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『ロスト・シンボル』翻訳者 越前敏弥さん
インタビュアー 石川 淳志(映画監督)
「新刊ニュース 2010年5月号」より抜粋

越前敏弥(えちぜん・としや)
1961年石川県金沢市生まれ。翻訳家。東京大学文学部国文科卒業。ミステリーの翻訳を中心に活動中。2004年、ダン・ブラウン著『ダ・ヴィンチ・コード』を翻訳出版。大ベストセラーとなる。『天使と悪魔』、『デセプション・ポイント』、『パズル・パレス』(熊谷千寿共訳)など、全てのダン・ブラウン作品の翻訳を手がける。他の訳書に『運命の書』(ブラッド・メルツァー著)、『Xの悲劇』(エラリー・クイーン著)、『ミケランジェロの封印をとけ!』(トーマス・ブレツィナ著、生方頼子共訳)、『還らざる日々』(ロバート・ゴダード著)他多数。10年3月、ダン・ブラウンの最新作『ロスト・シンボル』を上梓。


『ロスト・シンボル』
上・下
ダン・ブラウン著、
越前敏弥訳
角川書店発行/角川グループパブリッシング発売


『天使と悪魔』
上・中・下
ダン・ブラウン著、
越前敏弥訳
角川書店発行/角川グループパブリッシング発売
(角川文庫)

『ダ・ヴィンチ・コード』上・中・下
ダン・ブラウン著、
越前敏弥訳
角川書店発行/角川グループパブリッシング発売
(角川文庫)

『デセプション・ポイント』上・下
ダン・ブラウン著、
越前敏弥訳
角川書店発行/角川グループパブリッシング発売
(角川文庫)
『パズル・パレス』上・下
ダン・ブラウン著、越前敏弥、熊谷千寿訳
角川書店発行/角川グループパブリッシング発売
(角川文庫)
『運命の書』
上・下
ブラッド・メルツァー著、
越前敏弥訳
角川書店発行/角川グループパブリッシング発売
(角川文庫)
『Xの悲劇』
エラリー・クイーン著、
越前敏弥訳
角川書店発行/角川グループパブリッシング発売
(角川文庫)

── 『天使と悪魔』『ダ・ヴィンチ・コード』に続き、宗教象徴学専門のラングドン教授が活躍する『ロスト・シンボル』。ワシントンDCを舞台にラングドンの恩師で、フリーメイソンの最高位階級にあるピーター・ソロモンが誘拐されます。古の神秘≠ノ関する暗号や謎を次々に解いて行き、やがて明らかになるのは……。シリーズの翻訳を手がけている越前さんにとってどんな面白さがある小説ですか。

越前 著者ダン・ブラウンは学術書になりそうな難しい話を誰にでも面白く読めるように書く能力がすごいんです。普通は薀蓄などの情報と、スピーディーな物語展開は両立しないものですが、二つを併せ持っているシリーズです。豊富な情報は知識として勉強になりますし、読書の喜びが一杯詰まっている作品です。

── 翻訳にあたり苦労した点、心がけた点はどこでしょうか。

越前 このシリーズは情報小説の側面があり、調べ物が大変なんです。さらりと読める小説ですが、訳すとなると書かれている事柄の一つ一つの裏付けを取らないといけない。描写された場所の位置関係も確認します。おそらく『ロスト・シンボル』はネットや携帯で調べながら読む方が多いだろうから、訳す側は、当然それ以上の調べ物をしなければならないのです。

── ソロモンの妹・キャサリンは「純粋知性科学」という最先端の学問を研究し、《これは近代科学と古代の神秘主義とを結びつける失われた環だ》とも書かれています。シリーズ第一作『天使と悪魔』にも通じるテーマですね。

越前 ダン・ブラウンは「純粋知性科学」に本格的に興味を持って勉強しているようです。『天使と悪魔』も宗教と科学の対立でした。今回は世界最大の秘密結社・フリーメイソンに伝わるという人類究極の知恵古の神秘≠巡る事件ですが、そこからもう一歩進んで、人間とは何か、神とは何か、というテーマに深く踏み込もうとしているようです。シリーズのベースにある認識として「キリスト教は、エジプトをはじめ既存の宗教から様々に吸収して成立している」、宗教は根っこの部分で繋がっているから驕ってはいけないし、対立もいけないんだ、というメッセージがあります。

── お勧めの場面はどこでしょうか。

越前 ネタばらしになるのであまり話せないのですが、下巻に大掛かりな暗号が出てきます。ラングドンも大変苦しんでいますが、これは翻訳も苦労しました。楽しんでください。

── 『ロスト・シンボル』も既に映画化が決定されています。翻訳の作業に影響はありましたか。

越前 やりにくかったですよ。ラングドン教授がトム・ハンクスなのでね。だからといって小説は小説で独立しているので、構わずに訳していきました。翻訳を始めて二、三週間でトム・ハンクスから離れました。細かい点では小説でラングドンは自分のことを「わたし」と言いますが、映画では「僕」なんです。映画の字幕も監修しましたが「トム・ハンクスなら僕≠ニ言うでしょう」ということで違いを出しました。

── ラングドン・シリーズ三作ともプロットに特徴があり、いずれも実行犯が最初のシーンで登場します。読者は謎や暗号を解読しながら犯人を追うラングドンと犯人の行動を交互に読み進めることになります。

越前 その構造も上手いと思います。全部隠すのではなく見せる部分は見せて語っていく。ダン・ブラウンの小説は映像的とよく言われますが場面転換が早い。これはハリウッド映画的な作りや、映像化されたときのことも意識してのものでしょう。舞台となった場面を訪れる読者も多いそうです。実際に前二作はツアーが組まれましたしね。

── 映画化され社会現象にもなった『ダ・ヴィンチ・コード』ですが越前さんご自身にもたらしたものは何でしょうか。

越前 良いことと悪いことがありました。あくまで自分の好きな作品の一つですから、『ダ・ヴィンチ・コード』の翻訳者とイメージが限定されてしまうのはどうかなという思いがありました。一方で今の自分の翻訳技術を集大成した仕事をこのシリーズでやり遂げています。僕は算数の先生をした経歴もありますし、別の訳書でキリスト教を調べた経験もあります。そんな全ての技術を生かせたので代表作として挙げて貰えるのは嬉しいことです。

── 採用している訳語についてお尋ねします。距離の単位ではインチやフィート、マイルを使用していますね。

越前 フィートやインチを残して原文の味わいを保つのか、メートルにかえて理解を促すのか、表記に関しては意見が分かれる所です。大人向けの訳書ではフィートやインチを残すことが多いです。例えば「六フィート六インチの男」という原文があるとします。これは〈背が高い男〉を表現しているので「六フィート六インチの長身の男」などと邪魔にならない程度の説明を組み込んでいます。でも温度の単位は日本の読者は見当がつきにくいので華氏から摂氏に変更しています。

── 越前さんは3月に初の受賞作が発表された「第一回翻訳ミステリー大賞(※)」発起人の一人です。賞創設の理由を教えてください。

越前 翻訳書の部数は十年前に比べるとだいぶ落ちています。面白い翻訳ミステリーがあるのに読まれない事実を歯がゆく感じていました。そこで翻訳者が中心になり、書評家、編集者の協力を得て手作りの賞を作ったんです。何ヶ月も一つの作品に取り組んでいる翻訳者はその海外小説について一番深く読み込んでいます。その翻訳者が選考するので大賞を受賞した作品は本当に面白い小説なんですよ。

── 越前さんが翻訳者に至るまでの経歴を教えていただけますか。

越前 二十五歳くらいまで映画の同人誌を作ったり、シナリオの勉強をしていました。その後、塾の講師と留学予備校のカウンセラーをしていましたが、三十二歳でクモ膜下出血で倒れて三ヶ月入院したんです。その時に「何か形になるものを残したい」と思いました。留学予備校の仕事で英語漬けの日々でしたし、海外ミステリーが好きだったので、翻訳者なら早く実現しそうだと考えたのですが、仕事になるまでは五年ほどかかりました。

── シナリオの勉強は現在の仕事に生きていますか。

越前 それはもう如実に役に立っています(笑)。翻訳の作業は視点を大事にします。この場面は誰の視点で書かれているのか、と。文章としてクローズアップなのかロングショットなのかを意識しますし、場面展開も映像的に意識しています。具体的には文末が現在形はアップで、過去形はロングショットと考えて貰えれば想像しやすいと思います。

── 翻訳という仕事の面白さを教えてください。

越前 英語と日本語を行ったり来たりすることで両方の言語能力を鍛えることが出来るんです。いい訳語をひねり出せたときは気持ちのいいものです。また、翻訳することでその作家について日本中で一番知っている人間になれることでしょう。最初の読者として日本にいる何千何万の読者に伝えられる喜びもあります。

── 今後のお仕事の予定を教えていただけますか。

越前 エラリー・クイーンの作品に探偵ドルリー・レーンが活躍する四部作があります。そのシリーズ第二作『Yの悲劇』の新訳を今年の秋には出版する予定です。世界ミステリー史上最高傑作と言われている作品の一つです。時代とともに言葉は変遷するし、三十年前よりも調べ物をする環境は格段に進歩しています。当時判らなかった事柄が今はネットや辞書で簡単に判るので新しい魅力を発見していただけると思います。それに『Yの悲劇』は僕が翻訳ミステリーの仕事をしたいと思ったきっかけの作品です。その意味で一番やりたかった仕事に取り組むことが出来ているので心から嬉しいですね。


※翻訳ミステリー大賞:現在活躍中の翻訳家が、翻訳ミステリーの年間ベスト1を選ぶ文学賞。今年3月、初の大賞受賞作に『犬の力』(ドン・ウィンズロウ著、東江一紀訳)が決定。

(3月23日、東京都渋谷区にて収録)


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