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いしい しんじ(いしい・しんじ)
1966年大阪府生まれ。京都大学文学部仏文学科卒業。2000年、初の長篇小説『ぶらんこ乗り』を上梓し大きな話題を集める。03年、『麦ふみクーツェ』で坪田譲治文学賞を受賞。04年、『プラネタリウムのふたご』が三島由紀夫賞候補に。書き下ろしによって丹念に紡がれた物語は多くのファンの支持を集めている。主な著書に『白の鳥と黒の鳥』、『絵描きの植田さん』(植田
真絵)、『トリツカレ男』等がある。 |
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『ポーの話』
新潮社
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『白の鳥と黒の鳥』
角川書店
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『ぶらんこ乗り』
新潮文庫
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『麦ふみクーツェ』
理論社
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石川 いしいさんの書き下ろし長篇小説『ポーの話』は、難しい言葉を使わずに綴られた親しみやすい作品です。しかし、説明を省いているくだりもあり、容易にわかったとは言えないような作品でもありました。また、細部において寓意を含んだ内容もあって、哲学的な叙事詩の側面も感じられます。
いしい 今回の『ポーの話』は言葉にならないことを書いた小説で、「どんな話なの?」と訊かれれば「黒い体の子供が泥の川の上流から海へ流されていく話」と言えますが、「テーマは?」とか「どういうことに触れているの?」と訊かれると、ちょっと説明はしづらいですね。
石川 それは、いしいさんが宇宙の摂理に触れながら作品を書かれたからではないでしょうか。
いしい 僕自身はニュートラルなただのチューブのような存在で、黒く固まっているヌルヌルとした物語が、そのチューブを通じて透明な言葉になって出てきたと考えています。作品の中に《ぜんぶのひょうめんは、かわのてりかえし》という台詞がありますが、小説を書く行為はその《てりかえし》のさらに奥に入って行くことだと思っています。
石川 目に見える部分や物事の表側は川の照り返しに過ぎない、その奥に物事の本質があるんだということを、この小説を読んで理解しました。
いしい 善と悪があるとしたら、その間にあるドロドロとした言葉にならない領域、つまり「よくわからない」領域をできるだけ丁寧に、よくわからないまま、安易に自分で価値判断をしないようにして書き進めたんですね。
石川 物語の舞台は、細部にいたるまでいしいさんが全てつくり上げています。「神話」という原初の物語を紡ぎ出そうとされたのでしょうか。
いしい 神話的な部分は確かにあると思うし、自分でもそんな気はしていますが、この物語の世界や人物達は僕が書く前からすでにどこかに存在していたのだと思います。僕のしたことは、それぞれの存在に形を与え、名前を与えて、その人達のやっていることを記録していったこと。その結果が、『ポーの話』という物語になったと思っています。
石川 物語の最初の部分、「うなぎ女」から赤ん坊が生まれた時、白い鳩が《祝いごとを告げるかのように、ポー、ポー、と高らかに》鳴きます。やがて、この赤ん坊は「ポー」と呼ばれるようになります。ここで登場する白い鳩とうなぎは、ポーにとってどのような存在なのでしょうか。
いしい 著者がその事について語るくらい興醒めなことはないと思います。読者の人たちがこれはこうではないか、ああではないかと自分の言葉で語りあうことのできる小説が幸せな小説だと思っています。この作品は曖昧な箇所を残していて、その曖昧さ自体が肝でもあるんですね。
石川 うなぎの回游や鳩の帰巣性などが、ポーの貴種流離譚としての骨格になっていると感じました。
いしい うなぎの稚魚が親の育った川をめざすことや鳩が帰巣するといったその類似性には気づいていましたが、物語の構造として帰巣をモチーフにした貴種流離譚として読めるということは、今お聞きしてなるほど≠ニ思いました(笑)。
石川 十四歳になったポーは「メリーゴーランド」という名の盗人や彼の妹の「ひまし油」と出会います。ポーはメリーゴーランドの盗品を故買屋で換金した後、《眠っていても、寝ている感じがまるでしない》という変調が体にあらわれます。
いしい 何も知らないポーは、まず「罪悪感」という言葉を覚えるのですが、罪悪感がどういうものであるかは理解していません。そしてこれかな、あれかな≠ニ探っていくようになるんですね。
石川 続いてポーは「つぐない」という言葉を知ります。
いしい 言葉もある意味一つの《かわのてりかえし》で、罪悪感という言葉で物語を括ることができないように、ポーの中で蟠っている物を罪悪感の一言だけで片づけることは難しいと思います。ポーは頭の中で深く考えることはありませんが、川や海を泳ぎながら、あるいは大切に持ち歩くことになる「女人形」との対話を通じて、だんだんと自分の中で罪悪感というものを認識していくようになります。それと、同時に《てりかえし》の奥にある「つぐない」の本質に向かっていくわけですね。
石川 物語の序盤で、この街を五百年ぶりの豪雨が襲います。
いしい 冒頭を書き始めた時から洪水の場面というのは僕の中にありました。「天気売り」という人物が登場し天気をさんざん気にしているわけですから。洪水は旧約聖書をはじめ古今東西、小説や詩、映画でもたくさん描かれていますが、それぐらい力のある現象なんです。僕も洪水のシーンを書いている時は、かなり興奮していました。
石川 ポーは天気売りと一緒に下流に流されていきます。そして、「犬じじ」とその孫に出会います。犬じじの足は《犬がくぐり抜けられそうなくらい、両側へ湾曲》しています。孫の足も同様です。いしいさんの作品には肉体的にハンディキャップを持つ人物が登場しますが、これは意識されているのでしょうか。
いしい そうですね。意識して登場させています。今回の登場人物の障害は全て足にかかわっているんですよ。後付けになりますが、神話の世界や民俗学では「蹇」というのは半分神懸ったものなんですね。小説を書き進めるうえでそういう連想もありました。
石川 その後「女ぬすっと」が犬じじの小屋にあらわれます。女ぬすっとは、犬じじとは血のつながりはない様ですが、少年の母親と予想されます。いしいさんは手がかりだけを示していて具体的な説明はしていません。
いしい 家族構成とかにあまり明確な輪郭を持たせないようにしています。それは余白や余地といったわからない部分を残すことで、実際に綴っている物語自体がより面白く感じられたらいいかな、と思ったからです。
石川 さらに下流に行った、埋め屋の亭主と巨体の女房が暮らす赤土の広野では、天気売りが白い鳩を拾います。これは、ポーの誕生を祝ったあの鳩なのでしょうか。
いしい たぶん、この物語の中での鳩というのは一羽も百羽も同じつながりの、一つの生き物として書いているのだと思います。泥川のうなぎ女たちもそうなんですね、単数とか複数を越えて全体として存在しています。鳩はこの物語では普遍性を持っている存在であって、レース鳩を扱う埋め屋の女房は極悪な人間だけれども、鳩だけはとても大切にしています。犬じじが足が悪いことで地面の深い所につながっている存在であれば、この女房は鳩と一緒に高い所に昇って行ける存在なのだと思います。
石川 ついにポーは海にたどり着きます。やがてこの長い物語もクライマックスを迎えます。
いしい ポーは《かわのてりかえし》のこちら側から、《てりかえし》の向こう側に行くことになります。それが死なのかというと、死ではありません。では何かと問われても、答えることはできません。これだけ曖昧な事を書き続けてきたわけですから、最後も生と死の曖昧さをきちんと扱わないと読者に対して失礼ですよね。曖昧さという物をごまかさずに最後までたどり着けたという手ごたえが僕にはあって、見えづらくて、わかりにくくて、くねくねと曲っているかもしれませんが筋は通っていると思っています。
石川 物語の最終節、この幕切れには涙がこぼれてしまいました
。
いしい 幸せな感じでしたよ、自分でも。それまで息を詰めて丁寧に書いていましたから。書き終える幸福感ではなく、うまくその場面が出てきてくれたということかもしれません。こんなことは初めてですが、書いていながらゆっくりしたリズムの音楽が聞こえてきました。水の深い所でくぐもっていた物が上に登って来るにつれて音として聞こえてきたようなね。
石川 これ程までに作品世界の生命や事象を祝福するということは、いしいさんの創作活動の端緒に、途方もない絶望があったからではないかと考えるのですが。
いしい 僕は人の言葉のやり取りというのは、丁寧に親切に行なえば大概は通じるものだと考えていました。けれども、ある時それが裏返ったんです。今では、人間同士が言葉でお互いを理解しあうというのは不可能であるという確信があります。でも、そんなことは皆わかっているんですね。それを理解した上で、こんなことをしたら相手が喜んでくれて嬉しかったとか、もしかしたら通じたかもしれないという喜びや、いつかは通じあえるかもしれないと信じられることが、人間関係の幸せの元じゃないかという気がしています。創作についても自分の考えていることがまるまる読者に伝わるのは無理ですし、伝わってしまったら恥ずかしいですよね。読者の方には『ポーの話』という作品を通じて、そういうような気配を感じ取ってもらえると、作者としてはとても嬉しいですね。
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