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『フラミンゴの家』の伊藤たかみさん
インタビュアー 青木 千恵(ライター)

伊藤たかみ(いとう・たかみ)
1971年兵庫県生まれ。早稲田大学在学中の95年に、『助手席にて、グルグル・ダンスを踊って』で文藝賞を受賞しデビュー。『ミカ!』で小学館児童出版文化賞、『ぎぶそん』で坪田譲治文学賞、『八月の路上に捨てる』で芥川賞を受賞。主な著書に『ロスト・ストーリー』、『指輪をはめたい』、『雪の華』、『17歳のヒット・パレード(B面)』、『アンダー・マイ・サム』などがある。





『フラミンゴの家』
文藝春秋



『八月の路上に捨てる』
文藝春秋



『ドライブイン蒲生』
河出書房新社



『助手席にして、グルグル・ダンスを踊って』
河出文庫

―― 『フラミンゴの家』は、六年前に離婚をして地方都市「J市」にUターンし、母親が経営するスナックを手伝う片瀬正人のもとに、元妻が引き取っていた娘の晶がやってくる物語です。元妻の翔子がガンになり、正人と晶は六年ぶりに親子関係を築いていきますが、小説の構想についてまず教えてください。
伊藤 『ドライブイン蒲生』でも描いたように、寂れた地方都市をまた舞台に選びたいと思ったんです。僕は神戸で生まれて、大阪と三重で育ち、大学からは東京で暮らしています。さらに両親の故郷は、北海道の紋別。僕は自分のバックボーンになる場所がどこなのか、曖昧なままに生活してきました。作中で、関西出身の翔子が〈フラミンゴってほんまは白いんやで。ピンクなんは、アフリカの水がそうさせる〉〈関西人と一緒や。(略)街の空気吸ってなに色にでもなる〉と話すシーンがありますが、僕もまさにそんな気分だったんですね。だから、ずっと同じ土地にいる人たちとかがちょっと羨ましくて舞台に選んだんですよ。
―― 物語は、三十六歳の正人と、もうすぐ十二歳になる晶の交互の視点で描かれています。
伊藤 子どもの視点が欲しかったんです。正人は三十代半ばを過ぎているのに幼稚なところがあって、子どもからどんな大人≠ノ見えるんだろうと考えました。以前、児童文学の『ぎぶそん』に対して、十二歳の女の子からファンレターをもらいました。そこには「生まれる前のことが書いてあって、昭和の町並みを見たいと思いました」と書いてあり、ショックを受けました。僕にとっては、つい最近のこととしてとらえていた昭和が、十二歳の子にとっては未知の時代で、僕はもう若くないんだなと。とはいえ、大人だって子どもが考えているほど大人でもない。だからこそ大人と子ども、二つの目線から地方都市の人々を描こうという意図がありました。
―― 大都市で育った晶のJ市に対する最初の印象は〈退屈で仕方がなかった〉です。塾の夏期講習で忙しい友だちに、携帯でメールするのをやめて、父親の実態を調査し始めるようすが面白いですね。
伊藤 僕は、大阪から三重に十二歳で越したとき、本屋に行くのに長時間かかる環境にげんなりして、「二十歳になる前にこの町を出てやる」と考えていました。大都会でも大自然でもない中途半端な景色が苦手で。そして実際に二十歳前に上京してしまった。それで小説の中では、自分がやり残した、地方都市で暮らすという選択肢を描いてみたかったんです。二十代の頃は、自分の中にある地方色をひたすら削除していましたが、遠ざけていたものを懐かしむ気持ちが、最近は強くなっているのかも。『八月の路上に捨てる』で、惨めだった若き日の頃の経験について距離を置いて書いたように、この小説では中途半端な景色をあえて書いてやれって考えましたね。自分もその町で暮らすような気分で書きました。
 例えば離婚をして一人になったとき、どこの町で暮らそうかと、人は考えると思います。この主人公は故郷のJ市に戻りました。そして元妻が引き取っていた子どもがやってくると、どこで育てるかを考えるようになるわけです。けれど『フラミンゴの家』を書きながら、どこであっても、人と人がうまくつながりあっている環境で育てるのが一番いいんだろうなとわかったような気がします。「町」自体に良し悪しはない。町というのは、人間関係の背景に過ぎないというのが、書き終わっての感想です。
―― 人同士の関係性こそが、その人のバックボーンであると。
伊藤 小説を書いていると、自分が経験してきたことがはみ出してくるんですよね。二十代の頃は、はみ出すところを剪定していましたが、最近ははみ出し部分もいいものだと思うようになりました。特に子どもを育てるなんていう場合は、自分という人間をすべて見せるしかないんじゃないかって。駄目なところがあっても、そこまで含めて人間だし、そうしていろんな人とつき合っていかないといけない。東京では、意見が食い違ったら遠ざけたり、関係性を切り離して暮らしていくこともできますが、地方では、けんかしても翌日また顔を合わせてしまうものなんです。人間関係というのは、そう簡単にリセットできないんですね。僕なんかは結婚も一度リセットしてしまいましたが(笑)、最近、リセットできない関係の中で人が生きているのって、本当はすごく大事なことだと思うようになってるんです。
―― 意識の変化が起きたのはいつ頃ですか。
伊藤 三十代になってからです。北海道の祖父が亡くなり、十年ぐらい会っていなかった両親に北海道で対面し、お互いにほったらかしにしていた親子関係を否応なく見直すことになりました。十年間、しがらみから逃れ続けてとうとう捕まったなと思いましたが、捕まってみると、しがらみって悪いものじゃないと感じました。
―― たとえば離婚で家族が解体して、それぞれほかの人を好きになっても、過去を完全に忘れ去るのは難しいです。この小説でも、新しい恋人がいる正人の前に娘の晶がやってきたように、過去の出来事や関係者とどう折り合いをつけていけばいいのかは、必ず訪れる問題ですね。
伊藤 主人公は主体性がなく、出来事に応じて考える男です。でも、果たして人間は、主体性を持たないといけないのでしょうか。主体性を持っていないと生きていけないような国は、むしろ、いい国ではない気がします。主体性がなくても、問題に対して最善の選択をできるし、流されるような生き方でも、悲惨なものにはならないということを小説を通して示したかったのかもしれない。
―― この小説では、正人の恋人のあや子がキーパーソンですね。
伊藤 家の近所にあるお好み焼き屋のお姉さんから発想しました。生まれたばかりの子どもをあやしながらちゃっちゃっと働いていて、関西にはこういう店がいくらでもあったな、この人の名前はきっと「あや子」だろうなと勝手に想像して(笑)、小説に何気なく登場させました。すると、連載しているうちに彼女の存在感が強くなっていったんですね。そういうキャラクターってのはたまにいて、想定外の動きをするので扱いが難しいのですが、あや子は物語にしっくり馴染んでくれました。
―― あや子のおおらかさに、正人と晶の両方が救われています。
伊藤 突っ張って生きている男どもを、女性がさりげなく支えている図だと思います。あや子、晶、正人の母、元妻の翔子という四人の女性がいなければ、正人の生き方だっていい加減になるだけじゃないですか。この四人に叱られたり、男として守ってやらなくてはと考えることで、彼は大人になっていきます。男と女、大人と子ども、地方都市と都会という相容れないものが、がやがやと存在している中で生きていくためには大人にならざるを得ないし、大人になることはすごく大事なことなんでしょうね。
―― 今回の作品は、純文学ではなくエンターテインメントです。これから伊藤さんの小説はどう変わっていくのでしょうか。
伊藤 エンターテインメント、ヤングアダルト、純文学と書き分けてきて、これからは少し統一しようと思っています。母の影響で子どもの頃から純文学を読んできました。今も、自分への戒めで、夏目漱石や志賀直哉を読み返します。ただ、芥川賞をもらっておいて何ですが、純文学系の小説がひたすら新しい技法だけを試し続けるジャンルになってしまうとしたら、僕はその舞台からは降りたいと考えています。形なんて、僕にはどうでもいいんです。人を描けるかどうかが全てなんですよ。どの領域の小説でも、男女とは、親子とは、生きるとは、といった昔からあるテーマに格闘していかないと、小説を書く意味さえないと思ってます。だからいろんな作品を通して、この人は誰だろう≠ニいうことを知りたいですね。それだけです。
―― ご夫婦で小説家ですが(夫人は作家の角田光代さん)、書く上での影響はありますか。
伊藤 僕の場合はないです。ただ、奥さんは小説家の内部事情を知っているので、「ごめん、締め切り」と言うとすんなり理解してもらえるのが、いいところだと思います(笑)。作品で影響し合うことはありませんね。父親の自伝を読む気にならないように、家族になるとお互いに「小説家」ではなくなるようです。

(1月11日 東京・杉並区にて収録)

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