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井上荒野(いのうえ・あれの)
1961年東京生まれ。成蹊大学文学部卒業。89年「わたしのヌレエフ」で第1回フェミナ賞を受賞しデビュー。2004年『潤一』(新潮文庫)で第11回島清恋愛文学賞、08年『切羽へ』(新潮社)で第139回直木賞を受賞。『新刊ニュース』2009年3月号から11月号まで連作短編小説を連載。この度、この連載と季刊誌『Feel
Love』(祥伝社)収録の短編小説。
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『もう二度と食べたくないあまいもの』
井上荒野著
祥伝社

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『つやのよる』
井上荒野著
新潮社
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『静子の日常』
井上荒野著
中央公論新社
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『雉猫心中』
井上荒野著
マガジンハウス
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『あなたの獣』
井上荒野著
角川書店発行/角川グループパブリッシング発売
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『切羽へ』
井上荒野著
新潮社
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『夜を着る』
井上荒野著
文藝春秋
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『学園のパーシモン』
井上荒野著
文藝春秋(文春文庫)
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『ベーコン』
井上荒野著
集英社(集英社文庫)
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『誰よりも美しい妻』
井上荒野著
新潮社(新潮文庫)
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『ズームーデイズ』
井上荒野著
小学館(小学館文庫)
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『潤一』
井上荒野著
新潮社(新潮文庫)
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『もう切るわ』
井上荒野著
光文社(光文社文庫)
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── 本作は十編を収めた短編集です。表題の由来は、恋があまいものだからでしょうか。
井上 もう食べたくないような辛い記憶であると同時に甘い記憶でもある、そんなニュアンスです。食べ物をテーマにした『ベーコン』、小さな旅をテーマに『夜を着る』という短編集を出して、今回は「失恋」をテーマに連作してみました。失恋と言っても、いろいろなパターンがある。オーソドックスなのはふられちゃうことですが、死別もあるし、凄く好きだった相手をいつしか嫌いになってしまったことも、辛い失恋だと思います。嫌いではないのに何となくうまくいかなくなったり、夫婦として暮らしているけれど心はすっかり離れていたり、逆に、心が離れたつもりで別れたが、相手のことをずっと考えてしまうとか。連作を始めるにあたり、失恋のいろんなパターンを書き出しておき、締め切りが来るたびにノートを見て書いていきました。
── 『新刊ニュース』に寄せていただいた短編も、四編収められています。その中のひとつ「裸婦」の文月は、離婚後も元夫の家族と親しく、今の恋人・一郎を連れて元夫の家族と避暑に行く。一郎のことを元夫の草よりも好きだが、一郎が草ではないことに腹を立てている。幸せなのか不幸せなのか、微妙なところです。
井上 夫と別れているのにその家族と毎年会うのは異常な状況で、どんなに言い訳してもそこには未練があると思うんですが、戻らないものは戻らない。一〇〇%幸せな状況ってないと思うんですよね。恋をしている間、ずーっと一〇〇%の幸せはないでしょうし、凄く仲の悪い夫婦でも一〇〇%不幸とは限らない。そこがやっかいな部分で、一〇〇%不幸ならばやめてしまえるが、一〇〇%不幸でもないから、決断しきれない。その微妙なところを書きたかったので、微妙な話ばかりになりました(笑)。
── 「朗読会」の美紗と隆は、十年以上連れ添った夫婦だが何となくよそよそしい。
井上 私がずっと書き続けているモチーフのひとつに「嘘」というのがあります。例えば、相手の心が自分にはないと感じると、人間は自分を守るために、自分も相手をそんなに好きではないと思おうとする。やり過ごすために自分に嘘をつくわけですが、嘘が関係をより冷やしていき、最終的に自分を攻撃してくる。それでも、生きるために嘘を積み重ねていかざるを得ない状況があるんだろうなと。十編ありますが、同じテイストのものはない。妻子持ちの人とつきあって捨てられた≠ニ、大ざっぱに書けば同じ状況がいくつあったとしても、全く同じ恋愛はない。一つずつ違う、小さい粒にもならないようなもやもやとした、そこにだけある気持ちや、人物を書けたときは嬉しいですね。
── 「自伝」の皆子は入社二年目の編集者。先輩社員の谷正を、犬に似ている、面白みがないと評しつつ気にしている。
井上 ごくわずかに引っ張られる気持ちを恋だと、多くの人が認識しない。対象外と思っていた先輩社員が結婚して、何だかもやもやしているとき、このもやもやは好きだったからと認識する人は少なくて、別の理由をこじつけて忘れようとします。でも私は小説家なので、そのもやもやをばっちり記録してみた かった(笑)。人間は恋だけをして生きているわけではなく、就いた仕事に今ひとつのめり込めない皆子のように、みんなどこかモラトリアムです。生活の状況が恋愛に作用し、恋愛の状況が生活に作用して人は生きていくから、どこからどこまでが恋愛で、どこからどこまでがそれ以外のものか決めがたいと思います。その決めがたい感じも、書く対象として面白そうでした。
── 「手紙」は大失恋譚。
井上 がっくり失恋する「手紙」は読者の評判がよくて、ここで書きたかったのは、ふられるとだんだん分かっていくいやーな感じ(笑)。状況も、いやな感じも、私自身の大学時代の経験を書いた作品です。事実に足をとられて書きづらいから、私が経験を素材に書くのは珍しいケースです。小説を書いていていちばん面白いのは、どんな作品になるか自分でも分からないところです。こういう気持ちを書きたい、こういう女を書きたい、こういう状況を書きたいと曖昧なことだけで、ほとんど何も決めずに書き始める。
── 「古本」の最後の秀逸なセリフも、書くうちに生まれたのでしょうか。
井上 「古本」は、自分が嫌われている、愛されていないことを絶対に認められない人を書こうと、それだけで書き始め、最後のセリフは書くうちに生まれてきました。人物をカンで登場させておいて、意外なぶつかり合い、不協和音がうまくいくと面白い。
── 恋愛を主なテーマに書いている理由は。
井上 注文に応じてでもありますが、人間のどっちつかずなところ、曖昧でどうしようもないところに私は凄く関心があり、曖昧で決められない、にっちもさっちも行かない状況がいちばん分かりやすく露呈するのが、恋愛においてなんですよね。例えば舞台をエジプトに設定して海を越えた愛とか、女スパイが出てくるとか(笑)、事件から人間の素晴らしいところ、残酷なところを浮き上がらせる小説もいいと思いますが、私は、出来事よりも人間を書きたいと思っています。人間の曖昧なところを曖昧なまま書きたい。
── どっちつかずで辛いけれど、それぞれ状況を生きていく、そんな読み心地です。
井上 小説を書き始めた頃は、人間が多かれ少なかれ、みんな嘘をつくことを否定的に思っていましたが、嘘も、決められず曖昧にしておくのも、全ての行動が生きていくためのものなのだなと、肯定的に思えるようになってきました。とんでもない女たらしのダメ男も、彼はそうしなければ生きていけないわけで、そうしてまで生きることの方を評価するようになってきた。『しかたのない水』を書いたあたりで自覚的に肯定できるようになりました。嘘をついて人を傷つけるのは許されないことですが、しょうがないねえと、どこかで認めてしまっている。
── 父の井上光晴さんも小説家で、全身全霊で嘘をついていた人だった。
井上 私は父親コンプレックスがあって、父みたいな小説を書かなきゃと長く縛られていましたが、ほぼ一〇〇%克服しました。父のような小説は書けないけれど、父も私のような小説は書けないだろうと。本人が生きていたら「書ける」と言うでしょうが(笑)、まあ、書けないんじゃないかなと思うようになりました。当たり前のことですが、生きてきた時代が違うし、経験も育った環境も違うのだから、小説が違って当たり前で、書きながら、だんだん克服していけたと思います。父はもの凄い嘘つきで、私がどうしようもない男を小説に書くと、まさかこんな人間いないだろうと言われますが、父に接した経験から「でも本当にいるし」と言えるのは、大きなことだと思います。小説の影響も受け、人間的にもいい影響を受けたと思っています。
── 長編『つやのよる』も刊行されました。井上さんの作品は、誰もが主人公という印象があります。
井上 艶という女の通夜≠ニダジャレみたいなものが浮かんで、艶という女がどうしようもない女だったら、艶に関わってしまった男、そしてその男に関わってしまった女と連関する人々は、艶の通夜でどんな気持ちになるのかと、考えていった話です。誰もが主人公という点で言うと、私は筋のために都合よく動かす人物を出したくないんです。必然的にその人がそこにいる状態にしたいので、少ししか出てこない人でも、狂言回しの人でも、その人がどう生きている人なのかを、時間が許す限り考えるようにしています。どんなところに住んでいるか、両親はどんな人でどう育てられたかまで考えてあると、服装や振る舞い、セリフなどが小説の中にすっと出てくる。人物の奥行きが自分の中にあると、ほんの一、二行のことでも、もっとも的確な一、二行が書ける。
── これから書いていきたい小説は。
井上 子供のことを書きたい。情報が多くなり、十歳くらいの子供でもインターネットに触れて、対外的にどう振る舞えばいいかを学習している。学習した自分と本来の自分のバランスをどう取っているのかなど、現代の子供の姿に関心があります。それから執筆が決まっているものでは、父が書いた『結婚』という結婚詐欺師の話をベースに、私なりの結婚詐欺師の話を『野性時代』で連載する予定です。いい人はつまらない≠ニよく言いますが、それと同じで、立派ないい人って書いても面白くない。一癖も二癖もある人々が出てきます。自明のことを書いていても退屈してしまう。いつも、「知っていることを書かないようにしよう」と思っています。
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