、これから起こる可能性が続いている状態だと思います。不発弾は爆発する可能性があるけれども、埋まっていて何もない、人は平穏なまま暮らしているわけです。常に爆発する可能性を秘めたまま、何十年という月日が何もないまま過ぎている、日常とは一体何なのだろうということを不発弾が象徴しているのかもしれません。

── 不発弾は『わたしがいなかった街で』でも扱っていた、現代に影を落とす「戦争」を想起させます。

柴崎 戦争は自分の中で書き続けたいテーマです。『春の庭』では前面に出ていませんが、今の暮らしの表面では見えにくくなっているかも知れないけれど、現代の社会を考える上で戦争を抜きにできないので、ちらちら顔を出しているのかなと思います。

── 芥川賞の受賞会見で「誰かの存在、関わり合うことのない人の存在を実感できることに私はひかれる」と発言されています。

柴崎 太郎が、アパート古参の住民の「巳さん」から自分の部屋の前の住人について聞き、太郎は「そんな人が住んでいたのか」と思ったり、水色の家には「馬村かいこ」と「牛島タロー」が住んでいたり、もっと広く捉えれば街全体に今までそこに暮らしてきた人とか、過去にこの道を同じように歩いた人がいたんだろうなとか、そういう感じでしょうか。

── 柴崎作品では不在の人物が登場人物や作品世界を響かせています。

柴崎 太郎の亡くなった父や、西さんにも野球の特訓を受けた父親がいましたし、前はこの場所にいた人、前は近くにいたけど今は会えない人、現実の世界でも亡くなった人もいれば、ずっと会えない人もいて、自分自身過去の風景や今は無くなってしまった風景を抱えていたり、そうやって生きていくのが人間なのかなという思いがあり、そんな人たちが寄り集まって暮らしている感じを、小説という形で書けたらいいなと思います。

── 『春の庭』のキーワードに「埋める」「埋まっている」があると思います。反対に太郎が「見上げる空」もキーポイントですね。

柴崎 一つの場所は空間的にどこかに繋がっているし、時間も辿ってきた過去があり、これからも過ぎていくわけです。一つの場所は必ず縦軸と横軸があるというか、繋がっていて広がっていくんだという、想像を伸ばすことができるというのは書きたいことの一つではあります。小説という形の中でどうすれば時間や過去が書けるのかはいつも考えています。最近、時間は場所と似ているなと考えていて、その時は行けたけれどもう二度といけない場所、それが過去なのかなと思う。二度と行けないけれども行きたい、見たい、知りたいというのが人間の手放せない願望ではないか、と強く感じています。

── カメラアイのように観察して描写するのが柴崎さんの小説作法だと思えますが、読後は抽象的で謎めいているのは何故なのでしょうか。

柴崎 全部を説明しすぎないように意識はしています。読者がそれぞれ感じて下さればいいと。作者自身にもコントロールできていないことを書きたい。ある程度余地が残っているほうがいい。写真はキャプションを付けたり、映像だとナレーションやテロップを付けたりしますが、写真や映像それ自体は何も説明しないですよね。クリアでありながらすべてが判らないのが映像や写真で、それが私の小説にも反映されているのかなと思います。現実を書きたい、表面を書きたいというのがあって、過剰に意味づけをしたくない。とにかく私は見えることを見たままに書くことを徹底したい、と考えています。

── 今後の予定はいかがでしょうか。

柴崎 九月に『きょうのできごと』の続編『きょうのできごと、十年後』が単行本で出ます。それから去年から今年の前半に「群像」で連載していた『パノララ』が年明けに刊行される予定です。ご期待ください。

(八月八日、東京都千代田区・文藝春秋にて収録)

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