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『グランド・フィナーレ』の阿部 和重さん
インタビュアー 大島 一洋(編集者)

阿部 和重(あべ・かずしげ)
1968年山形県生まれ。94年に『アメリカの夜』で第37回群像新人文学賞を受賞しデビュー。『無情の世界』で第21回野間文芸新人賞を、『シンセミア』では第15回伊藤整文学賞、第58回毎日出版文化賞をダブル受賞。また、最新作の『グランド・フィナーレ』にて第132回芥川賞を受賞。主な著書に『ニッポニアニッポン』、『映画覚書 vol.1』、『ABC戦争 plus 2 stories』、『インディヴィジュアル・プロジェクション』等がある。




『グランド・フィナーレ』
講談社



『無情の世界』
新潮文庫



『シンセミア 上』
朝日新聞社



『シンセミア 下』
朝日新聞社



『ニッポニアニッポン』
新潮社


大島 遅ればせながら「芥川賞」受賞おめでとうございます。
阿部 ありがとうございます。
大島 本の帯の「文学が、ようやく阿部和重に追いついた。」というコピーに、担当編集者のこれまでの思いが込められているように感じます。しかし、贈呈式では山田詠美さんが「追いつかれてはだめ」と激励されていましたね。
阿部 はい。山田さんにありがたいお言葉をいただいて、自分でもそうしなければいけないと思いました。もし、自分と文学の間に距離があるとすれば、どんどん離していかなければいけないし、そうすることが文学というジャンルの可能性を広げることになるんじゃないかと思います。
大島 受賞作『グランド・フィナーレ』は二部構成になっていて、前半は東京、後半は主人公の生まれ故郷である田舎町が舞台です。前半は、ロリコンという性癖を妻に見破られて離婚され、娘に会えないという状況に追い込まれた「わたし」の語りと、友人たちのダイアローグで構成されています。重要人物としてIという女性とYという男性が出てきますが、この二人はなぜイニシャルで登場するのでしょう。
阿部 その点は、作者としてはタネ明かしをしたくないという気持ちがありまして、僕の作品に関心のある方に読み解いていただきたいと思います。IとYという記号から連想されるものがあると思うので、語りの構造から探っていけば、何か発見できるのではないでしょうか。
大島 阿部さんの作品には、いつも仕掛けがなされていますね。今回の作品でも、登場する人物は『ガラスの仮面』の登場人物の名前を参考にしているとタネ明かしをされています。しかし、IとYのイニシャルについては、読者がその謎を読み解くのはなかなか難しいと思います。Iは「私」でYは「君」の記号化ではないか、ということくらいしか私には想像できないのですが。
阿部 まず、語り手が「わたし」であることにつきると思います。これまでの僕の一人称の小説は暴露型の語り手でしたが、今回の「わたし」は隠蔽型の信用できない語り手として登場しています。だから「わたし」の正当性を揺るがすものとして、他者の声が必要で「こいつが語っていることが、すべてとは限らないよ」と読者にほのめかしている。つまり「わたし」が語っていることと現実にはズレがある。そういう語り口で書き上げたのが『グランド・フィナーレ』なんです。
大島 その他者の声がIになるわけですね。彼女が「わたし」に話すその内容には非常に厳しいものがあって、後半での「わたし」の行動に対して大きな抑止力になっています。そして、その抑圧の象徴ともいえるのが、娘との思い出の品であるジン人は自分の語っていることを、正しく認識することは不可能です。というか、本当に一致しているのかどうかは見定めようがありません。そういう姿勢でこの作品を書いたわけで、それが一番わかりやすい形で出ているのがジンジャーマンと主人公のやりとりのズレなのです。
大島 田舎町に帰った「わたし」は、二人の少女と出会うわけですが、少女たちにロリコン性癖を見抜かれて、上手く利用されているように思います。
阿部 二人の少女は周囲の世界から切り離されてしまったという感覚になっています。しかも、せっぱ詰まった状況で、逃れがたい困難にも陥っている。でも、二人には一緒に演劇を成功させたいという願いがあって、そのためには手助けをしてくれる大人が必要なんですね。そこへ打ってつけの人物が現れた、ということです。
大島 結末が悲劇になるのか、ハッピーエンドになるのか、わからないまま物語は終わります。
阿部 そこを書かないのがこの作品のねらいでもあるんです。今までやってこなかった形式、終わり方を閉じないという方法にチャレンジしたということです。結末をどのように想像されても構いませんが、現実と認識は別、というテーマから考えても、この作品はここで終わるのが正しいと自分には思えました。だけど、この後に書く作品で、ちゃんと責任はとりますよ、と言っておきたい。小説のできることは、読者のステレオタイプな連想から、どうズラすかということです。例えば、「ロリコン」という言葉に対して、みんなある種の決まりきった推測をしますよね。しかし、ロリコンにも個人差があって、こうだとは決めつけられない部分が大きい。そういう誰もが認識している物語に抵抗していくのが、小説という手段だと思います。
大島 この小説は『ニッポニアニッポン』と『シンセミア』につながっています。両作品を読まないと、読者には物語の奥行きの広さが伝わらないかもしれません。
阿部 確かにそうでしょうね。でも、『シンセミア』三部作を書く決意表明をしていますから、どうしても今『グランド・フィナーレ』を書いておかなければならないという事情はありました。
大島 他の雑誌の対談では、「僕の作品は、もはや一作で完結し得るものではない、という考えに囚われている」とおっしゃっています。
阿部 それは僕だけの方法ではなくて、例えばフォークナーのヨクナパトーファを舞台にした作品とか、中上健次さんの路地など、複数の作品でひとつの世界を描いていくというやり方があって、映画の世界でもその方法が広がってきている。僕も僕なりにできることがあるんじゃないか、という考えから、神町を舞台にした複数の物語を立ち上げていこうかなという試みになっているわけです。
大島 神町は阿部さんのご出身地で実在する町ですが、実在の町である必要はあったのでしょうか。
阿部 ありました。それは、町の名前が神町であるからです。ごく平凡な田舎町にすぎないのに、神の町という名前がついてしまったというギャップが面白くて、これを物語にできないかなと思ったわけです。
大島 現実の神町の歴史は使われているのですか。
阿部 はい。進駐軍が駐留していたとか、小さい山があるとか、市役所が公開しているようなデータは使っています。現実のデータを使って、虚構の世界をつくるというのがねらいのひとつですから。
大島 そして、さらに複雑な仕掛けを入れていくと。
阿部 僕はハワード・ホークスという映画監督からかなり影響を受けています。
彼の映画は、わかりやすくて透明性がある。しかし、よく見てみると複雑な構造になっている。そこに憧れたんです。透明性があって簡単に読めてしまうが、ちょっと立ち止まってみると、実は複雑な背景があるという作品をつくりたいと思っています。
大島 しかし、その仕掛けが読者に読み取ってもらえないという可能性もありますね。
阿部 それはそうです。知らなくてすむことではあります。仕掛けを読み解けなくてさっと読んでも面白く読めるものでなくてはならない。それが透明性ですね。
大島 阿部さんの作品では、数字にこだわられている部分が多く見られます。デビュー作の『アメリカの夜』からそうですが、『グランド・フィナーレ』では九・一一が出てきますし、本書に収録された短編『馬小屋の乙女』では以下のような描写があります。「山形新幹線つばさ115号が東京駅を発ったのは午後一時三六分だった。グリーン車の6番D席に着いたトーマス井口は、22番線ホームの売店で買った――」これだけ詳細に書かれていると、なにか仕掛けがあるのではと、思わず考えてしまいます。
阿部 数字はわかりやすいから目立ってしまう。数字というのは、それを書くことによって、あるものを具体的に指定してしまうわけです。逆に言えば限定してしまうから、想像力を封じ込めることになって、物語が書きにくくなる。日付や時間を指定しないで書くほうが楽ですよ。しかし、わざと指定をして物語を組み立てていくということは、小説家として困難を乗り越えていく作業ではないかと思っています。僕なりの勝手なチャレンジなんですけどね。
大島 さて、『シンセミア』の最後は、物語が終わっているようで実は終わっておらず、まだこれからあるぞ、という形になっていますね。
阿部 そうです。円環を閉じつつ終わらないというやり方をしたつもりです。
大島 これから連載が始まる第二部が楽しみです。いつ頃になりそうですか。
阿部
 昨年の暮れにはスタートするはずだったんですけど、いろいろ忙しくて準備が遅れています。なんとか今年中には始めたいとは思っています。

(2月23日 東京・渋谷にて収録)

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