《動的平衡》への気づき
── 生命が絶え間のない流れにあることを言い表したキーワード、《動的平衡》をそのままタイトルにした新刊が好評です。研究者でありながら、広く一般向けの文章を書くようになられた経緯をまず教えてください。
福岡 私は生物学者なので、大学で研究中心の生活を送り、書くものは研究論文が中心でした。ただ、科学の本当の出口とは、研究で得られたデータや写真が生命現象の何を意味しているかを誰にでもわかる言葉で語られたときではないかと考えていて、そうした文章を書いてみたいと願っていました。九十年代半ばから、海外の面白い一般科学書を翻訳する仕事を始めまして、十年ほど前、遺伝子増幅技術を開発した破天荒な科学者の自伝『マリス博士の奇想天外な人生』(※1)を翻訳しました。英語もハチャメチャで訳すのが大変だったんですけれど(笑)。それを読んだ木楽舎の編集長から電話をもらい、意気投合して、創刊間もない環境雑誌『ソトコト』で連載を持つことが決まり、毎月書くリズムが生まれ、書く場所が広がっていきました。今回、『ソトコト』で連載したものを中心に『動的平衡』としてまとめ、一般向けに書く機会を初めて与えていただいた木楽舎に恩返しができたかなと思っています。
── 『生物と無生物のあいだ』がベストセラーになった理由をどう考えていますか。
福岡 現在までに六十三万部出ていて、講談社現代新書で歴代四位の部数だそうです。ベストセラーになるとは全く予想していませんでした。本のテーマは「生命とは何か」。私たちが生きているとはどういうことかというのは、人間がこの世に現われてからの基本的な問いだったんですね。今日、臓器移植、生殖医療、遺伝子組み換え食品など、生命をめぐる問題がたくさんあります。誰にとっても身近な問いに対して最先端の生物学がどう答えるのか、読者の皆さんはその答えを求めて本を手に取ってくださったのでは。
これまで細胞や遺伝子など、ミクロな部品が寄り集まってできた精密な機械が生物で、だから機械のように部品を換えられたらどうかと操作する道が探られてきました。しかし、私は本の中で「生物は機械ではありませんよ」と、機械論的な生命観に 対するアンチ・テーゼを書きました。生物を構成する分子は絶え間なく分解され、更新されながら全体のバランスを保っています。そのような生命のあり方について、『生物と無生物のあいだ』では系統だてて論じてみました。『動的平衡』のほうは、ダイエットやアンチエイジングなど、身近なテーマに引き寄せて、より易しく書いてあります。
── 《動的平衡》という生命現象に着目されたのはいつでしょうか。
福岡 大学で分子生物学を専攻して、二十年くらいずっと、分子のレベルで世界を分けていくことが面白くて仕方がなかったんですが、思い通りの結果が出ないことがしばしばありました。一番劇的に予測が裏切られたのは遺伝子ノックアウトマウスの実験です。生物の全ての細胞で使われている大事な遺伝子をひとつだけ取り去り、遺伝子がないマウスにどんな異常が起きるかを調べました。ところが、マウスは特に異常なく、元気に育っていった。つまり生物は、遺伝子が受精卵の段階からなければ、欠落を埋めるバックアップが働いて、欠落などないようにしてしまう可変性、柔軟性を持っている。この経験から、部品を取り去れば動かなくなる機械と生物は違う、流れの中で自律する生命現象をちゃんと考えて、生命を見直さないといけないんじゃないかと思うようになりました。
《動的平衡》の生命観を提唱したユダヤ系科学者・シェーンハイマーの業績に気づくと同時に、実は生命は動的平衡状態にあるということを、私はずっと昔、生き物に親しんでいた子供の頃に指先でわかっていたじゃないかと思ったんですね。ぐるっとまわって同じところに帰ってきたようなものなんですけれど、それは旅路がないとわからないことでした。
── 『生物と無生物のあいだ』には、生き物に親しんでいた子供の頃のことが書かれています。トカゲの卵を毎日観察して、卵の殻を小さく切り取って中を覗いてみた。
福岡 小学三、四年生の頃でしたか、トカゲの卵が孵らなくて待ちきれなくなり、殻に穴をあけて中を見てしまいました。そうしたら、ちゃんとトカゲの赤ちゃんが息づいていた。これはまずいと思って、接着剤を使ってふたをしたんですけれど、いったん外気に触れたトカゲの赤ちゃんは徐々に腐り、溶けていった。すごく痛ましい思い出なんです。
ほかに、アオスジアゲハという蝶のサナギを捕って、春先に蝶になるのを楽しみに虫かごに入れておいたんですが、子供だから忘れちゃった。夏近くにびくっと思い出して、虫かごを見に行ったら、全ての蝶が完璧に羽化した状態で干からびていました。つまり、放っておいても、生命のプロセスは強靱なバランスで進んでいく。でも、ほんのわずかな操作で崩れてしまう脆いものでもある。
科学にも文学が必要
── 『生命と食』の冒頭で、どのように生物学を語るか考えて、自分の学んできた経験の中で語りなおす結論に達したと書かれています。科学を語る文章、思考のコツとは。
福岡 啓蒙をしようとは考えておらず、自分のしていることが自分にとってどういう意味を持っているかを整理するため、自分のために書いているところがあります。だから、体験を軸に表現する文体、「私はこう思う」というふうに書くわけです。 全ての知識を整理して並べる教科書的なスタイルで書くのは簡単ですけれども、それは経験の中から得られた意味を書くことではないんですよ。人間がどうしてそれほど切実にそのことを知りたいと思ったのか、知るためにどういう努力がなされたのか。生物学の歴史を学んできた過程で、別のことのように書かれている事実について、これとこれは同じコインの表裏だなと気がついたことがたくさんある。そのプロセスをきちんと再現すれば、ほかの人にも伝わるだろうと思っているわけですが、多くの専門家が、自分が学んできたプロセスを忘れてしまっています。
── 専門家がプロセスを忘れてしまうのはなぜでしょうか。
福岡 やり続けているうちに、あるところで全てのことが自明だと思ってしまうからですね。スキーの先生が、初めて板を踏んだ感覚や学んでいったプロセスを忘れて、生徒に上達法を説明できないように、プロフェッショナルや専門家が陥りやすい「プロセスを忘れてしまう病」があると思います(笑)。
それと、科学は役に立つもの、何か便利をもたらすものだと信じ込まれているところがありますね。研究発表をすると、「どんな役に立つんですか?」と聞かれます。薬の開発に役立ちます、病気が治る手助けをしますと言ってしまいがちですが、実は科学というのは、そう簡単には役に立たないことばかりなんです。「こうであるから生命現象はいかんともしがたい」とわかったのが研究成果なのに、役に立つ科学が求められて、生命を操作して商品やテクノロジーとして流通させる機械論的な提案が続いてきました。ただ、科学は、不可能なことを私たちに教えてくれる学問でもあるんです。時間とともに熱あるものが冷める、形あるもの が崩れていくエントロピー増大の法則(※2)に対して、自転車操業的に自律し続けるのが生命のあり方だから、決して若返ることはできないし、アンチエイジングなんて無駄な抵抗で、最後は必ず死んでしまうとわかる。なるほど、そういうことなんだな、という納得をもたらすのも、科学が役に立つ側面だと私は思っています。
── わからないんだとわかるというのは哲学的な感じもありますね。
福岡 生きているとはどういうことか、人はどこから来てどこに行くのか、世界は多様な生命で成り立っていて、蝶やカミキリムシがいるのはどうしてかは、人間がずっと問い続けてきたことです。昔からの問いは、哲学的な問いになります。科学の問いかけが哲学の問いに重なるのは、私にとっては自然なことなんです。昆虫を育てたりすると、時間は止まってくれないとわかります。時間も含めて、世の中が不可能性に満ちていると思う感覚は、小説やSFの物語を読んだ経験からきてるんじゃないかな。虫の虫≠ナあったのと同時に、私は本の虫でもあり、いろいろな本を読んできました。科学も文学が必要なんですよね。村上春樹さんは、デビュー当時からリアルタイムで読んできた大好きな作家の一人です。ストーリーも文章も、すっと誰の心にも入ってくるように作られていますが、かえってそこに謎や仕掛けがあって、今どうしてこの物語が書かれなくてはいけなかったのかが、だんだんわかってくる。
── 七月に講談社現代新書の通算二千号目となる『世界は分けてもわからない』が刊行されます。新作とこれからの執筆活動について教えてください。
福岡 『生物と無生物のあいだ』の続編と考えていただければ。人間は遺伝子地図をつくるくらいに生命体をミクロに分けてきましたが、そこまで分けてきたにもかかわらず、生命現象はちっともわからない。人間は、世界を認識するときに分けないとわからない。でも、分けてもわからない。何が問題だろうと考えると、分けるときに必ず時間を止めていることに思い至ります。確かにそのパーツによって生命現象は成り立っているけれど、切り分けるときに線を切断して、ばらばらになった部品は生命でなくなった。では、切断してしまったものは何か? ということですよね。中 世の生物学だったら、パーツを統合していたのは目に見えない、スピリチュアルな「生気」でしたが、現代の生物学でそうは書けない。分子、あるいは細胞と細胞とを繋いでいる力は、情報の流れだし、エネルギーの流れだし、より微細な分子の流れで、それが絶え間なく流れ、絶え間なく律しあっている。自然をより深く認識しようとする科学者たちも、人工的な錯覚を自然の真実だと思い込んでしまうことがあります。それでも結局、分けたり統合したりを繰り返して世界を掴んでいくしかないと論じてみました。
生命とは《動的平衡》だと言うのは簡単ですが、ではなぜ、絶え間なく動きながらも全体としては統合されているように見え、「私は私だ」と言える自己同一性が存在しうるのかについて、もっと考えていきたい。
── 先生の本を読むと、リアリティとはどういうものかと考えてしまいます。
福岡 「私」「あなた」「人間」「虫」とする感覚自体が、実は定かでないわけです。私はきれいな蝶を見るのが大好きですけれども、蝶を見てきれいだと思うのは、きれいな蝶がいるからじゃないんですね。カラスアゲハはとてもきれいな蝶ですが、蝶の視覚は人と全く違うものだから、人間が見ているようには蝶は蝶自身を見ていない。蝶の美しさは人間の認識の中だけにある。私たちは「実はそうである」ことをしばしば忘れて、あたかも実在として美しい蝶が飛んでいるように世界を見ているんです。
※1 『マリス博士の奇想天外な人生』:キャリー・マリス著、福岡伸一訳・早川書房(ハヤカワ文庫)・定価798円・ISBN978-4-15-050290-4
※2 エントロピー増大の法則:「エントロピー」とは「無秩序な状態の度合い(乱雑さ)」を数値で表したもの。「エントロピー増大の法則」とは、すべての事物は自然のままにほっておくと乱雑さが常に増大し続け、その秩序がやがて失われる。自然界の事物の流れを逆転することはできないという事実。
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