『蛍の森』の石井光太さん
インタビュアー 石川淳志(映画監督)
「新刊ニュース 2014年3月号」より抜粋
石井光太(いしい・こうた)
1977年東京都生まれ。日本大学藝術学部文芸学科卒業。05年『物乞う仏陀』でデビュー。同年の開高健ノンフィクション賞、大宅壮一ノンフィクション賞にノミネートされる。11年『レンタルチャイルド』が第33回講談社ノンフィクション賞に、12年『遺体 震災、津波の果てに』が第34回講談社ノンフィクション賞と第11回新潮ドキュメント賞にノミネートされる。同作は第18回 「編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞」で「震災・原発報道特別賞」受賞。『地を這う祈り』『飢餓浄土』『戦場の都市伝説』『津波の墓標』など著書多数。この度、新潮社より10年の構想を結実させた初の小説『蛍の森』を上梓。
── 『物乞う仏陀』でデビューし、映画化された『遺体 震災、津波の果てに』など優れたノンフィクションを数多く発表されてきましたが、今回初の小説『蛍の森』を書かれたきっかけを教えてください。
石井 そもそものきっかけは高校の頃、民俗学の本を読んで四国の山中にハンセン病患者だけが通る遍路道があると知ったことです。ただ、ノンフィクションを書いていた時も暗い現実だけを書くのではなく、そこに一種の光を探ることをしてきました。今回は遍路をしていたハンセン病患者たちが祈りながら山を巡り、懸命に光を作り出そうとする姿を感じ、必死になって探していた光とは何なのかを見つけたかった。それが「遍路カッタイ」と呼ばれた人たちを題材にした理由です。ではなぜ小説だったのか。ハンセン病の方々が隠れて遍路をしていたことで取材が限られていたし、彼らが病気のために生き残っている方も少なかった。ましてや実名を表すわけにはいかない。だから彼らの祈りや光を書くにはフィクションという形式が相応しいと考えました。日本や外国のハンセン病の患者に取材して見聞きしたことを小説の中に取り込んでストーリーを組み立てていきました。推理小説という形式を選んだ理由は、昔の話だけを書いてもなかなか若い読者が世界に入ってこられないと思い、今の読者への入り口を考えて、現代の事件と絡めて過去の出来事を探っていこうとしました。
── タイトルに使われた「蛍」の意味合いとは何でしょう。
石井 夜の森、川辺で灯る蛍の光の明滅は普通の光とは違います。その色の美しさはハンセン病患者が森の中で生きる美しさと通ずるものがあるのではないかと思い、遍路をしながら楽しさも苦しさも見出しながら暮らしていた人たちを重ねたんです。小説の中に「夜光の木」としても書きましたが、取材で蛍が木に集まり全体が緑色に光って見えたことがあります。不思議なことに蛍は一斉に明滅していた。その光景は呼吸をしているようでした。
── 物語は香川県で二人の老人が失踪した事件が起り、「私」=水島耕作が事件の重要参考人である父・乙彦に会いに行く場面から展開していきます。
石井 水島は現代に生きている、何処にでもいる普通の人として設定しました。誰でもそうだと思いますが、二代三代遡れば想像もつかない人々がいて、彼らから思いを託されていたり、彼らが様々な歴史を背負っていたりするわけです。そこに気付いた時に自分が生かされていることや何を背負うべきなのかが認識できると思います。だからこそ水島に、ハンセン病の歴史や父の想いを背負って貰いたかった。
── 村では失踪した二人が「黒婆」に連れて行かれたと噂され、前半は横溝正史的なムードが漂います。
石井 取材をしていると、多くの地域で幻のスケープゴートが存在しました。それを生み出すのがコミュニティです。ある種、原始的なコミュニティであればあるほどスケープゴートを使い、共同体として上手く成り立っている。また取材をした遍路道にはいくつもお墓があって、それに霊的なブラックホールのような印象を持ちました。そんな雰囲気を「黒婆」と名前を付けて創作しました。
── さらに、父がノートに記していた幼い頃の父の物語が、現在と交互に語られていきます。そこでは、父・乙彦が森の中で人目を避けて暮らすハンセン病の人たちの集落に出会います。そこには共同体からも孤立する平次もいました。
石井 差別されたもの同士の問題、それが更なる差別を生み出すことは書きたかった。乙彦と平次、二人が主人公だと考えています。どちらを書きたかったかと言えば平次なんです(笑)。良い処も悪い処も背負うのが人間です。狡かったり生き延びることに長けているけれども、後悔も反省もしている。これは全ての人間に通じるものだと考えています。ハンセン病患者だけでなくエイズ患者に取材していても、皆自分の中の善と悪に引き裂かれ苦しみ悶えていました。その弱さと光を書くことが人を書くことだと思います。そんな人間を客観的に見つめる存在が必要だった。その人物を乙彦に託しました。
── 過去の年代を一九五二年に設定した理由は。
石井 一つには、翌年に「らい予防法」が制定されたことがあります。それから戦争を経て村に帰ってきた人たちが、戦争で荒んでしまって差別をしたという時代設定を考えました。人の悪意というものは何かしらの背景があって、そこには良いも悪いもない。ハンセン病の方々も差別をした側も、同じように時代の犠牲者だと考えています。当時は人間が生きるという業が出てきてしまう時代だった。ハンセン病患者が一番多く施設にいた時期でもあるし、取材した方々の体験もこの時期だったことも理由です。
── 本作では「汗の匂い」「腋臭」「垢とアンモニアの混ざった悪臭」等々、ノンフィクション以上に嗅覚の描写が際立っています。
石井 それは意図しています。匂いと色でもって立体化するというか、文章に実感が得られるようにするのが僕の考え方なんです。読者には物語を知って貰ったり世界を勉強して貰いたい訳ではなく、ましてや流れのテクニックを楽しんで貰いたい訳でもない。書いた世界を感じて欲しい、その場にいるような気持ちになって欲しいからです。今回特に、物語の中でハンセン病の方々の苦しみや悲しみを知って貰うには重要な要素だと考えました。現代日本にとって非日常、または外国の出来事であればあるほど五感の描写を大切にしています。
── イスラム世界諸国の性を書いた『神の棄てた裸体』では人に取材をすることで社会の実像や一夫多妻制の背景を浮かび上がらせています。人物の内面描写もしておりデビュー第二作でいずれ小説を書くことは自明のことでしたか。
石井 ジャーナリズム的なノンフィクションでは、人間というものが社会的な事象を書くための道具になっていることが多い。僕の場合は、逆に社会的な事象が人間を書くための道具だとも言える。『蛍の森』では「ハンセン病」を書きたいのではなくハンセン病の方々の輝き、光を書きたかった。フィクションなのかノンフィクションなのか、純文学なのか推理小説なのか、告白本か評伝か事件ルポか、それは人間を書く手段にすぎない。僕の場合は作品によって方法論も違うので、それぞれの題材にどんな表現手段が有効なのかを考えながら書き続けています。
── 代表作の一つ『遺体』を書かれたことで得たものは何ですか。
石井 海外のルポを書き継ぎ、ある程度売ることができて、日本のルポをやろうとした時に、これで一つの成功事例を作れたということはあります。ただ『遺体』が僕にもたらしたものがあるとすれば、あれ以上の大きなテーマでノンフィクションを書くのは難しくなったということです。これから二十年、三十年と書いていくと考えた時に、東日本大震災を超える大きなことがいつ起こるかはわからないし、あったところで『遺体』を書いた時以上に力を発揮できるかどうかは別の話だと思います。でもまったく違う分野に挑戦すれば百パーセントの力が出せるし、挑戦し続けることで得られるものがある。小説で得たテクニックや考え方をノンフィクションに還元することもできると思います。
── 二〇一四年、石井さんがデビューして十年を迎えます。
石井 僕は物乞いと暮らして書いたノンフィクション『物乞う仏陀』でデビューしましたが、自分が十年書き続ける力はないと判っていたので、必死になって書いてきました。無我夢中に全速力で走ってきたら、十年経っていました。さらに言えば、作者がもがきながら重いテーマに全身でぶつかって、人がやらないことを書いているから、読者も読んでくれる。その期待だけは裏切らないように、人間の美しさというものを文学なりノンフィクションなりで書いていきたいと考えています。それは十年前もこれからも、変わらない態度です。
── 今後はフィクション・ノンフィクションを両立させて書いていくと宣言なさっています。具体的な今年の予定をお願いします。
石井 現在、すでに短編小説と長編小説の両方を進行させています。それから「新潮45」で書いていた戦後の浮浪児のルポルタージュを七月刊行で進めています。楽しみにしていてください。
(一月六日、東京都世田谷区にて収録)