『ヒポクラテスの憂鬱』の中山七里さん
インタビュアー 石川淳志(映画監督)
「新刊ニュース 2015年3月号」より抜粋
── 今月号からスタートした推理小説『ヒポクラテスの憂鬱』は、「小説NON」誌に連載され、本年5月刊行予定の『ヒポクラテスの誓い』の続編にあたります。執筆の動機を教えて下さい。
中山 確か今回のオファーを頂いたのが『ヒポクラテスの誓い』の連載中でした。まだ書籍にもなっていない途中の段階で続編の依頼を頂くのは初めてのことでしたので、その点だけ、まごつきました。後はオファーを頂いたら書くことが仕事ですから(笑)、そこは何も躊躇なく快諾させて頂いた次第です。僕は小説を書く上で取材をしたことがなく、続編についてもストックも何もゼロの状態でしたので、プロットを立てるのに三日の時間を頂きました。いつものように三日間で連載の六話分と書き下ろし一話分のプロットを作って編集部に出したら「これで行きましょう」と。三日間で小説の一行目から最後の一行までを頭の中で書き上げて、後は連載に応じて少しずつダウンロードするだけです。連載が何本増えてもその書き方をしていますから、行き詰まったり考えあぐねたりというのは一切ありません。昔、田辺聖子さんが「どんなに取材しても書くのは取材した十分の一だ」と仰ってました。では、その一を想像で補えるのであれば取材をする必要はないだろうと。『ヒポクラテスの誓い』でも詳細な解剖の場面がありますが、これは上野正彦さんの『死体は語る』などの書籍を読んでいましたし、テレビでも司法解剖の場面が報道されていますから、そういう記憶をトレースして書きました。だから担当編集者に「これは医学的に正しいのか」ということを確認して貰うことはありますが、基本的に間違っていたことはありません。また今作に限らず、僕の作品には埼玉のいろいろな地名が出てきますが、一度も行ったことがありません。サラリーマンをしていた頃の仕事の影響もあるとは思うのですが、地図を見ればそこがどんな所か、こういう建物がこういう佇まいであるというのが大体判ります。他には死体置き場だとか火葬場だとか、特殊な場所の匂いや質感なども基本的に全部想像力ですね。
── 前作となる『ヒポクラテスの誓い』はどのような経緯で執筆されたのでしょうか。
中山 これは「専門的な職業で、ミステリーで」というリクエストがあったので、「法医学」はどうかと提案して了解を得ました。その後で自分が法医学を知らないことに気付いた(笑)、でも何とかなると思ってプロットを立てました。現代における法医学の問題を考えて、それを通奏低音にしました。多くの方はトリックを発想し、そこから敷衍して物語を作るのでしょうけれど、僕は違っていて、まずテーマがあり、テーマに合うストーリーは何かと考え、キャラクターを造型し、それからトリックを考える、というように演繹的に小説を作っていきます。何故かというと、トリックから始まる帰納的な考え方だとミステリーは作り易いのですが、途中で齟齬があった時に修正が難しい。そうであれば最初から演繹的に小説を創り上げたらそれほど齟齬はない、というのが経験則からくる知恵です。
── 浦和医大の研修医・栂野真琴、光崎藤次郎教授、キャシー・ペンドルトン准教授の三名が主人公ですね。
中山 解剖についての考え方は欧米と日本では甚だしく異なっています。欧米型の考え方で解剖を必須なものと考える光崎と日本的なウエットな考え方で解剖を拒否する側の真琴を配置しました。でも相克だけなら喧嘩別れになるので緩衝剤としてフラットな立場の人間として考えたのがキャシー・ペンドルトンです。キャシーを物語の真ん中に置くと、トリックスターのような動きをしてくれるので話が転がると思いました。そもそも解剖とは神の領域なのか医学の範疇なのか、あやふやな所がある。それを真琴に考えさせ、葛藤や相克を踏まえて事件を解決する中で真琴が成長する話にしました。今回『憂鬱』での真琴は、法医学のチームの一員となって事件を解決していく役割になります。
── もう一人、中山作品おなじみの埼玉県警捜査一課・古手川和也刑事が登場しますね。
中山 主人公が若い女の子、外人の中年女性、年寄の三人だと、パッと見た時に歪な感じがします。二十代半ばの女性が出てくるのであれば、近い年齢の男性、ただし立場の違う人間を入れるとそこに相克が生れます。しかも舞台は埼玉で、埼玉で年の若い刑事は古手川だ、と。僕はキャラクターに愛着を持つという訳ではないのですが無駄に使うつもりもないですし、読者の中には古手川というキャラクターに結構思い入れがある方がいらっしゃいますので、登場させました。また、ある編集者から「古手川には彼女はいるのか」と訊かれたので、その配慮も作品に加味しています。
── 『誓い』から『憂鬱』に作品名が変わったことで物語のトーンは幾分変わっていくのでしょうか。
中山 今回連載するにあたって、『誓い』では語り尽くせなかったことがあるのではないか、そしてそれはいわゆる問題点であるからヒポクラテス≠ニしては憂鬱な話になるだろう、という意味合いです。でも元々続編を考えてなかった(笑)。いつでも僕は続編を考えてないですし、これで終わったな、と思った瞬間に「続編を」と言われると毎回困るのですが、なんとかやってきました。
── 登場人物が複数作品を横断する「サーガ」のように、作品同士が連携し合う企みは何故行うのですか。
中山 新しいキャラクターは作ろうと思えば作れますが、キャラクターの確定した人物を登場させた方が話としては落ち着きやすいということがあります。またキャラクターは成長していきますから、読者にとってはひとつの喜びに直結すると思います。僕にとっては世界観を一つにすることは大きなメリットですから、しばらくは続けようと思っています。『テミスの剣』という長編小説で一つ工夫したことは、渡瀬警部が一人で捜査するところです。普通であれば、渡瀬は古手川とコンビで行動するのですが、渡瀬の個人的な捜査なので古手川はいない方がいい。古手川に、どこかに移動して貰おうと考えた時に『切り裂きジャックの告白』で古手川は警視庁の犬養刑事と一緒に捜査しますから、『切り裂きジャックの告白』と同じ時間軸を扱うことで解消しました。ただ、どうしても世界観が一致したらまずい作品がありまして、別個に書いたのが『アポロンの嘲笑』です。これだけは同じ地平線で書くことを拒否した題材でした。
── 中山さんは巧みなストーリーテラーですが言語感覚も際立っています。
中山 音楽ミステリーを書く時には、基本は音楽を主体に書くものですから擬音があると集中できなくなるので擬音を少なくしています。死体を描写する時には必ず視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の全感覚を総動員して描写します。あとは物語の内容によってはエクスクラメーション・マークやクエスチョン・マークの数を調整しています。若い主人公であれば「!」「?」は多くなりますし、年配の方が視点人物だと「!」「?」は少なめにして四字熟語を多くします。地の文でもテンポよく読んで欲しい時はセンテンスを短く、じっくり読んで欲しい時はセンテンスを長くして四字熟語を多く使い、テーマと物語によって調整しています。例えば冤罪を扱った『テミスの剣』にはほとんどエクスクラメーション・マークがありません。プロットを立てる時に、原稿用紙五十枚のうちにエクスクラメーション・マークを何個までしか使わないという規制をかけていました。
── 他に小説を書く際、気をつけていることはありますか。
中山 サラリーマンを二十八年やってきましたが、その中で得た知識や経験は一切書いていません。デビュー作『さよならドビュッシー』は音楽のことをたっぷり書いていますけれど、ピアノを触ったこともありません(笑)。あの小説を書こうと思ったときに初めてドビュッシーのCDを買ったくらいです。物書きが生き長らえる理由に、想像力を物語に落とし込む能力があると思います。僕が五年の間、小説を書き続けられたのは「依頼された仕事を断らない」ことと「自分が書きたいものを書いてない」からだと思います。よく「作家は書きたいことが無くなってからが勝負だ」と言われますが、それなら最初から書きたいものを書かなかったら長持ちすると考えています。僕は戦略的に「皆が読みたいものを書く」ことに特化して、編集者との打ち合わせでも、この物語がどんな読者層にどれだけの波及力、訴求力があるのかを考えています。
── 「新刊ニュース」読者にメッセージをお願いします。
中山 一つしかありません。退屈だけはさせません(笑)。
── 今後の予定を教えて下さい。
中山 昨年十二月に『月光のスティグマ』が刊行されました。一月に『嗤う淑女』、五月に『ヒポクラテスの誓い』、八月以降には連載が終了した小説群の上梓と書き下ろしの小説が控えています。ご期待ください。
(十二月十七日、東京都千代田区・祥伝社にて収録)
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