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『爪と目』の藤野可織さん
インタビュアー 石川淳志(映画監督)


「新刊ニュース 2013年10月号」より抜粋

藤野可織(ふじの・かおり)

1980年京都府生まれ。同志社大学文学部卒業、同大学院文学研究科美学芸術学専攻博士前期課程修了。2006年「いやしい鳥」で第103回文學界新人賞受賞。2008年、同作を収録した『いやしい鳥』を刊行。他著に『パトロネ』がある。この度、『爪と目』で第149回芥川賞を受賞。

爪と目

  • 第149回 芥川賞受賞作
    『爪と目』
  • 藤野可織著
  • 新潮社
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パトロネ

  • 『パトロネ』
  • 藤野可織著
  • 集英社
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いやしい鳥

  • 『いやしい鳥』
  • 藤野可織著
  • 文藝春秋
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── 第百四十九回芥川賞受賞おめでとうございます。

藤野 ありがとうございます。戴いたことは嬉しいのですが、実は未だあまり実感はないままです。いつものように家でエッセイを書いたりしている日々で、これまでと変わったという感じはあまりないです。

── 受賞作『爪と目』は「わたし」が、父の不倫相手で母の死後に再婚する相手を「あなた」と呼びかけていく物語を緻密な文章で綴った小説です。どのような発想で書かれたのでしょうか。

藤野 平凡な人の平凡な所、感受性が強くて傷つき易いタイプではなくて、どちらかというと鈍感で逆に周りを傷つけてしまう程の強さを持っている、そんな側面を持つ人の生き残り方を書きたいと思いました。恋愛を描くことも発想にありましたが、今まであまり書いてこなかったからか、普通のこととして恋愛を書こうと思っていたら不倫の話になってしまったんですけど、不倫もよくあることなので「これでいいや」と思ってそのまま書きました。

── 「わたし」が「あなた」について語る現在のスタイルに到達するまで試行錯誤があり、それ以前は三人称の語りだったそうですね。

藤野 最初は「あなた」と言われている人物に寄り添う三人称でした。「麻衣は」とか「彼は」とか「子供は」とか書いていたんです。しかし、話自体は単純で平凡なもので、その平凡さや鈍さというものが誰にでもあること≠ニして上手く書けていないと感じました。また、現代の物語として、「麻衣」や「陽奈」と名前をつけたんですが、ある種の普遍性を持たせたいと思った時に、名前を連呼するように書くとどこか違和感がありました。でも人物に名前は必要で、現代の物語であるということは押さえておきたい点でした。試行錯誤する中で「あなた」と「わたし」を地の文で主語を連呼する形が浮かんで巧くいきました。「あなた」と対応させるために「私」を平仮名で表記したのです。

── 読み進めれば三歳の「わたし」ではなく、何十年後かの「わたし」の視点だと気づきますが、さらに「わたし」の知りえない事柄の記述もあります。

藤野 三人称で書いている時は、現在進行形の物語になってしまったのですが、「あなた」と書き始めてから自然に時間の幅を書くことができたんです。「あなた」と呼びかけていますが、完全な二人称ではなく「わたし」という一人称があり、「わたし」の内面や知っている事実よりも「あなた」という人に詳しい「わたし」として書いています。何故かというと「わたし」と「あなた」は全く違う人間で、尊敬しあっている訳でも慈しみ合っている訳でもない関係なのに、それでも同じような鈍さとかふてぶてしさのある同じ穴の狢≠ナあることは強調したいことだったからです。皆似たり寄ったりの、平凡な人同士の話を書きたかった。「あなた」は普通の人で、なおかつ普通に人でなし≠ナあるにも関わらず、「わたし」の気持ちを尊重している点もあることも示しておきたかった。別に「あなた」には悪意はないんです。他人を傷つけてしまうような鈍さというのが悪意の上に成り立っているのではないので、登場人物の性格や振る舞いについて良いとか悪いとかの評価を、小説の態度として示すことは一切したくなかったんです。

── 「わたし」の母がベランダで死亡する原因に「わたし」が関わっているのかどうか、曖昧にしてありますね。

藤野 小説の中での事実としてこういうことがあったんだときちんと決めていて、読みようによっては判らなくもないようにはしています。これは「わたし」の知っていることよりも「あなた」が知っていることに重点を置いて人称を使いその文法に則って書いているので、「わたし」の知っていることでも「あなた」が知らないことだったら判らないこととして書きました。

── 「あなた」が偶然見つけた「架空の独裁国家を舞台にした幻想小説」の一節は認識論でありラストシーンへの布石も兼ねていますね。

藤野 そこには独裁者の忠告として《あんたも目をつぶってみればいいんだ。かんたんなことさ。どんなひどいこともすぐに消え失せるから。》等々と引用されています。ここは小説をある程度完成させたときに最後まで空いていた部分で、既存の小説の印象的なくだりを入れることを検討したんですけど、どれもぴったり来なくて結局私が書いてしまえば馴染むだろうと創りました。独裁者は突出した能力のある人なので、「わたし」も「あなた」もそうではない平凡な人だという意味あいもあります。

── 同時収録の「しょう子さんが忘れていること」は入院している「しょう子」さんが体験する、夢とも現実ともつかない不可解な出来事を綴っています。

藤野 もともと「ユリイカ」誌で女子とエロ≠ニいう特集で、著者なりの性愛小説を書いてくださいと依頼を受けて書いたものです。「しょう子」さんは九十歳位のお婆さんなんです。そのくらいの歳の人って性的なことに関して開けっぴろげな人生を送って来ていないことが多いと思うんですが、死にかけているようなお婆さんでも性的なことと縁を切ることができない、一生それに縛られるし翻弄されてもいいんだということを書きました。

── もう一作、短編の「ちびっこ広場」も収録されていて、小学生の大樹と母親のスケッチのような物語です。

藤野 よくある都市伝説の枠組みを借りて、ごく普通の母と子の関係のとある側面を書いています。呪いやお化けとかは人間がある時期に作りだして、滅びずにずっと形を変えて語られているというのは、必要だからですよね。ある種の真実を反映していると見做されているからだとも思います。そういった素材、一つの枠組みとしての正確な使い方をしたいと考えています。

── 藤野さんの小説作法では情報の開示の秩序があり、しばしば読み進めて明るみになる背景がありますね。

藤野 やはり正確に小説を書いていきたいと思っていて、現象や出来事の情報を出す順番というのは気を付けなければいけない重要な所だと思っています。何回も入れ替えたり書き直したりします。私の作風が物事をはっきり言わないのは、それをはっきり書いてしまったら小説にしないでもいいと思うので、それを言わないために書いているのかなと思います。

── 藤野作品で抱えられる時間は、過去と未来が現在に内包したりパラレルに同時進行しているような描写がありますね。

藤野 「時間」というものは私が今まで小説に書いてきた重要なモチーフの一つでして、時間について書きたいという気持ちはいつもあるんです。私は時間に対して恨みがあるんです(笑)。時間って人の都合で経たない。人にとって理不尽だし全ての人が受けている暴力に近いと思うんです。人への斟酌しなさは相当だと思って書いています(笑)。

── 「パトロネ」のサボテン、「いけにえ」では悪魔をバラにしたためたり、「胡蝶蘭」や、もちろん「爪と目」のウンベラータなど、登場する植物はどこか猛々しかったり歪な存在として書かれます。

藤野 植物は人間と違う生物なので、何を考えているのか、そもそも何かを考えているのかも判らない。でも生き物だから何らかの思考体系みたいなものがあると思うんですよね。でもそれは人間とは違うと思うので、それが面白くもあり不気味でもある。植物は怖いし気持ち悪いなと思いながらも興味はあります。

── 「パトロネ」には主婦がベランダに閉め出されて凍死するエピソードがありますね。

藤野 私はいつも小説を書きながら次はどんな小説を書こうかと考えてるんです。それは一番幸せなひと時なんです。頭の中では理想の小説で失敗してないですし(笑)。「パトロネ」を書いているときにベランダで凍死することについてもうちょっと書きたいなと思っていて、確かに今回の「爪と目」の発想の起点の一つでした。私の作品にはベランダが度々出てきます。「いやしい鳥」や「溶けない」とか。「爪と目」では母親が死亡したり、「わたし」が追いやられたり、ウンベラータが叩き出されたりする場所です。私は結構引きこもりなのでベランダっていうのは完全に外なんですよね。身近だけれども内側ではなくて、マンションでもベランダまで敷地ではなく感覚として外なので、いかに外であるかをこれでもかと書いている気がします。

── 藤野作品は緻密な文章と、死者の視点のような感覚の同居だと思います。

藤野 「パトロネ」はまさに死んだ人が主人公で死んだ人の一人称で書いています。しかし一人称であれ三人称であれ目の前で起こっている出来事を観察し記録をするように書きたいと思っています。だから小説だけれども作者としては単なる書記係として記録をとっていると言い聞かせて書いています。物を集中して見る力はカメラでの撮影を通してついたのかも知れません。それから私は大学院で芸術学を専攻していまして、研究対象の作品をこれと決めたらよく観察して正確に記述することを厳しく求められたので描写の力を鍛えられたのだろうと思います。小説を書く上で心がけているのはシンプルな癖のない文章を積んでいくことです。文章が大事だと思っているのでたぶん私のそんな考えとか、読んできたものとかが、純文学誌との考え方と合致しているので仕事が頂けていると思います。

── 今後の予定は。

藤野 「群像」誌に掲載された「8月の8つの短編」と「おはなしして子ちゃん」と「美人は気合い」を併せて一冊の短編集が九月に発売されます。どうぞよろしくお願いします。

(八月一日、東京都新宿区・新潮社にて収録)