『恋歌』の朝井まかてさん
インタビュアー 石川淳志(映画監督)
「新刊ニュース 2014年4月号」より抜粋
朝井まかて(あさい・まかて)
1959年大阪府生まれ。甲南女子大学文学部国文学科卒業後、コピーライターに。2006年より大阪文学学校で学ぶ。2008年、『実さえ花さえ』で小説現代長編新人賞奨励賞を受賞し小説家デビュー。他著に『ちゃんちゃら』『ぬけまいる』『先生のお庭番』『すかたん』『花競べ 向嶋なずな屋繁盛記』(『実さえ花さえ』を改題)がある。2013年、歌人・中島歌子の生涯を描いた『恋歌』で「本屋が選ぶ時代小説大賞2013」を受賞。この度、同作で第150回直木賞を受賞。
── 第百五十回直木賞受賞おめでとうございます。
朝井 ありがとうございます。今は毎週のように大阪と東京を行ったり来たりして取材を受けたり、エッセイの依頼があったりで少しずつ実感が出来ているのかな、でもまだ信じられない感じもあります。書き手になってからも別世界の、全く無縁の賞と思っていましたので。ですが今回の受賞で、ずっと書き続ける覚悟を持たせて貰ったような気がします。
── 受賞作『恋歌』の発想のきっかけは何でしょうか。
朝井 樋口一葉の師匠「中島歌子」は江戸の裕福な商家育ちですが水戸藩の志士に恋をして水戸に下り、幕末の動乱に巻き込まれてしまう。が、維新後、歌を修業して立派な歌塾を興した、そんなエピソードとの出会いが最初です。デビュー間もない頃、「小説現代」の「好きな幕末の志士」という企画に「中島歌子」の名を挙げて短い文章を書きました。それを読んだ担当編集者さんが彼女を主人公に小説を書きませんかと勧めてくれたんです。それから半年に一回くらいは思い出したように書きましょうよと言ってくれたのですが、私は大阪人なので水戸は心理的にもすごく遠い土地ですし、行ったこともなかったので、ずっと断っていました。しかし、一昨年にまた勧めてくださったので、「それならば」と初めて水戸の土を踏みました。歌子が捕らわれた牢屋敷跡や偕楽園など十箇所くらいを強行軍で回りました。そこで突出した文化度の高さなど様々に感じましたし、地元の方にとても良くして頂いたこともあり、去年の一月から執筆を始めました。膨大な資料を前にして、何を咀嚼して何を書かないか、という選択を迫られた題材でした。
── 主人公の中島歌子=登世はどう捉えて造形しましたか。
朝井 史実で残っているのは、情熱的で前のめりに生きるような娘時分の「登世」と、成功してからのあまり芳しくない「歌子」像だけでした。明治になってからの歌子の評判を知れば知るほど魅力を感じなくて、どうしようかと途方に暮れましたが、逆に登世が中島歌子になるまでに何が起きたのかを考えました。「君にこそ恋しきふしは習ひつれ さらば忘るることもをしへよ」この歌との出会いが、明治のスキャンダルに塗れた俗物な♂フ子の、心の底を見ようとしたきっかけになりました。そして題名にも結び付いたんです。
── 登世が一目惚れをした水戸藩士・林忠左衛門以徳はどのような人物ですか。
朝井 私の小説は二枚目が多い、イケメン好きではないかという疑惑があったので(笑)、『恋歌』では美男子に描きたくなかったんです。しかし以徳は実際、美男子だった。語り継がれるほどの男前で剣豪で、胆力もありました。そんな人が悉く歴史の現場に立ち会えなかった。「桜田門外の変」には怪我をして間に合わず、天狗党を纏めようとしていたのは確かですがうまくいかなかった。御馬廻役を拝命し、水戸藩護衛隊を指揮して天狗党の乱を収めようとしたけれど、それも叶わなかった。彼はしようと思ったことが出来なかった、無念の人なのです。私はそのことに思いを寄せました。日本の歴史に名を残せなかった人がどんなに多いことか、ほとんどそういう人たちの功績が今に繋がっているのに、と。たとえ自分が表舞台に立てなくても、あれ程の尊王攘夷の土地柄だったのに、水戸の志士が維新後の新政府に参加できなかったことは、非常に忸怩たる思いがあったはずです。
── 藩の経済状況の違いが、各藩の維新への関わり方の違いになっていますね。
朝井 藩の財政の違い、それは気候風土の違いでもありました。作物ができ易い温暖な藩は経済が安定していた。その上、長州は大陸と近いから密貿易がしやすかったし、薩摩には琉球がありました。一方で水戸は「大日本史」の編纂や九代藩主斉昭・烈公が偕楽園を作ったことも財政を圧迫していた。光圀公以来の尊王があり、幕府に対しても朝廷にも強い思いがあった。がんじがらめになるほど、一途だったんだと捉えています。
── 登世に付いて水戸に来た「爺や」こと清六もいい脇役です。
朝井 彼は水戸藩や世間の事情を登世に教えてくれる「窓」のような役割でしたが、書いているうちに変化していきました。江戸生まれの庶民が親の故郷に戻って暮らす中で、何の力も思想もないんだけれども、行動を起こす、立ち上がるんです。名もない、清廉な人々の象徴です。
── 教科書に載るような歴史的な事件、「蛤御門の変」や「生麦事件」などを要所要所で人物に語らせていて、時代のうねりが読者に伝わってきます。
朝井 歴史的事件の点と点をどこまで語るのかは、かなり悩みました。水戸のことを語るのに、水戸の人たちだけの描写ではいけない。水戸特有の「拳を振り上げてから考える」性質だけで起きた「天狗党の乱」ではないんです。幕府や薩長の思惑とかが絡んでいた。でも視点人物は登世なので、そのことを詳しく書けない。だから登世には、徳川斉昭夫人で藩主・慶篤公や慶喜公の母親である貞芳院と出会って欲しかった。実際に貞芳院は釣りが趣味だったようで、那珂川の川縁で出会わせました。
── 物語の後半で天狗党の家が取り潰され妻子も捕えられ、登世たちも「赤沼の御長屋」という牢獄に連行されます。
朝井 あの中で起きたことは生き残った人たちによって伝承されていますから、これはきちんと書いておかねばならないと、腹をくくって臨んだ場面です。ご不浄が牢の中にあるだろうから臭気も強烈だろうし、処刑が始まると血の臭いが充満するだろう。そういう場面はきちんと身体の感覚として書かないといけない。残酷なことを伝えるためではなく、彼女があの場で何を体験して、どういう生き方と死に様を見たかを書いたんです。だから静かな心持ちで書いていました。人が集まれば恐怖に耐えることに倦むことがある、我欲が出る。それでも皆で力を合わせることもある。「読書はそれを受けとめてくれるだろうか」と思いながら筆を進めた感覚は、今でもはっきりと躰に残っています。
── ところで、筆名の「まかて」は母方のお祖母さまの名前で、祖母の人生を思い描いて付けたと発言されています。
朝井 私は子供の時から、現実逃避ではなく色んなことを想像するのが好きでした。十二歳の母を頭に五人の娘たちを残して亡くなった祖母の短い人生を聞くとそれだけで自分の物語としてインプットされるんです。不思議なことにいつの間にか、私は母のことを、娘ではなく「祖母」の目で見ていることがあります。色んな事を想像するから色んな視点を持ってしまう性質なのかも知れません。
── 『恋歌』の終幕近くに《誰もが今生を受け入れてこの骸だらけの大地に足を踏みしめねば、一歩たりとも前に進めぬのだから。》と書かれています。これは朝井作品を貫くテーマではないですか。
朝井 二十代に会社でコピーライターをしていた時の同僚が「また明日、お疲れ様」と夜中に帰って、そのままバイクの事故で亡くなったことや、中学時代の友人が三十歳にならずに子供を残して亡くなったことがあり、四十代ではもっと身近な人を亡くしました。祖母もそうですけども色んな事をこの世に残して逝ってしまった。だから今しかない、一瞬一瞬の積み重ねでしかない。そんな思いは強くあります。
── デビュー作『花競べ』は小説現代長編新人賞奨励賞を受賞したことがきっかけですね。
朝井 小説なるものを何十年も書きたかったんですが、一行書いては止めてを繰り返して書けなかったんです。そうして大阪文学学校に通うようになるのですが、同じ頃に江戸の園芸に興味を持ち、小説や何かの役に立つことを抜きにして、単にライフワークとして調べることを楽しんでいました。専門書をたくさん読んで、講演会にも行きました。それで、園芸を題材に文学学校の課題作品を書いたんです。それがデビュー作の原型になりました。
── デビュー五年での直木賞受賞についてはどんな感慨がありますか。
朝井 私は本屋さんに住みたいと思うくらいに本当に本屋さんが好きなんです。そんな場所に自分の本が初めて並んだ時の感激は生涯忘れません。また、ポツポツと小説を書いてきた中、『恋歌』が「オール讀物」で「本屋さんが選ぶ時代小説大賞」に選んで頂いたのが心から嬉しかった。書店員さんが言わば最初の読者ですから、その人たちが支持してくださったので「私も少しは胸を張っていいんかな」と初めて思えました。それから直木賞の候補になって、まさか、まさか、まさかの受賞なんですけど。「第百五十回の直木賞を朝井にやってよかった」と思って貰えるかどうかは、これからの仕事にかかっていますよね。
── 今後の予定は。
朝井 短編連作のお話を複数の雑誌から頂いています。また書き下ろしの小説も幾つか約束しているものがあり、果たさねばならぬのですが…、「が」が付く(笑)。プロットが決まっているものや取材を進めているものもあり、後はひたすら書くのみになっている作品もあります。今はお祭り騒ぎを楽しんで、もうちょっとしたら我に返ろうと思います。ご期待下さい。
(一月二十七日、東京都文京区・講談社にて収録)