「兼続がいる!」
妻夫木さんを見たとき、
そう思った
── 二〇〇六年に上梓された長編小説『天地人』が、〇九年NHK大河ドラマの原作になり、一月四日から放送されます。誰もが私利私欲で動いた戦国乱世の時代に、義を貫く生き方を志し、上杉家の家老・執政として領民を守り抜いた人物、直江山城守兼続の生涯を描く物語です。まず、ドラマ化についての感想をお聞かせください。
火坂 大河ドラマの原作は、物故作家もしくは巨匠の作品がなるものと決まっていると聞いていたので、自分の作品が大河ドラマになると聞いたときは、嬉しいというより、背筋の下から悪寒のようなものがこみ上げて、そら恐ろしくなってしまいました。「まさか」という気持ちが先に立ち、「これはいいことなんだ」「嬉しい」と思うまでに、二ヵ月以上かかりました。
── 主人公の直江兼続を、妻夫木聡さんが演じますね。
火坂 凛々しさと優しさが同居した、若いけれど確かな演技力がある俳優さんですね。主演に決まってから「どろろ」という映画でサムライ姿の妻夫木さんをみて、「兼続がいる!」と思いました。小松江里子さんの脚本も数回分読みましたが、たいへん面白くて、放送を楽しみにしているんです。
── 直江兼続は、臨済宗妙心寺の名僧・南化玄興に、「利を見て義を聞かざる世の中に、利を捨て義を取る人」と評された人物です。兜に大きく「愛」の文字を掲げた武将としても知られています。
火坂 「愛」の一文字については、格別な思いがあります。中学の頃、野球部に所属していて、当時、野球をやる少年は、帽子のつばの裏のフェルト部分に「根性」「勇気」などのスローガンを書いていたんですが、私はなぜだか「愛」と書いていて(笑)、練習中に帽子をぽろっと落とし、「愛」の一文字を目にした監督に、「これは何だッ、まじめに野球をやっとるのかッ!」と、怒鳴られました。その後、歴史小説を書き始めた頃、下克上の乱世に「愛」をキャッチフレーズにしていた、しかも同じ雪国出身の武将がいたと知り、「この男は自分である。この男を書けるのは、自分しかいない」と、・天命・を感じて、いつか必ず直江兼続を小説に書こうと、熱い思いを抱きました。
地方から見ると
戦国時代が
変わって見えてくる
── 越後・魚沼郡の坂戸城下で生まれた兼続は、幼くして利発さを見いだされ、坂戸城主・長尾政景の子、景勝にわずか五、六歳で小姓として仕えます。景勝は、独身を貫いて実子がいない叔父、上杉謙信の養子になります。景勝と共に十代で春日山城に入った兼続は、生涯の師、謙信と出会います。
火坂 『名将言行録』に・長高く、姿容美しく・とある兼続は、長身、端整な顔立ちで、学問ができ、弁舌が爽やかな、カリスマ的な人物でした。一方、景勝は、背が低くずんぐりしていて、口が重く、いつも苦虫をかみ潰したような顔をしていた。しかし、巌のように腹がすわっていて、沈勇剛毅な景勝と、才気に溢れた兼続の好対照の主従は、強い絆で結ばれていました。兼続は、五歳年上の景勝を主君として立て続け、生涯、参謀役に徹します。謙信が興した上杉家を、時の動きに応じ、近世大名として変革していった人物が、直江兼続ですね。
── ・越後の竜・と呼ばれた謙信は、自らと家臣団の行動原理に「義」という大命題を掲げた武将です。兼続は、謙信の一番弟子となり、「義」の意味を自分なりに解釈し、仁愛の「愛」という境地にたどり着いていきます。この「義」というテーマを、小説を書く中でどう掴んでいったのでしょうか。
火坂 初めは、「義」や「仁愛」について書く気持ちはありませんでした。しかし、直江兼続を書こうと調べ始めたところ、裏切り、謀略、暗殺など当たり前で、梟雄と言われるような人々が跋扈していた戦国乱世に、「義将の系譜」が存在していたことに気づいたんです。調べながら、歴史小説家である私が、郷土の歴史や戦国時代を深く知らなかったと思い、がく然としました。まず、上杉謙信の強さの源は、経済力でした。越後の肥沃な平野と豊かな雪解け水に恵まれて高い収穫があるだけでなく、殖産興業を展開し、金銀山を掌握していました。経済大国を築きながら、家臣を利ではなく、義という価値観で動かし、強固な組織を作り上げていたところが謙信の特異なところです。江戸時代の儒学者・藤原惺窩は、「戦国の世に学問を好んだものは、上杉謙信、小早川隆景、高坂昌信、直江兼続、赤松広通があっただけ」と書いていますが、北越の地に、謙信と兼続という師と弟子がいて、文武両道の価値観がはぐくまれていた。
── 地方で独自に醸成された思想があったわけですね。
火坂 戦国時代は、実は「地方分権」、いや「地方主権」といっていい時代でした。信長だって、尾張という地方の出身で、戦国の群雄たちは皆、まず地方で力を養った者たちでした。関東の北条氏、中部の武田氏、北越の上杉氏、東北の伊達氏など、地域を制したそれぞれが、領国経営の実学を競い合い、その方法論の全てを取り入れて、最後に競り勝ったのが徳川家康でした。私自身が、中央の盛衰、天下取りの行方を追いかける、中央集権史観にとらわれていたと痛感しましたね。郷土の歴史を掘り起こし、謙信、兼続というふたりのパワーを持った凄い人物に引きずられて、天下取りを凌駕するほどのテーマが浮かび上がってきたわけです。
時代が「品格」を
求めている
── 天下を取るよりも、天に恥じない生き方をするほうが人として美しい、と兼続に言って間もなく、謙信は世を去ります。こうした「日本人の品格」を描こうとする大河ドラマの制作意図は、現代においてタイムリーだと思います。
火坂 今でこそタイムリーですが、この小説を書いていた〇三〜〇四年頃は、日本中が投機に夢中になって、「勝ち組」「負け組」と言われ、格差が助長された時期でした。そんな中で、〈人の欲望にはきりがない。手に入れても、手に入れても、けっして心が満たされることはない。利を離れ、志に向かって突きすすんだとき、人ははじめて真に生きたと実感できるのではないか〉と兼続が問う、「義」の小説を書いているなんて、火坂雅志とはなんと古臭い、時代錯誤な奴だと思われないかと(笑)、迷いながら書き進めていました。単行本になる頃から、投機に走った人が逮捕されたり、政権が変わったり、世の中が加速度的に変わり、「品格」や「武士道」といった言葉が言われ始めて、少しずつ意を強くしました。
── 作中の世の中も、謙信の死から二十年のあいだに激変して、群雄が割拠する戦国乱世から、信長の躍進と挫折、秀吉による天下統一、家康の台頭へと到ります。関ヶ原の役の直前、石田三成と親しい兼続に、家康が詰問状を送りつけて脅しますが、〈上杉家に逆心ありと騒ぎ立てているが、天下に野心があるのは家康のほうではないか〉と、兼続が返書で家康を糾弾する、「直江状」のくだりは迫力があります。
火坂 挑戦状をたたきつけて家康を挑発した兼続は、北方に築いた城塞に徳川軍をおびき寄せてしとめる秘作を練りあげます。ところが、わずかな歴史の皮肉で、家康は上杉との決戦を放棄して無傷の軍勢で西へとって返し、関ヶ原のただ一戦で天下取りを決める。罠にはまらなかった家康は老獪で、兼続はほろ苦い悔恨の思いを残しながら、もはや勝つ見込みはゼロと見切り、上杉家を滅亡に導く死の・美学・ではなく、汚名にまみれても生き残る・実学・へと転換していきます。
── 兼続は「実学」に「愛」を見つけた。
火坂 彼は愛書家としても有名で、蔵書は八百五十冊に及び、現在、世界で唯一の宋版『史記』『漢書』『後漢書』(いずれも国宝)など貴重な書籍も多い。後年、蔵書をもとに禅林文庫を創設して家臣教育の場にしました。禅林文庫の開館式のときに感慨を語っていますが、そのあたりまでの生涯すべてを見つめないと、直江兼続を知ったことにはならないと思います。兼続の「愛」は、儒教的な仁愛、衆人に対する思いやりの心です。すなわち民を憐れみ、家臣を憐れみ、敵をも憐れむ、広い意味での「仁愛」の精神です。その精神を貫いた兼続を、私は凄い政治家だと考え、「愛」一文字の意味を理解していきました。
── 大河ドラマで、関ヶ原で負けた側が主役になるのは初めてだそうですね。
火坂 誰だっていつも勝つわけにはいかない。負けたときにどう領民を食わせていくか、領地を復興させるかが大切で、苦しい、不利になったときこそ最善の努力を尽くして、何とかしてやろうというところに、人の真価が問われます。不利になったからと投げ出すのは本当の政治家じゃないですね。直江兼続は、不利になっても逃げなかった男です。
── 負けた後の生き方が凄かった。
火坂 関ヶ原後、上杉家は会津から米沢に移封され、百二十万石の石高を三十万石に削られました。上杉家にいたい、景勝についてきたいという家臣に出て行けと言わず、兼続自身は六万石から一万石に禄を削減し、その半ばを家臣に与えて、自分の取り分を五千石にしました。家康の側近、本多正信の子を自分の跡取りに迎えるという凄まじい策を用い、弟の大国実頼に非難されても、生き残り策を模索します。治水事業を行って新田を開き、漆、紅花、コウゾ、青苧(麻)など、換金性の強い作物の栽培を奨励して殖産興業に力を入れ、ソバやウコギといった作物も育て、鯉の養殖、鉱山開発、やれることは何でもやりました。その結果、上杉家の実収は三十万石から五十万石以上に膨らみました。後に、米沢藩には九代藩主上杉鷹山という人が出て、藩政改革と財政の立て直しを行いますが、彼は突然現れた名君ではなく、謙信から兼続に受け継がれたテーマを継承したんです。信義を貫きながら経済を重んじる生き方は、今の時代にも通じますから、歴史は大局的に眺めると、つくづく面白いですよね。
戦国時代は
ペンペン草も生えない
── そもそも、火坂さんが歴史に興味を持ち、書き始めたのはなぜですか。
火坂 麻雀と酒に明け暮れていた大学二年生の頃、「きみも、龍馬、信長と語り合いませんか?」と書かれた貼り紙を見て、「早稲田大学 歴史文学ロマンの会」というサークルに入りました。歴史小説を読んで勉強する会で、第一回目に司馬遼太郎さんの『燃えよ剣』を読み、入会して二ヵ月後には、「この世界は自分にあっている。歴史小説を書くプロになろう」と思いました、全くの思い込みなんですけど(笑)。一念発起してからは毎日図書館に通い、歴史小説の勉強をする孤独な世界に入っていきました。二十年、三十年、勉強してプロになろうと決め、歴史物の出版社に就職し、三十歳を過ぎてデビューして、二冊目を出したときに退社し、それからずっとプロの小説家でやってきました。
── 初期の頃は、伝奇的な時代小説を書いていましたね。
火坂 目標とする本格的な歴史小説を書くには、総合力が必要なんです。いい文章、歴史や人物を切り取る視点、合戦シーンはダイナミズム、恋愛シーンは男女関係の機微と、それらの要素を全て込めないと書けない。まだ自分はそこまで到っていないと、アクションの多い剣豪小説を書きながら、さらに勉強していきました。ようやく念願と作品とが一致してきたのが、一九九九年に書き下ろしで刊行した『全宗』以降です。
── 『全宗』は、秀吉の侍医兼参謀だった男を主役にした作品です。信長を支えた豪商の今井宗久を描いた『覇商の門』、家康の側近として僧の崇伝が権勢をふるう『黒衣の宰相』、『天地人』では上杉家の参謀・直江兼続と、参謀に着目したのはなぜですか。
火坂 戦国時代は、大勢の先達がさまざまな形で小説にしていて、「ぺんぺん草も生えない」と言われていました。私は、あまりスポットが当たってない参謀の目から戦国を書こうと考えました。戦国の参謀というと、竹中半兵衛らが有名ですが、もっと隙間を探して、医者で参謀だった全宗を書いたんです。
── ずっと書いてきて、歴史と人物をみる目も養われたのではないでしょうか。
火坂 実は、『天地人』の世界はまだ現在進行形なんです。兼続をめぐる師と弟子、上杉謙信と真田幸村についても書く予定で、謙信、兼続、幸村の三作ができて『天地人』の世界が完成する構想です。『天地人』を書いた後、書ききれなか ったテーマがいくつも浮かび上がり、上杉家の客分だった前田慶次郎、兼続の弟・大国実頼らについての短編を書き、兼続のライバル・伊達政宗を『臥竜の天』で書きました。時代になびかずに「義」に生きる兼続をもっとも恐れたのは徳川家康で、正々堂々と戦った上杉を潰さなかった家康は凄い政治家だと思います。裏切ったり、風向きをみて勝ち馬に乗るような人物は、結局は評価されない。代々謀略をよくする家に育った真田幸村は、兼続の薫陶を受け、真田家では異質な、義を貫く生き方をしていきます。兼続をめぐる人々、父の樋口惣右衛門、妻のお船たちについて『直江兼続の義と愛』という歴史エッセイを書き、・北の関が原・で書き足りなかったところ、新発見の部分を全て加筆して、『新装版 天地人』を出しました。ですから、私には今、戦国時代はペンペン草も生えない荒れ地ではなく、豊かな森に見えるんです。
歴史小説には
ロマンがある
── 他の作品についてはいかがですか。
火坂 実は、学生時代に勉強していたのは源平時代から中世だったので、世界的視野に立った平家、源氏の物語を書いてみたい。骨董から歴史を見る「骨董屋征次郎シリーズ」も続けていき、そしていつかは「海のシルクロード」を書いてみたい。日本人が海のシルクロードに思いをはせ、海外へ結びついていった時代の物語をグローバルに描くのが私の最後の見果てぬ夢です。もう、ロマンが大きすぎて。
── 執筆の根底に、ロマンというものがあるんだなと、伺いながら思います。
火坂 なぜ歴史小説を志したかというと、大ロマンを形にしたいからですね。海音寺潮五郎さん、井上靖さん、司馬遼太郎さん、陳舜臣さんら、先達の歴史小説家の中には、大ロマンがありました。その方々を目標にしてきた私も、自分なりに語りたい、言葉として刻みつけたい、大ロマンを持っています。今回、大河ドラマに起用された理由は、こんな凄い奴らが戦国乱世に存在したというロマンを、『天地人』に見いだしてくださったからではないでしょうか。まだ温めておくつもりだった直江兼続の小説を書くことになったのは、新潟での講演会で兼続について話をしたのが端緒で、地元の方々、新聞社、通信社の方々が小説連載のために尽力してくださったからでした。この小説は私ひとりの力ではなく、まさに天の時、地の利、人の和が整った結果として生まれた小説だったんです。
|